第二話②

 青年は無表情で口をぽっかり開いて「あっ」と声を上げる。雄二郎は喉の奥が酸っぱくなっていく感覚に陥った。ここが知らない若者の家だったことに驚き、また情けなくなり、さらには激しい焦燥が走る。気まずい沈黙後、雄二郎は目にも留まらぬ速さでその場にひざまずいた。

「すみませんでしたぁっ!」

 土下座すると頭の上から青年の「えぇっ」という驚愕の声が落ちてくる。

「いや、あの、覚えてませんか、昨日のこと」

「はい? 昨日のこと……私、何かとんでもないことしましたかね? あ、もしかしてお宅の前で寝てましたか。申し訳ございません! 人様の家に勝手に上がり込むことまではしていないと思うんですが、記憶になくて」

 生まれて四十七年で身についたのは、このオーバーな謝罪方法のみである。情けなく青年の足にすがりつくようにして弁明すると、彼は困ったように目をしばたたかせた。変わらない表情のまましゃがみ、雄二郎と目線を合わせてくれる。

「いえ、俺が勝手にここまで運びました。今日、会社がお休みのようだったので、起きるまで放置してたんですが……」

 そう言って彼はモゴモゴと「驚かせてすみません」と頭を下げた。


 その青年は秋山真心と名乗った。昨夜この秋山家の隣にあるコインランドリーの入り口で座り込んで眠っていた雄二郎を背負い、家まで運んで寝かせたらしい。その様子を詳しく聞けば己のみっともなさに失望し、頭を抱えてしまった。

 いくつか質問をされたらしいが、まったく覚えていない。どれも要領を得ない答えを繰り出していたそうだが、その中で「明日は休みだから大丈夫」という言葉は何度か口にしていたそうだ。そして、真心は雄二郎を家に連れ帰り、祖母の部屋で寝かせていたという。警察沙汰にならずに済んで良かったと心底思うも、真心に多大な迷惑をかけたことは帳消しにならないので終始、羞恥に耐えるしかなかった。

 ──しかもこんな若者に迷惑をかけるなんて。

 長身でスレンダーな真心の奇抜なヘアスタイルと整った髭、仏頂面な上、寝間着とは言い難い蛍光グリーンのラインが入ったロングパーカーとスキニーという出で立ちに萎縮してしまう。

「なんだか、ちぐはぐだね。見た目とこの場所が合ってないように思えます」

 つい笑い混じりに言うと、真心は眉根を寄せた。気を悪くしたかもしれない。

「いや、失礼。秋山さんがなかなかカッコいいもんだから、こんな古い家に住んでるのがどうにも奇妙で」

「あ、いえ……よく言われます」

 真心は平坦に答えた。愛嬌をどこかへ置き去りにしたのだと言われても納得できるほどの無愛想であり、言動もそっけない。真面目な堅物という言葉がお似合いだが格好がパンキッシュなので、やはりちぐはぐに思えて仕方なかった。また会話が続かないので雄二郎は笑い続けるしかない。しかし、空咳のせいで噎せてしまい、顔をそむけた。

「大丈夫ですか?」

 真心が訊く。

「最近はずっとこうでね。まったく困ったもんです。すみません、お邪魔して」

 そう言いながら部屋を出ようとすると、今度は寝ぼけ眼の女性と鉢合わせた。

「えっ」

 色白で丸顔の彼女は、両目を大きく開かせて口をあんぐり開けた。先程の真心と同じくその場で固まる。

「あ、妻の棗です」

 後ろから真心がしれっと紹介した。棗というその女性もロングパーカーであり、こちらは日曜朝に放送されている子供向け戦隊番組のキャラクターが描かれていた。どことなく幼く見えるも、真心と同年代のように思える。棗は顔を隠して後ずさった。

「やだ、すっぴんなのに! ちょっと、まーくん、どういうこと!? またどこかで飲んで意気投合した人を連れ込んだの!?」

 真心とは真逆の大騒ぎっぷりである。一方の夫は硬い表情でボソボソと呟いた。

「……ごめん」

「もう! そういう時は連絡してって言ってるでしょ! あーもう、すみませんねぇ。うちの人が無理を言って」

「はい!? いえ、違います違います!」

 慌てて言うも、棗は聞き入れることなく、背後で正座する真心に怒鳴った。堂々とした佇まいの真心だがどことなく後ろめたそうである。そして、この板挟み状態がつらい雄二郎はどうすることもできず、その場に立ち尽くしていた。

 こういう場面が今や懐かしく思える。昔は妻の峯子みねこも朝帰りした雄二郎の前で仁王立ちし、こんこんと説教をしていたものだ。グロッキーな気分でなんとか家まで戻ったというのに、やかましく怒鳴られては耳が痛くなりつい一言怒鳴り返して寝室に潜ったものだ。それでも妻の機嫌はおさまることはなく、昼食も夕食も口論することがしばしば。今ではまったく顔を合わせない週末が多くなった。結婚して二十二年、夫婦間は冷え切っており心の拠りどころはない。だからか、この若夫婦を見ていると次第に微笑ましくなってきた。棗がバタバタと自室に戻っていったところでようやく静かになる。

