第三話 おいしい手のひら〜紅麹のピンクロールケーキ〜

第三話①

「ごちそうさま」

 大皿の野菜炒めがまだ半分以上残っているが、夫の和弥かずやが逃げるように席を立ったので、娘の瑠菜るなも「ごちそうさまでしたぁ」と手を合わせた。

「え? もういいの?」

 さかき透子とうこは口元を引きつらせ、箸でつまんだ玉ねぎを取皿の上に落とした。

「うん。お腹いっぱい」

 和弥は使った食器を重ねてキッチンへ持っていく。そんな父を見て瑠菜もプラスチックの皿を重ねて持っていく。五歳になったばかりの娘はこのところ、ひな鳥のように後ろについていき、父の真似をするのだ。

「おっ、瑠菜えらいなぁ」

 和弥は娘が差し出す皿を回収し、シンクの中へ入れた。すると、瑠菜は嬉しそうに笑い、抱っこをねだっていた。その様子を透子は苦々しく見つめながら、野菜炒めを食べた。わずかに冷めたキャベツとにんじん、ピーマン、玉ねぎ、豚肉の味がよく分からなくなってくる。薄かっただろうか、胡椒が足りなかったか。しかし、瑠菜のために味付けは辛くないようにしているし、いつもと変わらない分量で調味料を使っているはずだ。何度食べても透子にとってはこの味付けで問題ないと思う。だが、テーブルの上に置いた塩を少しだけ振って食べても問題ないように感じ、自分の味覚に不安を覚えた。途端に、目の前に広がる手料理が食品サンプルのように見えてしまい、おいしさを感じなくなってくる。とにかく手元にある野菜炒めとご飯を口に運び、胃の中へ無理やり流し込んだ。

 和弥はスマートフォン片手にソファで瑠菜の相手をしている。そんな彼に「今日のご飯、おいしくなかった?」とは訊けず、また娘の手前そんな話をするのも気が引け、透子は茶碗の米をかきこんだ。

「──ごちそうさま」

 そっと呟いてすぐ、残った野菜炒めを隠すようにラップをかけた。


 翌日、五月の大型連休が終わってもなお空は気持ちのいい快晴だった。午前中にもかかわらず日差しが強く、日焼け止めを塗って外に出る。瑠菜を幼稚園に送ったあと、近所で安いと評判の「青果店あきやま」で吟味していた透子はスマートフォンで野菜の鮮度の見極め方法を調べていた。

「はい、毎度ありがとうございまーす! またのお越しをー!」

 威勢のいい女性店員の声が店内に響く。赤ちゃんを抱いた若い母親が野菜を購入し、出入り口付近で手を振る、やたら背が高いうさぎの着ぐるみに手を振った。『青果店あきやま』はこの二人で経営しているらしいのだが、うさぎの中身を見たことがない。

 無言で赤ちゃんに手を振るうさぎを見ていると、唐突にうさぎがこちらを振り返った。思わず肩を上げ、すぐさまスマートフォンに目を向ける。すると、レジにいた女性店員がいそいそと近づいてきたのに気が付いた。

「何かお探しですか~?」

 右には女性店員、左にはうさぎの着ぐるみ。完全に逃げ道を塞がれ、透子は両方を交互に見やって愛想笑いを浮かべた。

「えーっと、おいしいきゅうりを探してて……」

「きゅうり? それならねぇ……ほら、太さが均一なものがいいのよ。でね、このブツブツがアイタタタって思うくらい尖ってたら鮮度抜群。はい、これどうぞ」

 同年代くらいの女性だがハキハキとよく喋り、きゅうりを手渡してくれる。確かに痛いくらいよく尖っている。左隣のうさぎは無言のまま透子の顔を覗き込むので、気まずくて仕方がなかった。そんな透子の心情もつゆ知らず、女性店員は人懐っこく訊いてきた。

