第二話 休肝日も怖くない〜菜の花と十六穀の粥〜
第二話①
──あぁ、ここで終わる。俺の人生、ここで終わる。
体は脂肪にまみれ、頭髪も寂しい冴えない中年が道端で転げ、アルコール中毒で死ぬ。そんな格好悪い人生の幕切れを甘んじて受け入れようとする。走馬灯というものはうまく機能せず、ただただ虚しさだけが体内を縦横無尽に巡る。いや、もしくはアルコールが巡っているだけなのかもしれない。
三月中旬、静まる夜の外気は冷たく、まるで水中に放り出された気分で、それでもなお頭の中はふわふわとしていて、脳みそだけが宙にぷかぷか浮いているような錯覚をする。このまま意識を飛ばし、死んでいけたらいい。きっと、部下や上司は嘆くだろうがそれも仕事の進行を気にしているだけだろうし、妻も子供も夫が死んだ、父が死んだと連絡を受けても平然としているに違いない。
「よーし、生まれ変わったら、髪がフッサフサの、超絶イケメンになってやるぅ」
死んで異世界転生するのもアリかもしれない。次の人生では高スペックで生まれ、悠々自適な生活を手に入れるのだ──と、最近読んだアプリ漫画を思い出しながら決意するもすぐに冷めた。
「……はぁ、くだらねぇ」
雄二郎は三月の寒空をぼんやり眺めながら、自身の情けなさを鼻で笑った。
何をしてもつまらない人生だった。心からそう思う。幼少の頃、親にからかわれたからプロ野球選手になるのを諦めた。中学の頃、教師に殴られたから勉強が嫌いになった。社会人になってからは周囲の人間に恵まれ、妻と出会い子も生まれたが、業績は伸びず後輩に追い抜かれて仕事に手を抜くようになった。なんだ、きちんと走馬灯というものが働き始めているではないか。とは言え、この諦め癖の根源を探ったところで何にもなりやしない。死の回避すらやる気がないらしい。
雄二郎は静かに目を閉じ、そのまま大きなイビキをかいて眠りに落ちた。しかし、それも一瞬のことであり、頬をペチペチ叩かれてすぐ目が覚めた。正確に言えば意識が戻った。脳と眼球はあまりにも低速気味であり、おそらく頬に触れた人肌に体が反応したのだろう。薄目で見やると、 目の前にブロッコリーがあった。
「大丈夫ですか?」
そんな声が遠くで聞こえる。
「うーん、ブロッコリーの女神かぁ……くそぉ、転生しても意味がなかった」
「え?」
目の前の人物は首をかしげた。声をよく聞けば、ブロッコリーはどうやら男のようであり雄二郎は顔をしかめた。
「しかも男じゃん。女神ですらない。くっそ……やっぱり前世の俺があまりにも底辺だからか……それなら死ぬ前にレベル上げだけでもしとくべきだった」
「何を言ってるんですか。しっかりしてください」
ブロッコリーが揺れる。雄二郎は寝返りを打った。冷たいガラスの感触がさらに自分の心を冷やしていくようで虚しさを覚える。
「うるせぇな。もういいよ、構うな。俺に構うな」
「そんなこと言われても……はぁ、どうしよう」
ブロッコリー頭が困惑している。雄二郎は目をこすって瞼をこじ開けた。よく見てみると、周囲は見知らぬ道路が左右に広がっており、目の前には民家がある。空は相変わらず星がまたたいているも東から分厚い雲が流れ込もうとしていた。
「ここはどこだ?」
訊いてみると、ブロッコリー頭は短く返した。
「『コインランドリー洗濯小僧』の前です」
「じゃあ、あんたは〝洗濯小僧〟か」
「違います」
すかさず真面目な返答がきたので、雄二郎は思わずおかしくなって笑った。
「そっかぁ……んじゃあ、俺はまだ死んでないってことだな」
「はい、死んでないのでしっかりしてください。飲み過ぎですよ」
ブロッコリー頭はしきりに雄二郎の肩を叩いていた。それでもなお、全身に回る酔いには勝てず雄二郎はクスクス笑い、空咳を一つして寝入った。
その日は、定年退職する
『まぁ、いろいろあるとは思うが、みんな頑張れよ。愚痴ならいつでも聞くからな』