「すみません、驚かせてしまって」

 真心がボソボソと言った。

「いえ、元気な奥さんですね……」

 振り返って言うと、真心はわずかに口角を上げて頷いた。

「はい」

 あんなにガミガミと怒られていたにもかかわらず、本人はまったく動じずにケロッとしており、むしろ怒る妻に対して「元気だな」とほのぼの考えているのか。これに雄二郎は呆れて苦笑した。そもそも、家の横で寝落ちた自分を拾って、妻に内緒で自宅に寝かせているくらいお人好しなのだから、彼女の怒りさえも広い心で受け止められるのだろう。若いのに感心だ。その余裕ぶりが羨ましくなるも、自分はこうなれないと簡単に諦める。雄二郎は改めて会釈し、今度こそ帰ろうと足を踏み出した。

「では、私は失礼します。後ほどお詫びをさせていただきたいので、ご連絡先だけでもお教えください」

 そう下手に出て言いながらカバンの中に突っ込んでいたはずの名刺入れを探る。

「えっと……あれ? おっかしいな……どこにやっちまったんだか」

 苦笑いしながら慌てふためいていると、真心が無言で立ち上がった。そして雄二郎の脇をすり抜けてスタスタと廊下を歩いていく。

 取り残された雄二郎は眉根を寄せ、真心が向かった先を見やった。ここもやはり古い造りであり、細長い廊下を歩くだけでギシギシと床板が軋むほど年季が入っている。窓枠もぼろぼろで、ところどころガムテープで割れ目を補強しており、窓には前時代的な曇りガラスがはめ込まれていた。ふすまの部屋から近いところに洗面所があるようで、棗が顔を洗っていると思しき水道の音が響いてくる。反対方向には部屋がいくつか並んでおり、突き当たりの開け放されたドアの向こうには居間のようなスペースが見えた。その真横にぽっかりとした空間があり、下へ続く階段がある。雄二郎は棗に挨拶せずに恐る恐る廊下を進んだ。いくつかの部屋の前を横切り、階段まで行く。珍しいタイプの家だなと考えていると、階段の下から真心が背を折り曲げながら薄っぺらい紙を持って上がってきた。

「これ、どうぞ」

 三段低い位置でも雄二郎と同じ目線で話ができる高身長の彼に、雄二郎は「はぁ」と気の抜けた声を返してフライヤーを受け取った。

「『青果店あきやま』……なるほど、下はお店ですか」

 あたたかみのあるフライヤーを見て雄二郎は合点した。真心がゆっくりと頷く。

「もう、まーくん。また言葉足らずなんだから」

 横から棗が口を挟む。どうやら軽く身支度を済ませたようで、赤と白の細い縞模様が入ったニットとキルトのようなロングスカート姿で現れた。彼女は雄二郎が持っているフライヤーをひっくり返させて後を続ける。

「うち、この表では青果店やってるんですけどね、裏のこっちでは『くるみ薬膳庵』っていうお店をやってるんです」

「薬膳庵?」

「はい! 漢方とか中医学とか、そういうのを扱った薬膳料理を出す店です」

 棗の説明を受けても雄二郎は首をかしげた。

 薬膳料理──聞いたことはあるが、具体的にどんな料理なのか頭の中で形を思い浮かべるも、奇妙な形のニンジンや土がついた根っこのような生薬を描き出すだけで、具体的な料理名は分からない。まじまじとフライヤーを見ていると、棗があくびをした。そして、夫に向かって厳しく言う。

「まーくん、最後までちゃんとお見送りしなさいね。そうだ、朝ご飯も食べていってもらおうよ。無理やり連れ込んだお詫びをね……」

「あ、奥さん、それ誤解」

 棗の誤解を解くべく、雄二郎はすぐに声を上げた。棗が首をかしげ、夫の顔を見やる。一方で、真心は弁明しようという気がなく階段の下へと徐々に消えていく。

 ──おいおい、なんで逃げるんだよ!

 雄二郎は内心で若干の面倒くささを感じ、苦笑いをたっぷり浮かべて棗に説明した。彼女は真心と違って聞き役にも話し役にも適しており、とても話しやすい人だった。

「……そんな感じで、旦那さんには助けられまして。いやはやご迷惑おかけしました」

「なぁんだ、そうだったんですねぇ。言ってくれれば良かったのに。無駄に怒っちゃいましたね」

 棗はあっけらかんと笑った。そして腕を組んでは、わずかに呆れた様子を見せながら雄二郎に苦言を呈した。

「三月とは言え、外で寝ちゃうなんて良くないですよ。主人もね、仕事が終わったら近所の友達とか、商店街のおじさんたちと飲みに行っちゃうんですけどね」

「それは意外。真心さん、酔い潰れなそうなタイプに見えるけど」

「はい、それは間違いないです。まったく潰れないんだけど、むしろ潰れた人を連れ込んじゃうんです。あれはもう癖ですね。人がよすぎるんですよ、もう」

 棗は口に手を押し当てて笑った。それは何だか惚気自慢をしているようであり、雄二郎は作り笑いで「へぇ」と相槌を打った。棗はなおも惚気が止まらないらしく、声を落として言った。

「ああ見えて、結構寂しがり屋で。みんなとワイワイしたいのにあの仏頂面でしょ? 自分がいい気分になった頃にはすでにみんなが潰れてるとか、よくあります。うっふふ」

 なるほど、誰かと酒を飲んだ帰りに、家の真横で潰れている五十路間近のおじさんを見かけて拾うのは必然だったのだ。その割には会話が弾まないし、何を考えているのかさっぱり分からなかったが。ひとまず話が整ったところで、雄二郎は棗とともに階段を降りた。二日酔いはまだ残っていて胃腸の様子が悪いが無視する。一刻も早くこの家から出なければならないと気が急いていた。

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