第一話③

「青果店……薬膳庵……?」

「そうそう。漢方とか中医学とか、そういうのを扱った薬膳料理を出す店です」

 巴は首をかしげた。薬膳料理──聞いたことはあるが、具体的にどんな料理なのかピンとこない。漢方に関係しているということから、中国系の料理を思い浮かべるも、味が独特なクコの実や葛根湯くらいしか思い浮かべられない。まじまじとフライヤーを見ていると、女性が巴の手を引いた。彼女の荷物は男性がすでに回収しており、やれやれといった様子である。それに構わず、女性は巴をいたわるように優しい声で言う。

「うわ、手が冷たい。冷え性? よく見たらクマもできてる。ダメよ、女の子がこんな遅くまで仕事しちゃ」

 そんなことを言われ、なんとも返せない巴はあれよあれよという間に青果店夫婦の車まで連れて行かれた。

「私ね、秋山あきやまなつめっていうの。で、こっちの木偶の坊が旦那の真心ましんさん」

 人懐っこい女性、棗が挨拶する。その夫という真心は相変わらず無言のままであり、ダンボールをプルーンカラーのミニバンに積んでいた。

「はぁ、どうも……」

 二人にとっては客である巴だが、客にわざわざ自己紹介するのも不思議なものだと呆れた。そして、自己紹介されたらこちらも名乗らなければフェアじゃない。

「吉切巴です」

「巴ちゃん、いくつ? 待って、私が当てる! えーっと、二十五? いや二十六?」

「えっ、すごい。よく分かりましたね」

「ふっふっふー。私、こういうのはよく当たるのよ」

 棗は茶目っ気たっぷりに笑い、巴を後方席に乗せた。そして、自分は助手席に乗り込む。運転は真心がするらしい。走ること、わずか数分。道路はタクシーがびゅんびゅん行き交う深夜○時。駅前のイルミネーションから遠ざかった静かな商店街を抜けたところに青果店あきやまはあった。しかし、店というには少々無愛想で、シャッターが下りているせいもあるが、その横にある古びたコインランドリーが不気味な哀愁を放っているのが大きな原因かもしれない。立地条件は良くないと言える。

 車から飛び降りた棗が「さむっ、さむっ」と唱えながら裏手にある玄関のドアを開けた。セキュリティ能力が極めて低そうな引き戸タイプの古民家であり、曾祖母の家がこうだったと巴は思い出していた。

 ゆっくり車から降りていると棗が家の中から暖簾を引っ張り出す。ライトアップすれば白い暖簾に書かれた店名がぼんやりと浮かび上がる。くるみ薬膳庵と縦に細長い茶の暖簾に沿うように書かれた白抜き文字は、もらったフライヤーと同じフォントだった。その下に焼印で押したような丸いロゴもある。

「くるみって、あの胡桃ですか? 食べ物の」

「ううん、違う違う。そういう意味じゃなくて……」

 巴の疑問に棗が答えようとするも、背後でバランスを崩した真心によって遮られた。

 車から降りて荷物を下ろしていたのだが、細長い足のせいかかじかんだ指のせいか、ダンボールを地面をぶちまけてしまう。その鈍臭さが、なぜだか昼間のうさぎと重なって見えた。

「あーあー、もう何やってんの、まーくん」

「ごめん」

 初めて言葉を発した真心は不服そうだった。ちょっと怖い見た目とは裏腹に悔しそうにしょぼくれる真心を見て、巴は思わず噴き出した。

「すみません……あの、昼間に商店街で見たうさぎに似てて……」

「え? もしかしてどこかで見てたの!?」

 すかさず棗が食いつく。その口ぶりから巴も目を丸くして驚き、ひらめいた。

「じゃあ、もしかしてあのうさぎって、真心さんだったんですか?」

「そうそう! 今日、商店街がクリスマスセールやってたから、うちも便乗して野菜売ってたのよ! ほら、ここって地味に商店街から外れてるからね、そういうセールに入れてもらえないの。あ、ほら、入って入って」

 棗はダンボールを拾いながら言った。すべて回収したところで二人は玄関へ入っていく。その後ろを巴もおずおずと付いていった。

「お、おじゃましまーす……」

「どうぞごゆっくり」

 真心が仏頂面のまま言う。

「違うって、まーくん。こう言うの。『お疲れさまです』って」

 棗の言葉に、真心はやれやれと言わんばかりに首をすくめた。

 店内は暖房が入っていなかったせいで冷えており、棗が「ごめんねー」と言いながらストーブを足元に用意してくれる。真心は厨房へ入っていく。

 店の敷居をまたげば、すぐにカウンターキッチンが顔を覗かせる。他のテーブル席はなく、屋根付きの屋台のような店構えで、大人五人が座れるくらいの狭さだ。またカウンターにはうさぎの首が置いてあった。

