くるみ薬膳庵でひとやすみ

小谷杏子

第一話 一度きりのクリスマス〜ひよこ豆のクリームシチューと五香粉のフライドチキン〜

第一話①

「申し訳ありませんでした!」

 吉切よしきりともえはすぐさま腰を九十度折り曲げた。目下で社員証がぶらんと垂れ下がり、それを見やりながら数分前の自分が恥ずかしくなった。他人のミスを笑っていた矢先、まさか自分が大きなミスをしてしまうとは夢にも思わない。

「この忙しい時期にそんなミスやっちゃう? この穴は結構でかいよ。まったく、しっかりしてくれよ」

 上司の叱責がネチネチとうるさい。言われなくても分かっていることであり、一刻も早くミスした仕事を片付けるほうが先決だと思うが弁解も反論もできない。ぶら下がる社員証に映る無表情の自分と目が合い、巴は再度「申し訳ありませんでした」と謝罪した。


 地元の小さな化粧品メーカーで広報部に所属する巴は、来年の新作商品のポスターを任されていた。何度かの色校を重ね、やっとのことで上層部から校了を認めてもらったのが先週のことで、今朝は一段落して優雅にコーヒーを飲んでいた。休憩室でまったりし、コーヒーを飲みながら街を眺める。六階から眺める街は規則正しい筋が通っており、視界を遮るほどの高いビルもないので比較的扁平に見える。

 十二月も中盤に差し掛かったこの頃、空ははっきりしない曇りが続いていたがビルの下にある商店街は活気が溢れ、クリスマスセールと歳末セールを同時に行っている。抽選会もやっているようで、平日昼間だというのに人出もそれなりにあった。

 ここ数日、食事もろくにとれずカップスープとコーヒーを胃に流し込む生活をしていたので、安堵したとたんに腹が鳴る。高校時代から朝食はとらず、睡眠に充てていることもあり習慣化されていない。

「吉切さん、今日は一緒にランチでもどう?」

 同い年の同僚、かけい那奈なながいそいそと誘ってくる。巴は朗らかに彼女へ顔を向けた。今日もバッチリめかしこんでいる那奈は社内では若干浮いている。華やかなのは結構だが、お局には嫌われるタイプである。行きつけのカジュアルなショップに並ぶマネキンと同じコーディネートで出勤する巴と比べ清楚で上品だ。フェミニンな彼女にぴったりの香水を嗅ぎながら、巴は「ぜひ」と答えた。

 同い年の同僚というのは、巴にとってかなり貴重な存在だ。仕事にかまけているおかげで友達とも疎遠になり、彼氏を作る余裕さえもない。だが、まだ二十六歳だ。三十代になるまでに交際や結婚を考えればいいと気楽に考えている。

 那奈はその場でスマートフォンを出し、近所の店をピックアップしていた。その間、巴はぼんやりと外の景色を満喫する。このつかの間の休息に癒されていると、視線の先でうさぎの着ぐるみを発見した。茶色っぽいうさぎの着ぐるみが軽快なステップで商店街の中を歩いている。その後ろを小さな子供たちや若い母親、自転車を押すおじさんやおばさんまでもを引き連れている。さながらハーメルンの笛吹男のごとく練り歩くうさぎはご機嫌たっぷりにクルンっと回転した。直後、足が喫茶店の看板に激突し、うさぎはその場でうずくまった。

「……えぇ、何あれ」

 巴は苦笑しながら呟いた。

「え? なになに?」

 那奈が顔を寄せて訊く。巴は指で方向を示しながら言った。

「あそこにいるうさぎが看板にぶつかって……」

「どこどこ?」

「ほら、あっち。あの商店街の中の」

 その頃、うさぎは自分の脛をさすって落ち込んでいた。おじさんに背中をぽんぽん叩かれ、慰めてもらっている。その様子をようやく捉えた那奈が口に手を当てて噴き出した。

「やだ、かわいい~」

「あ、立ち直った」

 よろけながらも立ち上がるうさぎが気を取り直して、大仰に道の先を指し示した。そうして一行は商店街の中を練り歩くのだが、調子に乗ったうさぎが今度はクリスマスセールの垂れ幕に耳を絡ませていた。

