第一話②
一人また一人と帰っていくオフィスは、夜の濃厚な冷え込みも相まって寒々しくなっていく。電灯が自分の周りだけになってしまったところで巴の集中力が切れた。手元にある小さなデジタル時計を見やれば、すでに二十二時。原稿を紙出力し、赤ペンで校正作業をするのもだんだん飽きてきた。だが、印刷した原稿があと数枚で終わりそうだ。終電までには帰れそうだが、手もかじかんできたこともあり一息入れようと休憩室のコーヒーメーカーまでふらりと向かった。
「うわっ、廊下さむっ」
幅広のマフラーをショールのように体に巻き付けて休憩室へ入る。電気をつけ、コーヒーメーカーを動かす。コポコポと耳に心地良い音がし、香ばしい豆の香りを吸い込むと、窓の外を見やり商店街の方面へ目を向けた。昼間はとても賑わっていたのに夜になれば人通りもなく、あるのは酔っぱらいサラリーマンがトボトボと帰路につく様子くらいだった。当然、あのうさぎはもういない。他人のミスを笑っていた矢先の失敗を苦々しく思い出し、うさぎへの申し訳なさを感じる。また、この休憩室からは商店街やマンション、アパートしか見えない。会社の反対側は駅近ということもあり、イルミネーションが点灯されきらびやかなのだが、一人寂しくクリスマスイブを過ごしている巴にとっては目に毒である。しかし、クリスマスだからと気軽に連絡を取る相手がいないことを実感し、急激に寂しさを感じた。
ふと駒田を思い出す。デートに命をかけるのは良いことだが、部下に気を使わせようとするあからさまな態度はいかがなものか。正直ムカつく。デートが台無しになればいいのにと思いかけ、すぐさま頭を振って願いをかき消す。
「あ、そうだ。筧さんにメッセージ送るか」
コーヒーが淹れ終わったと同時に巴は思いついた。今日のランチを断ってしまったのも申し訳なくなる。そう言えば彼女は今日、デートする相手がいたのだろうか。いつもめかしこんでいるが、こころなしかメイクがいつもより違って見えた。リップとアイシャドウの色が違ったような気がする。
「えーっと、『今日のランチ、埋め合わせは必ずします』っと……送信」
すぐに返事がかえってくるとは思わないが、なんとなくコーヒーを飲みながらトークアプリの画面を見つめる。だが、コーヒーを飲み終わっても彼女からの返信はなく、巴は諦めてズボンのポケットにスマートフォンを滑り込ませた。
仕事を終えたのはそれから二十三時だった。郊外にある自宅へ帰るには、二十三時半の電車に乗らなくてはいけないのだが、会社を出るのが思ったよりも遅くなってしまい、滑り込みで行けるか行けないかの瀬戸際だ。こういうことは入社してからしょっちゅうあり、最近は駅まで走りやすいようにストレッチ素材の黒いパンツを毎日履くようにしている。黒いハンドバッグを肩に架け、都会の冬空の下を、かかとの低いショートブーツで疾走する。会社から駅までは走って十分弱。信号待ちで息を整えてから、再び全力疾走。大学時代、フットサルサークルに入っていたので脚力にはまだまだ自信があるのだが……やはり駅方面は人通りが多かった。駅に近づくにつれ、タクシーをつかまえる酔っぱらい男性群と甘やかな雰囲気のカップル、元気な家族連れ、はしゃぎ足りない学生など流れる人の波をかき分けていく。巴は腕時計を見た。
「あっ……あーあ」
最終の電車がもうまもなく発車される。目の前を横切る大学生らしき団体を恨めしく見て、巴は息を吐き出した。そして、くるんと踵を返す。こういう時はもう行きつけのネットカフェに頼るしかない。
「タクシーで帰るのもなぁ。懐が寂しい……やっぱりネカフェかなぁ。明日休みだし、それでもいっか」
家に帰ってもとくに予定はない。しかし、ネットカフェの狭いスペースで眠るより、とっちらかった家のベッドで眠るほうが遥かに安らかな睡眠が第一だ。しかし、タクシー代を値切る勇気はない。巴はトボトボとカラオケ店が集まるビル街へ足を進めた。
その時、目の前を仲睦まじそうな男女が歩いてくる。三十代半ばか。巴よりも年上だろうとは思う。彼らはそれぞれ畳んだダンボール箱を持っていた。こんな都会の中で見かけるような格好ではない。
するとこちらの視線に気づいたのか、ダンボールを持った女性が巴を見た。ツルツルな小顔につぶらな瞳、左目の下にある泣きぼくろがチャーミングな彼女は前髪をアップにしており、おでこが寒そうだ。
「こんばんはー」
女性が明るく朗らかな笑顔で言った。まさか挨拶されるとは思わず、巴はビクッと大げさにのけぞる。すると、横にいた細長く高身長の男性が呆れたように鼻息を飛ばした。こちらは女性とは正反対のぶっきらぼうさであり、それよりも目を引くのはアフロに近いヘアスタイルだ。顎髭を整えているが、髪型まではまとまらなかったのだろうか。そんな怪しさ満点な二人に声をかけられては顔が引きつるのも無理はない。
「こ、こんばんは」
巴は警戒心たっぷりに挨拶を返した。ジロジロと見すぎただろうか。二人の格好は都会で歩くカップルにしてはラフな服装だった。どっちもパーカーにジーンズ、ダウンジャケットという出で立ちである。日中はビジネスマンが行き交い、上品なスーツやブランドを持ち歩く人も多いこの街の一角で銭湯帰りのような格好をしていたら怪訝に思うものだ。
巴は後ずさった。その瞬間に腹が盛大に鳴ってしまった。おそらく、ダンボールに書かれた『徳島県産にんじん』の文字のせいだろう。無意識ににんじんを頭の中で思い浮かべてしまい、昼からろくに食べてなかった胃腸が反応したのかもしれない。
「あらら、かわいそうに。お腹すいてるの?」
女性がすぐさま駆け寄り、巴はさらに後ずさった。
「いえ、あの……」
「じゃあさ、お姉さん、なんか疲れてそうだからうちで食べていきません? 終電まだ大丈夫なら」
女性が人懐っこく言う。巴は面食らい、しどろもどろに返した。
「……終電、ちょうど間に合わなかったんですよね」
「あら、困ったね。どうするの?」
「どうしましょうね……ネカフェに泊まろうとは思いますけど。タクシーで帰るのも厳しいので」
そう言うと、女性はダンボールを放り投げる勢いで「えぇーっ!」と叫んだ。巴は周囲を見回した。腹をすかせて年上の女性になだめてもらっているこの状況が恥ずかしい。今すぐ逃げたい。
「よし、今からうちに来て、ご飯食べよ! まーくん、いいでしょ?」
彼女は背後にそびえ立つ長身の男性に言う。無言の彼はコクリと無表情で頷いた。
「はい、決まりー!」
「え? でも、ご迷惑ですし……」
「いーの、いーの。寒いしさぁ、早く帰ろうよ。あったかいご飯食べさせたい!」
しかし、見知らぬ男女の家に上がり込むのは気が引ける。巴はやんわりと断ろうと口を開いた。しかし、先に口を開いたのは女性のほうだった。
「この裏の商店街を抜けたとこにね、小さな店があるんです。『青果店あきやま』っていう。でね、その中で薬膳料理を作ったり作らなかったりしてます。はい、これどうぞ」
女性が差し出す小さなフライヤーを流されるままに受け取る。表裏、どちらも茶色の紙に白抜き文字で店名と地図、アドレス、電話番号が書かれている。表には『青果店あきやま』裏には『くるみ薬膳庵』と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます