第一話⑤

 真心は揚げ油の中にゆっくりと鶏肉を入れた。衣にくぐらせた鶏肉がジュワッときつね色の油の中を泳ぐ。キャラキャラという音が厨房中を跳ね、耳が楽しい。横では棗があらかじめ仕込んでいたホワイトソースを小鍋の中に移している。コトコトと野菜が煮込まれていき、ミルキーな甘い香りが鼻腔をくすぐってきた。キューッと胃腸が急かす中、未知の世界に戸惑いつつドキドキと待ち構える。

「さ、お待ちどうさま」

 棗がシチューをカウンターに置く。続けて、真心がフライドチキンを運んでくる。

 白を基調としたシンプルな器にクリームシチューとカリカリに揚がった骨なしフライドチキンが二枚。鼻腔をつくスパイスの香りに刺激される。

「ひよこ豆のクリームシチューと五香粉ごこうふんのフライドチキンです」

 棗がかしこまって言った。聞き馴染みのない食材とスパイスが出てきたので、巴は首をかしげた。

「ひよこ豆には冷え性によく効く成分が含まれてるのね。それにイソフラボンが豊富だから、ホルモンバランスを改善してくれる。忙しい女性にぴったりなお手軽食材ってわけ」

 シチューには丸っこいひよこ豆が中心に寄せ合っている。他にもにんじん、ほうれん草、玉ねぎが入っていて具沢山だ。

「五香粉は名前の通り、たくさんのスパイスがブレンドされた混合スパイス。うちの五香粉は八角、シナモン、フェンネル、クローブ、花椒ホアジャオを使ってます」

 感心して頷くも、スパイスの名前はまったく分からなかった。シナモンだけは知っていたので、なんとなく風味の想像をする。

「冷めないうちにどうぞ」

 真心がボソボソと言い、厨房に戻っていった。そんな彼に巴は小さく会釈して料理に向き合う。手を合わせて「いただきます」と言い、まずはスプーンを手に取る。皿と同じ白いスプーンでシチューをすくい、ひよこ豆と一緒に口へ運ぶ。

「えっ?」

 予想外の味に驚きの声を上げた。ニンニクと生姜の風味がほのかに鼻腔へ伝い、とろとろ煮込まれたシチューは濃厚な味わい。シンプルな味付けが普通のクリームシチューとは違う展開を見せたが不思議なことに食欲が増した。

「野菜のうまみと塩、風味づけにニンニクと生姜を使ってます。豆乳で煮込んだ薬膳シチューです」

「あ、やっぱり! 今まで食べたことがないシチューだなぁって思った。豆乳鍋に近い感覚かも。そしてこのひよこ豆、ほくほくしてて美味しいです」

 ひよこ豆はその名の通り、ひよこの頭のような形をしている。噛むと口の中で解けていき、まろやかな甘みが広がる。疲れた体にゆっくりと浸透するかのような素朴な味が優しい。シチューで体を温めたあと、巴はフライドチキンに箸を伸ばした。本当なら手づかみで食べたいところだが、こんがり狐色の衣に触れると火傷しそうな気がした。フライドチキンの中央部に箸を差し入れ、割っていく。サクサクと軽快な音がし、閉じ込められた肉汁とスパイスの香りが一気に放出される。堪らず肉にかぶりついた。

「んんっ、美味しいぃ〜」

 滴る肉汁を啜り、弾力のある鶏もも肉を噛めば、途端に顔がほころんだ。五香粉の華やかで爽やかな香りが口の中に広がっていく。箸で食べるのは早々にやめ、脇に置かれたナプキンで肉をつかみ夢中で食べ進める。まだ食べていたい。そんなことを考えてしまうくらい、久しぶりのご馳走が体を喜ばせていた。

「ごちそうさまでした」

 名残惜しくも腹は満たされた。食事を終え、茉莉花茶を飲むと、横でニコニコと見守っていた棗が「お粗末様でした」と言った。

「いい食べっぷりだったね」

「はい! こんなに美味しいご飯を食べるの、久しぶりで」

 体が温まったからか、気分もいくらか晴れやかになっている。そんな元気な声に棗は嬉しそうに笑った。そして、彼女は厨房で後片付けをしている真心に話しかける。

「まーくん、良かったね」

「うん」

 そう答える彼の顔はわずかに緩んでいるように見えた。目が合うと真心は、真顔でこちらを見る。そして、視線を妻の方へ向けながらゆっくりと口を開いた。

「くるみ薬膳庵の由来は、お客さんの体と心を〝くるむ〟という意味でつけました。吉切さんにそうおっしゃっていただけて嬉しいです」

 そう言って彼は照れくさそうに三角巾を取った。途端に爆発的な髪の毛がもわんと現れる。寡黙で真面目な言動なのに見た目はやはり怖い。そのギャップに苦笑していると、棗が口元を抑えて「ぷぷぷ」と笑った。

「んもう。この人、超真面目なのに見た目がこんなでしょ。私服も変なのが多いから野菜買いに来た子連れのお客さんがビビっちゃうし。それでうさぎの気ぐるみ着せてるのよ」

「あ、なるほど!」

 巴はようやく合点した。一方で真心は不服そうに唇を尖らせた。

「どんな格好してたっていいだろ」

「はいはい、どんな格好してたってカッコいいから拗ねないで」

 すかさず棗がなだめるも、いつものことだと言わんばかりのあしらい方だった。そんな夫婦漫才が楽しく、巴は声を上げて笑う。そんな中でふと思う。

 ──うちのお父さんもこんなふうに不器用なんだよね。

 仏頂面な父の顔を思い出すと同時に、無性に会いたくなった。

「すみません、やっぱり今日はタクシーで帰ります。なんだか、お二人を見ていると父に会いたくなって……それに、頼めばお金出してもらえそうですし」

 そう言って財布を出し、代金を支払おうとするも棗がそれを制した。

「いーの、いーの。今日は私のおごり!」

「えっ、でも……」

「早くお父さんに会ってあげて。ね?」

「お父さん、喜ぶと思いますよ……それに、もうレジ締めてるんで」

 棗に便乗して真心も静かに真顔で言う。巴は苦笑した。

 財布を仕舞うと、棗がコートを返してくれる。すぐに袖を通してマフラーを巻いた。

「また来てもいいですか?」

 戸を開けながら訊くと、二人は同時にこくりと頷いた。

「ぜひ、いらしてください」

「いつでもどうぞ!」

 温かい声に背中を押され、巴は笑顔で店の外へ出た。そして、見送る二人に手を振りながら道に出る。タクシーを呼び、しばらく寒空の下で待つも体はまだぽかぽかと温かく、満たされた気分だった。

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