第二話③
下へ降りるとまっすぐに差し込む陽の光に目が眩んだ。暖簾の向こうには灰色の三和土と、ラーメン屋のような手狭なカウンターと厨房だけの内装だった。カウンターには一昔前のレジスターや固定電話、ラジオ、なぜかうさぎの着ぐるみと思しき頭があり、壁には品書きが一切なく、『青果店あきやま』の看板と『中華料理店小枝』の広告、タクシーの電話番号が記載された古紙が無造作に貼ってある。厨房からはもくもくと煙が立ち上っており、その中で真心が割烹着と三角巾に身を包んで鍋の様子を見ていた。どうやら棗に言われた通り朝食を用意しているらしい。雄二郎は慌ててカウンターに身を乗り出した。
「あ、結構です! もう帰りますんで!」
「そう仰らずに。二日酔いでお疲れでしょう」
棗が優しく言う。
「それに今日は日曜日ですし、お仕事がお休みならゆっくりされても」
「そんなそんな、これ以上ご厄介になるわけには」
慌てて言うと、ふいに空咳が飛び出した。忘れていた頃にやってくる喉のかゆみと内臓の調子はずれ具合に辟易する。これに棗が「あららら」と驚き、慌てて厨房に入ってグラスに水をそそぐ。この手際の良さに雄二郎は素直に感謝した。
「どうも」
「いえいえ。やっぱりゆっくりしてってくださいな。落ち着いてからお帰りになられて。実際、もうこんな時間ですし、奥様に怒られちゃうのは仕方ないですよ」
棗はおどけるように言うと、壁にかかった時計を指した。現在、午前八時。確かにこんな時間に慌てて帰っても妻の機嫌を取ることはできないし、気まずいだけだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
雄二郎は水が入ったグラスを持ったままカウンター席に座った。椅子は寿司屋のような角ばった升のような形であり、小さな背もたれはほとんど腰を支えているだけのものだ。たっぷり肥えた体を支えられるのか不安に思ったが、意外としっかりした造りですぐに馴染んだ。
厨房からクツクツと煮立つ音が聞こえてくる。真心は都度、味を見ながら食材を足している。その横では棗が食器の準備をし、テキパキと周囲を動き回る。
雄二郎は水を飲みながら店の中を見た。こんな店があったなんて知らなかった。隣にコインランドリーがあるということは、会社からも近く、飲んでいた居酒屋も徒歩圏内であることをぼんやりと悟る。自宅は二駅隣なので近所とは言い難いのだが、冷めた家よりも会社にいることが多いので、周辺に何があるのかくらいは把握していたつもりだ。
「今本さんはどんなお仕事をされてるんですか?」
棗がレンゲとカスターセットを用意しながら訊いてくる。
「あぁ……営業の仕事です。主に電子部品を作ってます」
「へぇ、電子部品」
棗は呆けたように返した。あまり興味がなさそうだ。
「と言っても、会社の経営はうまくいってないんですよ。毎年赤字だし、とりあえずノルマこなせば御の字。社長が変わってからはとくに、やることが増えて……」
そこまで言って押し黙る。会社の愚痴をここで言うのは憚られた。慌てて水を飲むと、胃の中が嫌な痛み方をした。
「ところで、秋山さんたちはどうしてこの店を?」
話を変えようと明るげな声を出すと、棗がすぐに答えた。
「疲れたお客さんを優しくおもてなしできるように開いたんです」
いかにも客受けする百点満点の答えに、雄二郎は「へぇ」と愛想笑いで相槌を打った。
青果店の傍ら、薬膳庵などという店を開く意味がよく分からない。共通しているのは食べ物であるが、今時の若者が開く店にしてはこじんまりとしすぎており、客を呼び込む工夫が足りない。そんな訝りを悟ったか、棗はヤカンからポットに湯を注ぎながら言った。
「私、ここから三軒隣の『中華料理店小枝』の娘なんですけど、それで薬膳の食材を調達できるので」
「その店なら何度か行ったことがありますよ。あんかけうどんが絶品なんですよね」
小枝名物、たっぷり濃い醤油ベースのあんかけうどんを思い出す。もう何年も行ってないが、若い頃は早瀬と一緒に通ったものだ。
「あそこの大将、まだお元気なんですねぇ」
「ありがとうございます。おかげさまで元気すぎて。少しは休んでほしいくらいです」
棗はくすぐったそうに笑い、ポットの様子を見た。
「それで料理上手な夫に、うちの父が『店でも開いたらどうだ』って言ったんです。まぁ、半分趣味みたいな?」
「はー。『趣味』ですかぁ」
雄二郎は仰け反って驚いた。趣味で仕事をするのか。信じられない。バブル期の煽りをもろに食らって生きてきた身としては些か共感に欠ける動機だった。それがどうやら不機嫌に捉えられたのか、棗はわずかに頬を引きつらせた。わざとらしく咳払いし、ポットと湯呑みを雄二郎の前に置く。
「どうぞ、あったかい