「今日のお夕飯は何にするんですー?」

「えーっと……ポテトサラダと、とんかつ」

「あら、いいですねぇ。おいしそう。じゃあ、じゃがいもも買ってって。ね、いいやつ選んであげるから!」

 そう言うと女性店員はパタパタと大きなオーバーオールの裾をはためかせながら、じゃがいものカゴまで駆けていく。透子もその後ろを追いかける。うさぎはその様子を見ながら、店先の方へ出ていった。店の前を通る人たちに愛想を振りまいて〝客寄せうさぎ〟に徹している。

「あのうさぎさん、いつもああして客引きしてるんですか?」

 堪らず訊いてみると、じゃがいもを調べていた女性店員は顔を上げて笑った。

「そうそう。あれ、うちの旦那なんですけどね。見た目がちょっと怖いから、ああするしかなくて」

「へぇぇ……」

「えーっと、あった、はいこのじゃがいも! 男爵ならこれね、重みがあるのがいいのよ。メークインならこれ、大きいのがいいわ。いくついる?」

「じゃあ……男爵を四個ください」

「はいはーい。あ、あのね、ポテトサラダって実はメークインの方がなめらかにできて、おいしくなるんですって」

 女性店員がニヤリと笑いながら言うので、透子はゴクリと唾を飲んだ。これは、もしかするとメークインを選んだほうがいいのかもしれない。

「……それじゃあ、メークイン四個で」

「うふふ。そうしましょうね。はい、四個。いいのを選んでおいたからね! おいしいポテトサラダ作ってください!」

 邪気のない笑顔で言われるも、透子は「おいしい」という言葉にドキリとした。心臓がぎゅっとしぼむような感覚がし、口元に浮かべた笑みが引きつる。それを隠して会釈し、彼女が差し出すメークイン入りのビニール袋を受け取った。

 きゅうりとじゃがいもだけを購入し、店を後にした。うさぎが手を振ってくれるが振り返す勇気はなく、ペコリとお辞儀して逃げるようにスーパーまで駆けていく。そしてベーコンと卵、牛乳、豚肉をさっさと選んで帰宅した。

 おいしい料理を作るというのは、透子にとって至難の業である。もともと家事育児に興味がなく、二十代の頃は仕事一筋であり銀行の事務員をしていた。和弥に出会うまでは家庭というものに縁がないと本気で思っていたのだが、和弥に押されるまま交際、結婚してすぐ子供に恵まれた。そうして仕事を辞めて家庭に入ってみたものの働いていた時よりもあわあわと慌ただしく、日常生活がままならない。また、和弥も透子も結婚するまではお互い実家暮らしだったので、どうやって生活を回していけばいいのか手探り状態だった。

 和弥は瑠菜が生まれて最初のうちは早く帰っては沐浴まではしてくれていたものの、瑠菜が一歳になる頃には土日の休みの日しか瑠菜の相手をしてくれない。そんなことが続き、しばらくは口もきかないような生活も経験したが、今はそれもだいぶ落ち着いてきた。もっとも、瑠菜が幼稚園に入ってからは乳児の頃に比べて手がかからなくなったことが大きく、料理もレシピを見ながら落ち着いてできるようになってきた。また、3LDKのマンションの一室は三人暮らしの家族にはちょうどよいもので掃除や洗濯も一人でこなせるようになった。

 しかし、いくら料理する時間を捻出できたとしても上達することはない。母親の手料理はおいしく、何度も習いに行っているが、それでも夫や娘から「おいしい」と言われることはなかった。レシピに記載されている分量もきちんと量っているのに、家族が夢中で食事する光景をいまだ見たことがない。たまにファミリーレストランで食事する時の方が夫も娘も目を輝かせて完食するので、自信はどんどん失っていく一方だった。

「あ、瑠菜のお迎え行かなきゃ」

 もうすぐ幼稚園の時間が終わる。買ったばかりの食材を冷蔵庫に仕舞うと、野菜室に玉ねぎが入ってないことに気が付いた。

「しまった、切らしてたんだった……あぁもう、また買い物に行かなきゃ……」

 瑠菜を迎えに行ったついでにあの「青果店あきやま」に寄ろう。なんとなく気まずく思いながらも次の行動を考え、頭の中でシミュレートしながら買い物バッグと鍵、スマートフォンを手に取って家を出た。

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