最終話


 ――先生、助けて……。


 通話の切れたスマートフォンを握りしめながら、僕はマンションの階段を上る。狭山の微細(かぼそ)い声が鼓膜から離れなかった。


 脳裏をよぎる嫌なイメージ。目の前に落ちてきた生徒、実君の砕けた身体。屋上で腐った直樹の身体。目の前ではじけた穂香さんの、綺麗だった身体。


 このおまじないの真に怖いところは、全く身に覚えがなくても、第三者の恋心によって引っ張られてしまうことだ。白石は言った。「酷い話」だと。それは彼女がまっとうな恋愛をしていたからこそ出た言葉であり、実るはずのない南野の片思いによって、理不尽に恋人を失ったやり場のない怒りから生まれたものだ。つまり……。


「間に合うのか……。いや、間に合ったところで……くそっ!」


 こちらがおまじないをしなかったからと言って、おまじないに引っ張られないわけではない。誰かが自分との関係を望んだ、ただそれだけで「終わって」しまう。


 屋上に続く、立ち入り禁止と書かれた扉が目に入った。体当たりをするように、階段を駆け上がる勢いそのままに扉にぶつかる。


 ダンッ! という音とともに足がよろめき、数歩後ずさる。立て続けに起きた飛び降りのせいで、施錠が以前より頑丈になっている。古びた南京錠だけでなく、ドアノブには太い鎖が巻き付けられていた。


「くそっ! 時間がないってのに!」


 今から鍵を借りに戻る時間はない。


「……緊急事態だ。大目に見てくれよ」


 階段のすぐ手前まで戻り、今度はしっかりと助走をつけて、扉を破るつもりで思い切りぶつかる。


 扉と接触する寸前、がしゃりと音を立てて鎖がほどけた。



「あ、せんせい、来てくれた」



「さ……やま?」


 狭山は何事もなく、ただ屋上に立っていた。いや、何事もなく、というのは少し違う。


「優しいせんせいは、私が助けてって言ったらきっと助けてくれるって、みんなが言ったとおりだった」


「みんな……?」


「せんせぇ、私ね、せんせいのことが好き」


 僕の言葉を無視して、狭山は言葉を紡ぐ。


 そこに僕の知っている狭山はいなかった。

良くも悪くも女の子らしく、子供らしい狭山はいなかった。どこか魅惑的で、妖艶な声を出す目の前の少女は、狭山ではなく、その体を借りた別の人だと思える程で……、


 そこに感じる、愛おしさとすら呼べる感情を、僕は確かに知っていた。


「ごめんね? せんせぇ、私、言ってしまったの」



『好きな人と、ずっと一緒にいられたら幸せなのにな……』



 このマンションの前で、狭山と別れるときに聞いた言葉。それは、南野に向けたものでも、そのほかの多くの犠牲者に向けられたものでもなく、ただ、自分の願いを口にしただけのものだった。


 想像して、不意に思った。


 これだけおまじないのことを調べた僕は、結局、どうやっておまじないをするのかは知らないままだ。もし、もしも、おまじないに必要なものが、叶わない想いと、このマンションだけなのだとしたら……。願いを口にするだけで叶ってしまうおまじないだとしたら……。


「ごめんね、ごめんね? せんせぇ、私、どうしてもあなたが好きなの。絵里ちゃんと一緒。あきらめるなんてできなかったの」


 だからお願いしてしまった、と狭山はつづけた。


 マンションの前で、南野に、穂香さんに、同じように死んでいったおまじないの被害者に、ただただ願った。


 好きな人と一緒にいさせてください、と。


「ねぇ? せんせぇ、おまじないをした二人は、どうやって結ばれると思う?」

「どう……やって?」


 常軌を逸した瞳に半ば飲み込まれながら、僕は聞き返す。無理やりにでも口を開かなければ、今にも正気を失ってしまいそうだった。


「そう。報われない恋を願った穂香さんは、絵里ちゃんは、どうやって私とせんせいを結んでくれるのかなぁ」


 心底楽しそうに、嬉しそうに、骨格がゆがむんじゃないかと思うほど、口の端を釣り上げて笑う。互いの体温を感じるほどに、近づき、唇を耳元に寄せてくる。


「どうやって私たちを、一つにしてくれるのかなぁ?」


 恍惚にまみれた、吐息の混じる彼女の言葉。


 今まで調べた事故の記録が脳裏をよぎる。



 ああそうか。



 同じ場所でぐちゃぐちゃになって、ばらばらになって、同じ染みを作った。

 一度混ざりあった合い挽き肉を、元に戻すことなんてできっこない。


 僕の指に自分の指を絡めてくる。


 これから一つになる前準備とでもいうように、ゆっくりと、けれど力強く僕の手のひらを蹂躙してゆく。


 狭山のうなじから、香る。年相応の制汗剤でも、少し背伸びをした香水でもない。こんなにも落ち着く香りを、僕は一つしか知らない。


 身をゆだねたい。ずっと浸っていたい。美しい初恋(きおく)をいつまでも忘れずにいたい。香りは僕を包み込む、抱きしめるように、あるいは侵食するように。

思い出の香りを纏う狭山が、体重を預け、体を預け、しなだれかかる。徐々に徐々に、僕たちは屋上のフェンスへと近づいてゆき、やがて、フェンスに身体を預け、もたれかかる。


 ここで腐り、溶けた友人がいた。

 彼が助けを求めた友人というのは誰だったのだろう。僕かな、ぼくだったらいいな。


 フェンスから身が乗り出す。すぐ下に、大きな染みが見えた。


 初恋の人が、最初にあの染みを作った。

 そっか、かなわない恋を叶えてくれるのがおまじないなら、ぼくの初恋も叶うんだ。



 狭山の唇が僕の口を塞いだ。貝殻のように固く結ばれた手は、指は、彼女の願いにこたえるように強く、固い。


「せんせぇ」


 混ざった唾液が糸を引いたまま、狭山は言う。




「みんなに、おねがいしましょ?」




 見えない腕に引っ張られ、僕は落ちる。いや、見えない腕なんかじゃない。みんなの腕だ。

 南野、直樹、ああ、よかった……




懐かしい初恋の香りが、ぼくを包む。




(終)

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おまじない 遥 奏多 @kanata-harka

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