そう言ってポットから黒色の茶を湯呑みに注いだ。雄二郎は「あぁ、どうも」と返し、普洱茶を一口飲んだ。芳醇な味が広がり、喉へ流すと痒みが引いていくような気がした。聞き馴染みのない茶だったが、意外にも飲みやすかったので安堵する。
「うちは、お客さんの体調に合わせてお茶やお料理を出してます。普洱茶は代謝をよくしてくれる作用があって、アルコールを分解してくれるんです」
「ほう、そいつは知らなかった」
雄二郎は素直に感心した。趣味で開いている店にしては意外と本格的じゃないか。
「それで、真心さんは何を作ってるんです?」
訊いてみると、真心は無言のままで頷くと火から土鍋を下ろした。そして、カウンターにどっかりと土鍋を置く。すかさず、食欲をそそるおいしそうな匂いが漂ってきた。
真心はカウンター側にきて、土鍋のフタを開けた。ほんのりと赤褐色に色づいた粥だ。中央には鮮やかな緑色の野菜が彩られている。小豆や松の実が散らされていて華やかだ。
「菜の花と十六穀の粥です。生姜とネギで風味をつけています。菜の花は自家製の漬物を使いました」
ようやく真心が口を開き、料理の説明をした。ありあわせで作ったのかそうではないのかよく分からないが、料理人としての仕事をきちんと果たしているようであり、雄二郎は先ほどまで抱いていた疑心を取っ払った。しかし、「菜の花かぁ……」と、つい暗い声が飛び出す。横で碗に取り分けていた真心が不思議そうに雄二郎を見た。
「あ、いや。菜の花って苦いでしょ? 俺、子供の時に食って以来、受け付けなくて」
「そうでしたか……すみません」
真心の声も暗くなっていく。心なしか落ち込んでいるようで、碗の中に落とした粥を悲しそうに見つめる。雄二郎は慌てて取り繕った。
「食べる! 食べるから!」
彼の手から碗をもぎ取るように手を伸ばすと、真心は「待ってください」と引き留めて土鍋の底から太めの細長いキノコを引き上げて粥の上に落とした。すると彼は満足そうに頷いた。
「どうぞ」
そう改めて言われると、なんだか気恥ずかしくなり雄二郎は苦笑いして粥を自分のもとへ引き寄せた。横では真心が棗の分をよそっている。自分の妻にそういうことができる彼のことを引いた目つきで見ながら粥にレンゲを入れてすくった。よく冷まして大きく口を開けて頬張ると、生姜の強い香りが鼻腔を駆け抜けた。その後を追いかけるのは刻んだ白ネギの風味。思い切って菜の花の蕾を噛めば苦味とえん味が広がるも、すぐに粥の甘みによって口当たりがまろやかになっていく。香りもよく、爽やかな柑橘を感じた。
「……意外とイケるな」
思わずつぶやくと、横で秋山夫婦がじっとこちらを見ていた。
「お口に合ってよかったです!」
すぐさま棗が華やいだ笑顔を見せる。
「うん。まだ若いのにこんなうまいものを作れるなんて、びっくりしました」
「ありがとうございます!」
棗が嬉しそうに言うと、真心も口角を上げて薄っすらと微笑んだ。そして、自分もレンゲで粥をすくって食べる。棗も元気よく「いただきます!」と合掌して粥を頬張った。
しばらく三人並んで静かに粥を食べる。ピリリとした生姜も慣れれば舌に馴染んでいく。また、小豆や穀物と一緒に含めば味に変化があり飽きがこず、すいすい食べられた。また、ほんのりと薄い味付けが胃を刺激せず、とても優しい。粥なんて食べたのはいつぶりだったろう。
まだ若い頃、風邪を引いて寝込んだ夜に妻が作ってくれた卵粥をふと思い出す。まったく味のないもので、この粥とは比べ物にならないくらい不味かったので口論になった。脂っこいものや味の濃いものが大好物だから、余計に薄く感じたのだろう。今にして思えば、妻は自分の体を気遣ってくれていたわけだが、素直に感謝することができなかった。
雄二郎は黙々と粥を食べ、あっという間にたいらげた。
「おかわりありますよ」
真心が言う。雄二郎は咄嗟に碗を差し出した。
「気に入っていただけて良かったです」
彼は満足そうに言うと、土鍋からほかほかの粥をよそった。
「菜の花が意外とイケたよ。案外食べやすかったんだな……知らなかった」
「塩ゆでしたあとに昆布と柚子皮で漬けました。お米と相性がいいので、この時期はよく作ってるんです」
真心の脇から棗がひょっこりと顔を覗かせて補足説明する。
「なるほど、柚子か。どうりで柑橘の香りがすると思った」
「きっと、子供の頃と味覚が変わったんですよ。そういう経験、ありません?」
棗の言うことはもっともだ。子供の頃は頑として食べなかったものが、いつの間にか馴染み深くなっている。例えば、ピーマンや牛肉、モツも食べられるようになり今では欠かせない酒のつまみだ。同時に脂っこいものや濃い味付けがだんだん受け付けられなくなってきた。整腸薬も欠かせなくなっている。つらい二日酔いに、この目が覚めるような粥は確かにうってつけだった。
