第4話
週刊誌によれば、一人目の自殺者、僕の初恋の、原田穂香さんは恋煩いの末に自殺した。そしてその後、片思いの相手が同じ場所で交通事故に巻き込まれる。その後からマンションで自殺や事故が多発する。
駆け落ち中の恋人たちが、家族に追われマンションからの飛び降りを選んだ。これが三人目と、四人目。
五人目は穂香さんの母親だった。娘にあてた手紙を胸に抱きながら、娘と同じ場所から飛び降りた。ここまでは僕も知っている話。
週刊誌にはもっと多くの犠牲者のことが書いてあった。
六、七人目はストーカーに追われた女性が飛び降り、その後供えられた花束の横で原因のストーカー男が自害した、というもの。さらには、不倫をしていた女性が離婚してくれない相手男性をマンション下に呼び出し、自分は屋上から飛び降りた。落下地点で偶然、その男性と接触して二人とも即死、なんて凄惨なものもある。週刊誌はこの事件をメインに記事を展開していた。他にも理由が分かっていない自殺や、友人同士の心中、関係性が不明な心中があるらしい。
「白石が言っていた『酷い話』というのは、どう意味だったんだろう」
スクラップ帳を読み終わった僕は隣にいる狭山に問う。
「確かにどれも酷い話ではありますけど……あ、その、……すみません」
「え?」
「だって、最初に自殺をした方は先生のお知り合いだったって。それなのに私は、酷い話だなんて……」
ああ、そういうことか。なるほど、狭山らしい気遣いだと思う。
「気にしなくていいよ。確かに穂香さんとの思い出は大切だけど、酷い話に違いはないからね」
白石と話してから、狭山はわかりやすく落ち込んでいた。そんな彼女を慰める意味も込めて、僕は彼女の失言をフォローする。
「私、何を調べていたのか分からなくなってきました」
独白するように狭山が話し出す。
「最初は絵里ちゃんの自殺の真相を確かめたかった。でも、調べても調べても、過去に起こった悲劇しか見えてこない。もし本当におまじないの呪いがあっても、私にはどうすることもできないのに……」
正直、狭山がそう言いだすのは予想できていた。
「……そうだね。やっぱりもう、この件に関わるのはやめた方がいいのかもしれない。これ以上調べても、暗い気持ちになるだけだ」
僕の言葉に狭山は「……はい」と、控えめにうなずいた。実際のところ、すでに死んでしまった人間よりも、自分自身が白石に言われたことについて考えたいと、そう思っているのではないだろうか。中学生の少女にとっては、先ほど言われた言葉は響くものがあっただろう。
「最後に、絵里ちゃんに手を合わせていきたいです。いいですか?」
教え子にそう言われて断る教師はいない。僕はすぐさま頷きを返した。
マンションの前には先日よりもたくさんの花束が添えられていた。その様は花畑と言うには少しばかりけばけばしかった。いや、それも当然なのだろう。死に添えられる花。二人のこれからの道が、どうか安らかなものであるように。そんな願いが込められた花束なのだ。少しでも華やかなものを送りたいというのは、たとえ送る側のエゴであっても否定できるものではない。
かさり、と。
隣で音がして見ると、行きがけに買った花束を狭山が供えるところだった。その眼は複雑な感情に揺れているように見えて、僕は思わず、小さくなった狭山の背中に手を添えた。
「好きな人と、ずっと一緒にいられたら幸せなのにな……」
小さく、小鳥の足音のような声で狭山がつぶやく。その言葉の向かう先は南野か……いや、ここで死んでいった他の多くの者にむけた言葉だったのかもしれない。
「では、先生。これで」
「ああ」
先ほどより、心なしかすっきりしたように見える狭山の表情が、不思議なほど僕の心には深く刺さった。
たったっと、足音とともに小さくなっていく背中を見送りながら、僕は思った。
「これが、後ろめたいって感じなのかな」
狭山の背中が見えなくなって、僕は家とは反対の方向へと足を進める。
かつてよく足を運んだ、懐かしい場所へと。
「ここに来るのも、久しぶりだ」
つい、考えていることが口に出た。
ここは僕にとって、様々な色の思い出が咲く場所であり、同時に、最も触れたくない思い出が閉じ込められた場所でもあった。目の前の景色と、記憶の中の景色が重なる。
「かなり、荒れちゃってるな」
僕は今、とある一軒家の前にいた。
表札の横にある呼び鈴を鳴らそうとボタンを押してみるが、鳴らない。
ふぅ、とため息をついて、お腹に少し力を入れる。表札の横を通り過ぎ、その家の敷居をまたぐ。玄関扉を叩くと、建付けが悪いのか前後にがたがたと音を立てて揺れた。
そして僕は表札に書かれた名前を呼ぶ。
原田さん、と。
「はんっ、この時期になったら今でもたまに週刊誌の取材が来るよ。……人の気も知らないでな、えぇ?」
酒臭い息とともにそんな皮肉めいた言葉で歓迎された僕は、不本意そうな彼に居間まで通された。
廊下から見える居間は、ごみ袋からあふれた紙くず、中身の残ったままつぶされた空き缶、転がる一升瓶、積み重ねられたカップ麺の容器、そんな私生活のかけらがあちこちに転がっていて、それらが交じり合い発生した異臭が家全体に漂っていた。
絵に描いたようなごみ屋敷とアルコール依存症の有様に、居間に入るのにためらいを覚える。
「……失礼します」
けれど、それも一瞬のうちに消えた。この状況を想像していなかったわけじゃない。むしろよく、ずっとここに住み続けていたと思う。
ここは思い出の場所。かつてよく遊んだ友人の家、僕の初恋の人の家。たとえ今、その思い出の面影しか残っていなくても、僕の記憶を呼び起こすにはそれで十分だった。友人の家に入った時に感じる独特の匂いを、僕は僕自身の思い出から確かに感じ取っていた。
「最初に一つ訂正を」
「あん?」
「僕は雑誌記者ではありません。あの件について尋ねたいのは事実ですが、それを吹聴して回るような真似は決していたしません」
円滑に話を進めるためにも、その誤解は解いておきたかった。
「じゃあてめえは何者だってんだ。なんでうちの電話番号も住所も知ってる」
「お久しぶりです。直樹のお父さん。幼いころはよく、ここに遊びに来ていました。さすがに、覚えてはいませんよね」
僕の言葉を聞いて、お父さんの目が驚きに開かれる。そして何かを思い出すように、ゆっくりと目をつむった。
直樹というのは友人の名前だ。昔はよくここに遊びに来たものだが、お父さんとはあまり顔を合わせていなかった。
「そうか……そういえば、昔よく、直樹と遊んでくれてた坊主がいたな。穂香にもよく懐いていた」
懐く、という言葉に若干苦笑しながらも、お父さんが僕を思い出してくれたことが素直にうれしかった。
「お仏壇があれば、まず手を合わせたいのですが」
「ああ、そうしてやってくれ。そうすれば……」
言いながら、お父さんは居間と隣接する襖を開いた。脱ぎ散らかされた衣服の向こうに、遺影の並んだ仏壇が見える。穂香さんと、お母さんの遺影、そしてその隣に……。
「きっと、直樹もよろこぶ」
友人の、遺影があった。
「な、なお……き? そんな、だって、直樹は、転校したはずじゃ……」
「直樹のやつはな、引っ張られたんだよ」
「引っ張られた?」
「そう。妻と、娘にな」
そうしてお父さんは話し出す。
「あいつは、自殺かどうかも分かってねぇんだ。屋上のフェンスに寄り掛かるように死んで、死体が見つかった時には何日もたっててな、もう体は腐ってぐちゃぐちゃだった。溶けた肉が屋上から道路に落ちて、ようやく見つかったくらいだからな」
現場を想像して、すぐさま後悔した。
「俺が見たって、全然誰だか分らなかった。検死して初めて直樹だってわかったんだ」
ぐじゅぐじゅに溶けて、骨からずり落ちる肉。姿勢を維持する筋肉もなくなり、力なくだらりとフェンスに寄り掛かる、不定形な姿。死体から漏れる体液、零れ落ちる眼球……。なまじ死体を見たことがあるだけに、判別できないほど腐りきった死体というものをリアルに想像できてしまった。
「っと、……すまねぇ。息子の友達にする話じゃあ、なかったな」
僕の様子を見たお父さんが謝罪をする。きっと僕の顔色は分かりやすく悪くなっていたに違いない。実際、少しだけ気が遠くなった。
「いえ……。そ、それで、二人に引っ張られたというのはどういうことですか?」
そんな状態にもかかわらず話を促す僕に、お父さんは呆れの表情を浮かべながら言う。
「直樹は一番、あのマンションを怖がっていた」
「怖がっていた?」
「そうさ、今の俺と同じようにな」
お父さんは自嘲気味に笑った。
