第二話④

 帰り道、楊枝をくわえながら商店街を歩き、駅を目指す。日曜の朝はゆったりとしているようで、不安定な温冷の春風が通り過ぎていった。最後に言っていた真心の言葉を反芻する。

 酔った勢いで何を言ったのか記憶が曖昧だが、おそらく「死ぬ」と放ったのだろうと推測する。死んでしまう、どうせ死ぬ、もう死んでいるなどなど、思い当たる節があるのは昔、妻にも急死した前社長にも指摘されたことがあるからだ。

 四十を越えたあたりから健康診断で引っかかる項目が増えていき、病院嫌いな雄二郎はそのたびに落ち込むのだが、生活を改善しようという気はなかった。人間はいつか死ぬ。それが早いか遅いかの違いであり、どうせならアルコールで気分の良いときに眠ったまま死んでいきたいと思っていた。それを言うと妻は「馬鹿なこと言わないで!」と金切り声を上げるのだが。

「……余計なお世話だよ。まったく」

 三年前に前社長が目の前で倒れてそのまま還らぬ人になってしまったことがきっかけで、ますます悲観的になった。

 前社長は人柄は良かったが、田沢を後継者にしようと話を進めたあたりから、一部の社員の信用を失っていった。それまでは早瀬とも仲が良かったのだが、おべっかがうまいだけで大した成績を残さない田沢を推すようになってからは魅力がなくなった。盛者必衰と言い表すのがふさわしい。あの死は必然だとは言いたくないが、後を濁すような最期に居合わせたせいで悔しさはなく、恐怖を刷り込まれたと地味に恨んでいる。あの生々しい現場が時折、夢に出るのできっと心の底では恐れているのだろう。

「まぁ、そうだよなぁ……俺はもう長生きできなそうだし、どうせすぐ死ぬ……」

 また口癖が飛び出し、ハッとする。先ほど真心から釘を刺されたのに、思考がマイナスな方向へ舵を切っていたことにげんなりとし、重たい足取りで家路へと向かった。


 下町の裏路地に今本家はある。中古の一軒家は前時代的な瓦屋根であるが、秋山夫婦の家よりはまだ新しいモデルのもので、長男が小学校入学したのをきっかけに引っ越してきた。玄関の格子を開けようとしていると、背後で自転車がキィっと急ブレーキをかける音がした。

「父さん!」

 そう呼ぶのは中学二年の次男、雄馬ゆうまだった。

「探したんだぞ! 朝になっても帰ってこないし、電話にも出ないし!」

「あぁ、悪い……なんだ、探してくれたのか」

 雄二郎は目をしばたたかせながら訊いた。雄馬は形のいい太眉を二時五十分の角度にさせ、かなりご立腹のようだ。大方、母から「探してきて」と頼まれ、嫌々ながら周辺を自転車で駆け回ったのだろう。

「ったく、本当どうしようもねぇな」

 反抗期真っ盛りの荒々しい口調に、雄二郎は顔をしかめたが何も言わなった。雄馬は「フン」と鼻息を飛ばすと、父を追い越して家の中へ入りと母に大声で呼びかけた。

「母さーん、父さんいたよー」

 一方、雄二郎はさらに気が滅入っていた。いっそ、もう一度外に出て行こうかとも考えるが、そうこうしているうちに妻の峯子が洗濯かごを持ったままスリッパを鳴らして玄関にやってきた。

「あら、帰ってたの」

 白々しく冷たい声で出迎えられる。

「ただいま」

 反射的に答えると、峯子はため息をついて脱衣所へ向かった。

 雄馬はリビングでテレビを見始めており、長男の景斗けいとは部屋にこもっているようだった。驚くほどいつもと変わりない我が家だ。

 雄二郎は背広を脱いでリビングに入った。カバンを廊下に置いたままにし、キッチンへ行く。グラスに水を注いで飲みながら、ワイシャツのポケットに入れたスマートフォンを見た。購読しているアプリ漫画の更新を知らせる通知の上に峯子と景斗、雄馬からの電話やメッセージがいくつか並んでいる。