「あのうさぎ、どんくさいね」

 思わず言うと那奈が「吉切さん、辛辣ぅ~」と高い声ではしゃいだ。そして、彼女はスマートフォンを目の前に掲げて巴の視線を独占する。

「それよりランチ探そうよ。何食べたい?」

「あ、そうだねぇ……寒いし、あったかいものがいいなぁ」

「スープパスタ食べられるとこあるよ」

「うーん、そうだねぇ」

 巴は街の風景から目をそらし、那奈に向き合った。正直、パスタの気分ではない。かと言って何が食べたいか思いつかない。那奈が行きたそうな場所でいいと考えていると、休憩室に先輩社員の男性、駒田こまだ昌史まさふみが眉間にしわを寄せてやってきた。

「吉切さん、ちょっといい?」

「え、はい……どうしました?」

 駒田はチームリーダーだ。そんな彼が慌てた様子で、休憩中に現れたとなると嫌な予感しかしない。巴は駒田の後について行きながら那奈に両手を合わせて「ごめん」とジェスチャーを送った。

 広報部のデスクまで行くなり、駒田は納品されたポスターの山から一枚引っ張り出した。

「これ、どういうこと?」

 淡麗なブルーを基調としたポスター。中央に新作化粧水の写真があり、細い明朝体のキャッチコピーが並んでいる。ごてごてとしたものではないシンプルなデザインに何ら違和感はないが、駒田が指した箇所を見るなり、巴は目を見張った。届いたポスターが納品したデータと違う。

「え……えぇっ!?」

 一歩遅れて気が付いたら、駒田が「ここ、分かる? これ、校了データと違うよね」と追い打ちをかける。

 修正する一つ前のデータで刷り上がった大量のポスターに唖然とし、周囲の同僚たちも不審げな空気で巴を見つめていた。印刷所への入稿データを間違えたのだと気づいたのは、それから数秒後のことだった。結局、那奈とのランチは実現せず、巴はその後の対応に追われ、すぐさま正規データを印刷所に送信したものの上司に叱責され、駒田からもチクチク言われながら始末書を書いた。

「あーあ、今日はせっかくのデートだったのになぁ」なんて言われても、巴にはどうすることもできない。始末書を書き上げて駒田へ提出した後、ようやく別件の仕事に取り掛かることができたのが十八時くらいであり、駒田のデートまでにはなんとか仕上げることができた。

「じゃあ、お疲れ様ー!」

 猛スピードで会社を出ていく駒田の背中を、巴はどんよりと曇った目で見送った。

「駒田さん、今日のデートに命かけてるらしいよ」

 他チームの同僚たちがコソコソと言い合っているのが聴こえてくる。

「クリスマスイブだから張り切ってんだね。相手は誰なの?」

「さぁ? ともかく、なんとか帰れて良かったよねぇ。あの人、機嫌が悪くなると空気悪くなっちゃうし」

 巴はその話をぼんやり聞いていた。それから、なんとなくカレンダーに目をやる。

 ──そっか。今日、クリスマスイブなのか。

 どうりで商店街の人出が多いわけだ。また駒田がいつにも増して威圧的だったのも納得できる。今年で三十三歳の駒田が婚活に力を入れているらしいというのは噂で聞いていたので、彼の焦りの正体がようやくわかった。

 ──本当に、なんとか定時までに終わらせられて良かった……まぁ、私の仕事は今からなんだけどね。

 今日中にチェックしなければ、締切に間に合わないものがある。巴は首を回してパソコンの画面に向き合うと、来年号の社内報で取り上げる原稿のチェックを始めた。

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