「ここ、まーくんのお婆ちゃんが使ってた台所を改築してね、二階が私たちの生活空間」

 棗がコロコロと笑いながら巴のコートを預かり、背後の壁にかかったハンガーへ丁寧にかけた。店の奥にはトイレと、どうやら二階へ続く階段もある。そこにも白い暖簾がかかっており、くるみ薬膳庵のロゴが入っていた。

「お二人はご夫婦なんですよね?」

 巴が訊くと、やはり棗が答える。

「そうです、そうです。うふふふ。幼馴染みからのゴールイン」

 それから彼女は三軒隣にある「中華料理店小枝こえだ」の娘だということを明かした。本当に家が近いらしく、両者の信頼感に納得してしまう。

「いつもこの時間にお店を開けてるんですか? 大変でしょうに」

「いやいや、今日は特別。だって疲れた人を癒せるようにって作ったお店だからね」

 棗が優しく言う。彼女も厨房の中へ入り、食器や湯呑みなどを慌ただしく用意する。

 真心は裏に入っていき、見えなくなったと思ったら白衣に着替えていた。頭には白い三角巾。あの爆発的な髪型をどこに仕舞ったのかと訝しんでしまう。

 巴は薬膳料理に詳しくないが、真心や棗の服装から何か別のものを思い描いていた。頭にある既視感──薬局だ。ふわふわと脳内で行きつけのこじんまりとした薬局と仰々しい名の薬を思い出す。

「薬膳って、つまりお薬のことですよね? 漢方とか中医学とか言ってましたけど」

 わずかな警戒心を込めて言うと、棗は大きな鉄のヤカンから小さく丸い白のポットに茶を移し替えていた。慣れた動作で、そしてまた慣れたように苦笑する。

「うん、よく訊かれる。でもね、薬膳ってそんな難しい料理じゃないの。疲れた体を食事で癒やすという感覚に近い。食事療法って感じ」

 棗が厨房から白いポットと口が広い湯呑を持ってきた。巴の手でも覆い隠せるほどの小さな湯呑に、棗がお茶を淹れてくれる。温かい湯気とともに、こんがりとした茶葉の香りが立ち上った。ほんのり緑に色づいた水色は茉莉花ジャスミン茶。最近はコンビニにペットボトルで売っているので、身構えることなく自然に飲める。華やぐ豊かな香りとともに口へ含むと、冷えた体を癒やしてくれた。思わずため息が出る。

「ポット、横に置いとくからね」

「あ、ありがとうございます」

 棗は巴の前に丸く黒い盆を置いた。そして、白い箸袋に入った漆塗りの箸を置く。ここにも「くるみ薬膳庵」の丸いロゴがあり、巴はまじまじと見つめた。

 それきり棗は厨房に戻って真心と一緒に支度を始める。巴は不審になって訊いた。

「えっと、メニューは……?」

「あ、ごめんなさいね。オープンしたばかりで慣れなくて」

 棗が慌てて言った。巴は「はぁ」と気が抜けた声を返す。なんだか雲行きがあやしくなってきた。しかし、こんな夜更けに料理を出してもらうのが申し訳なく、やはりそのまま待つことにする。カウンターから身を乗り出すようにして渡されたのは、二つ折りのリーフレットのような白いメニュー。ラミネート加工されており、写真と黒いゴシック体の文字が並ぶだけのシンプルな作りだ。『店主のおまかせ』の下に、中国茶や酒、デザートが並ぶ。それだけだった。

「うちは、お客さんの体調に合わせて料理をお出しします。なので、店主のおまかせだけにしてるの」

 不思議に思っていると、棗が得意げに言った。しかし、巴は釈然とせず「はぁ」と気が抜けた声しか返せなかった。

「巴ちゃん、手がすごく冷えてた。女性はとくに冷えやすいから、体の芯まで温まる料理を考えてます。アレルギーや嫌いなものがあれば遠慮なく言ってね」

「えーっと、とくにありません。大丈夫です」

 元々、好き嫌いのこだわりがないので反射的に答えた。だが、深く考えるとやっぱり怖い。ある程度の情報が欲しい。苦い薬草粥なんかを出されては困る。

「じゃあ、せっかくクリスマスだし、シチューとフライドチキンでも」

 そう言ったのは真心だった。さらりとした言い方だったので聞き流しそうになる。

「シチューとフライドチキン? 薬膳なのに? てっきり、お粥とかスープとか想像してましたけど」

 すると、真心は困ったように唇を曲げた。妻をチラリと見やり、どうやら「説明しろ」とでも念を送っているようだ。棗が呆れたように口を開く。

「五臓の働きを助け、体の巡りを良くするための料理。時期や体調に合わせて、食材の特性を生かしたものを作れば、まぁ、それも薬膳ってことになるわけです」

 彼女の流れるような説明に、巴は唖然とした。

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