「雄馬ー」

 思わず言うも、雄馬はあくびをしながらバラエティ番組の再放送を見ているだけで返事をしない。それでもなお話しかけてみる。

「お前、やっぱり父さんのこと心配してたのか?」

「はぁ? んなわけねぇだろ。母さんがうるさいから電話してやっただけで、俺は別にどうでもいいし」

 すぐにひねくれた答えが返ってくる。雄二郎は「だよな」と苦笑いした。それを聞いていたのか、峯子が洗濯物を抱えながらリビングへやってきて刺々しく言った。

「違うわ。馬鹿ね。私は景斗に言われるまで気づかなかったから。それに、昔みたいに警察から電話かけられても困るからね」

「じゃあ、なんだ。景斗だけしか俺の心配してなかったってわけか」

「うん、そうじゃない?」

 峯子は冷たく言うと、そのままリビングの窓を開け放って庭に出た。洗濯物を大きく振ってシワを伸ばし、せっせと物干し竿にかけていく。

「兄ちゃんも別に心配してなさそうだったけどねー」

 雄馬が冷やかしたっぷりに言った。一体、誰が本当の話をしているのかさっぱり分からない。ともかく、家族全員に心配と迷惑をかけたことには変わりなく、雄二郎は気まずい思いのまま自室に向かった。

 確かに、結婚したばかりの頃は飲み過ぎで道端に潰れていたり、他の客と喧嘩する上司と一緒に警察の厄介になったりと散々迷惑をかけていたので峯子が気を揉むのも当然である。息子二人はどうだか分からないが、母の指示に従うところ父のことを少なくとも心配しているらしいことがうかがえた。

 雄二郎は部屋着に着替えたあと、なんとなく景斗の部屋のドアをノックした。

「景斗ー。ごめんな、迷惑かけて」

 ドア越しに話しかけると、景斗は「うーん」と適当な返事をする。息子たちとも滅多に会話しないのでなんだか照れくさくなり、雄二郎はそそくさと自室に戻って寝直すことにした。素直になって話をするというのはどんな大口の仕事を取るよりも難しく、そう簡単に今までの自分を曲げられないので、きっと死ぬまでできないだろうと思っていた。

 雄二郎は寝返りを打った。そして、リビングの外に置き去りにした自分のカバンを唐突に思い出した。あの中には仕事の書類やらどこかの店でもらったチラシや、飲み屋の名刺なんかが詰め込まれている。それらと同じく無造作に突っ込んでいた健康診断の検査結果を思い出した。もう随分前に受け取ったものだったが、最近とくに咳が多くなったことで余計にあの結果を表に出すのを躊躇っていた。肝臓に疾患があるようで、再検査を要請するようなことが書かれてある。これを誰にも言わず、無視しているのだが……

「ちょっと、あなた! 何度も呼んでるのに!」

 唐突に部屋の戸が開き、目くじらを立てた峯子が現れた。眉間にシワを寄せて怒鳴る妻に、雄二郎は思わず飛び起きて布団を引き上げた。

「な、何? なんだよ、二日酔いで疲れてんだぞ」

「そんなの知ったことじゃないわ。あなた、お昼はどうするの? 食べるの?」

「今から寝るのに食うわけないだろ」

 峯子は鼻を鳴らした。若い頃に比べて体の締りは悪くなったが、口うるささには磨きがかかっている。こんな風に怒られるから話したくないのだが、その原因を作っているのは自分であるとわずかながら反省している。

「あぁ、そうだ。あなた、自分のカバンくらい部屋に持っていきなさいよ。あんなところに置かれると邪魔でしょ」

「うるさいな。分かってるよ」

「もう! 何が入ってるのよ、こんなに重たいもの……」

 どうやら峯子は雄二郎のカバンをわざわざ持ってきたようで、重たそうに抱えている。そして、ドサッと床に置いた。そのはずみでカバンの中身がひっくり返っていく。当然、再検査の通知票も流れ出てしまい、雄二郎はベッドから下りた。

「おい、何やってんだよ!」

「重たかったのよ! わざとじゃないわ」

 峯子は謝りもせず、しゃがみこんで書類を拾い上げた。雄二郎も慌てて荷物を拾い上げようとするも、峯子の手が再検査の通知票に伸びていってしまう。

「なにこれ」

 峯子は片眉を上げて怪訝そうに言った。探るような目つきで睨まれ、雄二郎はもう隠し立てすることができなくなり観念した。

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