早瀬は恰幅も良く、衰えを知らぬ様子だ。てっきり定年後も継続雇用制度を使うのだろうと思っていたのだが、あっさりと退職を決めてしまったのは、おそらく社長と田沢の圧力のせいだろう。全盛期の彼はとてもパワフルに大口の取引を決め、会社を盛り上げていたものだが社長が世代交代したあたりから途端にキレが悪くなっていった。後輩たちに半ば恐れられつつ慕われており、顧客との関係も良好で誰もが次の取締役になるだろうと期待されていたものだが……九年前、中途採用の田沢が入って来てからは状況が一変する。彼は前社長に取り入るのがすこぶる上手く、対し早瀬は口ではなく態度で示すが上長にも物怖じしない威圧的な態度が裏目に出てしまった。そんな猫可愛がりされる田沢と仲が悪くなるのは必然的であり、また五十年近く会社に貢献してきた早瀬よりも田沢が気に入られることに納得がいかない古株連中と田沢が目をかけている使えない新参社員が派閥を作っていざこざを起こすことも少なくなかった。
そんな会社の歴史をもう二十五年ほど見てきた。たくさんの人が入れ替わり、いい思い出もあれば悪い思い出もある。そんな中でも早瀬の退職は雄二郎にとってかなりショックだった。開始からずっとビールから焼酎、日本酒をちゃんぽん。社の中でもかなり酒豪の部類であり、感情が昂ぶったらずっと酒を飲み続けている。送別会中も料理には手をつけずにただただ飲みまくっていた。
『おい、雄二郎。飲み過ぎだぞ。おまえももう若くないんだから、ちっとは気をつけろ』
『はいはい、分かってますよ』
『この前、また帰れなくて嫁さんに怒られたんだろ?』
『それ、もう十年くらい前のことですよ。今はろくに口もきいてません。その方が気楽でいいんですがね』
そんな話をしたような気がする。早瀬の現役最後の会話がこれでは締りが悪いなと雄二郎はため息をついた。
ここは夢の中だろうか。つい数時間前の記憶が断片的に描かれ、自分はそれを俯瞰して見ている。ガヤガヤとうるさい小さな居酒屋の座敷で、若い社員(といっても皆、四十超えだ)がいい気分で早瀬に絡みに行く。それを見ながら熱燗を手酌し、ぐいっと煽っていると急に周囲がざわついた。
『早瀬さん!』
そう金切り声を上げたのは先程、早瀬に絡んでいた
『早瀬さん! しっかりしてください!』
そう言ったのは雄二郎だった。とても必死に呼びかけるも早瀬の顔がだんだん紫色に変色していく。ふっくらしていた頬がみるみるうちに痩けていき、細くなった指で雄二郎の腕をつかむ。
『早瀬、さん……?』
いいや、違う。これは早瀬ではない。では誰だったろうか。すぐには思い出せない。しかし、脈打つ心臓の音には覚えがある。見下ろすと、そこには早瀬ではない前社長の顔があった。何かを訴えているかのように口をパクパク開けている。
「うわぁっ!」
雄二郎は短く悲鳴を上げて目を覚ました。息が荒れる。夢の中と同じように心臓が大きく鼓動を鳴らし、生きていることを実感する。
「くっそ……悪夢で目が覚めるなんて」
どうにも悔しくなり、胸を叩いて動悸を落ち着かせる。すぐにえずいてしまい、咳が飛び出した。それはどんどん大きくなっていき、さらには頭痛までしてくるものだからひどい。幸い吐き気はないものの具合の悪さは頂点を極まり気分はさらに落ちていく。
「って、ここはどこだ」
ようやく見慣れない場所であることを悟った雄二郎は、かぶせられていた毛布を引っ掴んだ。枯れた年寄りのニオイが漂っており、売りに出した実家を思い出させる。整然とした和室の中央に布団を敷かれ、そこに寝転されていたらしい。古箪笥や化粧台が置かれているがもう随分と使われていないような寂寞が漂っている。この部屋の主はすでにおらず、久しぶりの来客に部屋が戸惑っているようだ。重たい深緑のカーテンから朝日が漏れて差し込み、足元に光の筋を走らせており微量な埃が舞っているのが見える。
はて、記憶はないが自室ではないのは明らかで、もちろん自宅でもない。飲みすぎて酔いつぶれたので早瀬が家に連れ帰ってくれたのかもしれない──とは考えにくい。一度だけ早瀬の家に招待されたことがあったが、こんな加齢臭が漂う部屋があるとは思えないほど新築だった。
雄二郎は青ざめた。酔った勢いで知らない人の家に上がり込んだのだろうか。会社の誰かの家に泊まっている。そうであってほしいと願い、脇に置かれた背広とカバンを抱いて部屋から出ようとした。その時、ふすまからロングパーカーを着た青年と鉢合わせた。
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