「菜の花には解毒の作用があります。今本さんは二日酔いだけでなく、他にも心配事があったようなので少しでも助けになればと」
真心が碗を差し出しながら言う。それを受け取り、雄二郎はなんだかバツが悪くなって「あぁ」と声を落とした。自然と視線が腹にいく。雄二郎はため息をつき、気を取り直して粥を頬張った。
「この、エノキみたいなのは?」
焦げがついたような茶色のキノコが気になり、訊いてみる。
「味エノキです。新潟県産のものを仕入れてます。白エノキより、ぬめりとコクがあるんです」
そう説明するのは真心だった。すっかり食べ終わった彼は土鍋の底についた米をこそげ取っている。
「ふうん。初めて聞いたなぁ」
「最近ではスーパーなどの市場にも出回ってますよ」
「スーパーにもなかなか寄り付かないもんで」
雄二郎は鼻で笑いながら返した。
「あら、じゃあお家は奥さんに任せきり?」
棗が食いつく。
「そうですねぇ……なんですっけ、最近流行ってるの。イクメンだかなんだか」
「今本さん、お子さんいらっしゃるんです?」
「えぇ。長男が、えーっと高二かな。次男が中二で。子育てなんかも妻に任せっきりで」
そう言うと、棗は「そうなんですかぁ」と口では笑いながら呆れた様子を見せた。
「いやでも、夏休みや冬休みはちゃんと家族で出かけますよ。それくらいはね」
「まぁ、それくらいはねぇ。でも、うちのも似たようなものですし。男の人って仕事とお酒のことしか考えてないんですねぇ」
やや棘を含んだ棗の言いように、雄二郎はもう何も言うまいと碗をかきこんだ。横では土鍋をこそげ取る真心の目がどんよりと曇っており、思わぬ飛び火に心を痛めている様子だった。同情してしまう。
無言で食べすすめていけば、すぐ空になった。満足して無意識に爪楊枝を探していると、真心が棗の前に置いてあったカスターセットを移動させた。「どうも」と言いながら爪楊枝を取る。
「ごちそうさん。のんびり朝食を食べたのは久しぶりでした。えーっと、おいくらで?」
席を立ってカバンをつかむと、真心も土鍋を持ったまま立ち上がった。
「お代は結構です。まかないみたいなものと思ってもらえれば」
そう言って彼は厨房に引っ込み、土鍋を洗い始める。ぶっきらぼうなその背中を見やり、雄二郎は拍子抜けした。
「そうですか……じゃあ、お言葉に甘えて」
釈然としないながら答える。いたれりつくせりのもてなしが、やはり奇妙でなんだか急に怖くなった。
「助けてもらっといてなんだけど、どうしてここまでのことを? 見ず知らずのこんなおっさんを拾って、朝飯まで作ってくれて」
思わず問うも真心は背を向けたままなので答える素振りがない。すると、例のごとく棗がきちんと手を合わせて「ごちそうさまでした」と言って、優しい微笑みを向けてきた。
「ただの超お人好しですよ」
返ってきた言葉はとてもシンプルで分かりやすいが、どうにも信じがたい。
「あとで多額の金を請求したりしない?」
「するわけないじゃないですか! んもう、今本さんったらビビリすぎですよ。そんなことを考えながら食べてたんですか?」
「あ、いや……そういうわけじゃなく。なんか……」
人から親切にされることも久しぶりだったから、とは言えなかった。すると、土鍋を洗い終えたのか真心が厨房から出てきた。
「棗、そろそろサウルスレンジャー始まるよ」
「あ! ほんとだ! すいません、今本さん。またいらしてくださいねー!」
慌ただしく声を上げる棗は挨拶もそこそこに二階の部屋へ一目散に向かった。真心が「やれやれ」と言わんばかりに腰に手を当てる。
「ははは、本当に賑やかな奥さんですね」
思わず言うと、真心は照れくさそうに唇を真一文字に結んだ。最近の若者は皮肉が通じないらしく、雄二郎はやり場のない笑いを引っ込めた。背広に袖を通し、カバンを抱えて店の戸を開ける。真心もその後ろに控え、見送ってくれるようだ。
「それじゃ、ありがとうございました」
「はい。またいつでもいらしてください」
その言葉に、雄二郎は素直に「はい」と返したが、次も来ようとはあまり考えていなかった。すると、真心が付け加えるように言った。
「あまり飲み過ぎないでください。春とは言え、まだまだ冷えます」
「……ですね、ははは」
「あと、〝死ぬ〟なんてすぐ口に出すのも良くないですよ」
雄二郎は首をかしげた。唐突な言葉に頭がついていかない。だが真心はそれ以上の説明をしなかった。なんとも尻すぼみな幕切れになってしまい、雄二郎はそそくさと会釈してくるみ薬膳庵を出た。
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