第二話⑤
陽気な四月の初週、麗らかな風とともに桜の花びらが舞う。その日、雄二郎は珍しく昼休みに時間が空いたので、次の営業先へ行くついでに商店街の方面を散策していた。昔ながらのベーカリーショップでパンを買うのもいい。立ち食いそば屋も悪くない。うどん屋、定食屋……ファストフードは近寄りたくないが、牛丼屋の甘辛いタレのにおいにそそられる。しかし、どこも混んでいて次の営業先までに間に合う気がしない。
「仕方ないか」
雄二郎は商店街を抜け、まっすぐにあきやま青果店まで向かった。店先にはうさぎの着ぐるみが客に愛嬌を振りまいており、棗の元気な「いらっしゃいませー!」という声が飛び交っている。店は盛況らしく、とくに主婦が多い。
「どうも、こんにちは」
雄二郎はうさぎに向かって挨拶した。すると、うさぎが驚いたように両手を上げる。中に入っているのが真心であることはすでに周知であるが、来る度に思わず笑いがこみ上げてくる。
「今日も大変そうだね、真心さん」
そう言うと、うさぎはこくりと大きく頷いた。
「あら、今本さん、いらっしゃいませー!」
店の奥から棗が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「裏のお店は開いてるかな。腹が減ったんで、何か食べさせてもらえないかと」
「まぁまぁ、ぜひどうぞ! まーくん、私はこっち頑張るからよろしくね」
そう言って、棗はうさぎの背中をドンと叩いた。うさぎが前につんのめり、頭を抱えながら裏手にあるくるみ薬膳庵まで案内してくれる。うさぎは耳を玄関にぶつけながら入っていき、暖簾を取って戸口に引っ掛けた。そして、頭の被り物を取って汗だくなブロッコリー頭を出す。愛くるしいうさぎとは似ても似つかない真顔の真心が「どうぞ」とボソボソ言い、厨房へ向かう。雄二郎が席に座ると同時に真心がうさぎの気ぐるみから割烹着と三角巾姿に替えて厨房に立った。
「今日いらしてくれたということは、休肝日ですか。意外とよく続きますね」
「〝意外と〟って、一言余計だよ」
雄二郎は投げやりに言った。
「今日は何を作ってくれるんだい」
「そうですね……たけのこご飯を炊いてるので、しじみの茶碗蒸しと新玉ねぎの豚しゃぶなんてどうですか。付け合せになずなの春雨サラダも」
「じゃあそれで」
椅子に座りながらカウンターに肘をつくと、真心はさっそく調理を始めた。どうやらあらかじめ作っていたらしい茶碗蒸しを蒸し器に入れ、すぐに新玉ねぎの皮を剥く。その様子を眺めながら、雄二郎は無口な店主に話しかけた。
「そうそう。この前言ってた再検査なんだけどね、やっと結果が届いてさ。これがどうも『脂肪肝』だって」
「はぁ、そうでしたか」
「それにあの咳も、気管支が弱ってたかららしい。まったく、大げさに『再検査要請』って書いてるもんだから、妻がビビってねぇ。本当にあの時は家の中が重々しかった」
「そうは言いますけど、侮ってはいけませんよ」
真心は新玉ねぎをスライスしながら言った。包丁がまな板を叩く小気味いい音が響く中、雄二郎は頬杖をついて「はいはい」と面倒そうに返した。
「私ももう懲り懲りだよ。しかし、君も妻と同じようなことを言うなぁ」
「そりゃ、うちは薬膳庵ですから」
平坦に言う真心は、ふいに「あ、忘れてた」と声を上げ、作業の手を止めた。ヤカンの湯を透明な急須に移し、ロンググラスを用意する。そのぎこちない動きを見て、雄二郎は茶化すように噴き出した。
「それ、棗さんがいない時は困るんじゃない? なんならセルフサービスのお冷のマシーンでも置いとけばいいのに。あれを作ってる会社、紹介しようか?」
本日の中国茶を用意し、運んでくる真心に雄二郎は機嫌よく提案した。しかし、彼は不服そうに口を結んで唸るだけ。昨年の十一月にオープンしたというくるみ薬膳庵はまだまだきちんとしたサービスシステムが整っていない。それがアットホームな雰囲気を生み出すのは良いのだが、この店が繁盛した時は二人でやっていけるのか不安になってしまう。
「で、今日のお茶は?」
「あ、はい。今日のは
そう言いながら不器用な仕草で急須からグラスに熱い茶を注ぐ。急須の中で扁平な茶葉が開いていくのが見える。水色は薄い緑色で、日本茶となんら変わらないように思えるが、湯気から漂う香ばしさのおかげで先入観を払拭した。
「これも君のこだわり?」
「はい。これが一番美味しい飲み方です」
茶に口をつけると、すぐに苦味が広がる。渋い顔をすれば真心の口角が微妙に上がり笑っているようだった。
「料理と一緒に味わうと甘くなります。味が変わっていくので飽きずに楽しめますよ。急須の中身がなくなったら湯を入れますので言ってください」
そう淡々と説明して、彼はまた厨房に戻っていった。雄二郎はちまちまと茶をすすり、苦味に耐える。
あれから酒を控える日や飲みすぎた日は決まってこのくるみ薬膳庵に足を向けるようになったが、酒の付き合いは相変わらずで、とくに田沢への苛立ちが頂点に達した際は後輩とともに早瀬の家に押しかけることもしばしばある。しかし、少しずつだが家族との時間も見つめ直している。峯子も息子たちも相変わらず素直ではないが、それは自分も同じことであり、もはやお互い様だ。
「まぁ、好きなものだけが正義ってわけじゃないしなぁ……」
新玉ねぎの水気を切る音に乗せて、雄二郎はフッと軽く笑った。
【第二話 休肝日も怖くない〜菜の花と十六穀の粥〜 了】
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