「直樹がいなくなる少し前だったな。悪夢にうなされていたようだった。日に日にやつれて、死んだ家族の名前をつぶやくようになっていった。一度だけ、友達に助けを求めようとしたこともあったみたいだが、あいつも気づいていたんだろう、自分がもう逃げられないってな。そんな日が続いて、ある日突然、言い出したんだ。『家族は、いっしょにいないといけないよね』ってな」
話しながらその時のことを思い出したのか、見る見るうちにお父さんの顔色が悪くなっていく。
「そのあともだ。『姉さん、本当にあの人のことが好きだったんだね』とか、『母さんは姉さんが心配だったんだよ』とか、上の空でそんなことどんどん言い出しやがる。俺ぁなぁ、正直言ってほっとしたんだよ。あいつがいなくなってくれて」
それは、その当時のお父さんの気持ちを想像すれば納得できる。だが親としては……。
「仕方がねぇだろう!」
僕の考えていることを察したのか、お父さんが声を張り上げる。その声は恐怖に耐えるように、虚勢を張るように少し震えていた。
「考えてもみろ、大人しくて怖がりだったあいつがどんどんおかしくなっていきやがる! いつの日か俺もこうなっちまうんじゃないかって、そう考えなかった日はねえ!」
今だってそうだ、と。それまでの怒気を含んだ声とは打って変わってしぼんだ声で言う。
「なんだって俺があいつらに呼ばれなきゃならねぇ。ほかの犠牲者はみんな色恋の話じゃねぇか……。そりゃあおまじないに頼りたくなる気持ちもわかる。聞いた話じゃ駆け落ちにストーカーに兄妹同士に、普通じゃどう頑張ったって結ばれない想いだ。けど、俺は関係ねぇだろうが……」
どんどんと覇気がなくなっていくお父さんの声を聴きながら、僕は先ほどの言葉にどこか引っかかりを覚えていた。なんだろう、直樹の死や死ぬ前の情報のほかには新しい情報はどこにもなかったはずだ。ほかの犠牲者の話だって……。
「兄妹同士? 友人同士じゃなくて……?」
そんなこと週刊誌には書いていなかったが……いや、そういえば関係不明の心中や理由不明の自殺があるとは書いてあったが。まさかそんな関係性だったとは……。
「友人……、そうだよ、直樹が助けを求めた相手は、お前だったんじゃねえのか? 穂香にもよく懐いて、うちにも遊びに来た。そうだ、そうに決まってる。はははっ……、なら今よばれてんのは俺じゃなくて、お前かもしれねえなあ。何せお互い……」
自分の置かれている状況に耐えきれなくなったのだろうか。タガが外れたように笑いだしたお父さんは、床に転がっていた一升瓶の一つを引っ掴んで、その中身を胃に流し込んだ。きっと、中に何が入っているかなんてどうでもいいのだ。
「直樹も穂香も守れなかった者同士だ!」
その言葉に、かっと頭に血が上るのを感じて……。
「僕はっ……!」
言い返そうとして、言葉が出なかった。
人の気も知らないで。僕が穂香さんに抱いていた気持ちも、直樹に頼られなかった気持ちも、何も知らないくせに、と。そう喚くことはできただろう。でも、それはお父さんも同じ事、いや、お父さんの方がきっと、もっとだ。
妻に、娘に、最後に残った息子に先立たれる辛さも怖さも、悔しさも、何もできなかった情けなさも、僕は知らない。
酒におぼれて、自堕落な生活に身をやつして、それでも、それでもあふれ出す涙の重さを僕は知らない。
「もうやめだ……。こんな話してたら、今度は俺が引っ張られちまう……。あんたも、もう帰ってくれ、帰れ。俺の前に現れるな。俺たちに関わるな。でないと……」
その言葉の続きを、お父さんは口にしなかった。
心底おびえたような様子で、僕を追い出そうとする。背中に手を押し当てて、居間から玄関へと押し出すように。そこには何の力も入っていなく、抵抗してもっと話を聞きだすことは簡単だっただろう。けれど、僕は何も聞けなかった。力ないお父さんの手に、抗えなかった。
半ば正気を失いながら、けれどその両目に涙を浮かべるお父さんに、もう言えることは何もなかった。
玄関から外へと足を踏み出す直前、ふわりと、家の中から何かが漂ってきた気がした。思わず振り返ると、憔悴したお父さんのすぐ後ろに広がる景色が目に入る。それは当然荒れた思い出の家であるはずなのに……。
「え……」
そこにあったのは、十年前と何も変わらない、思い出の場所だった。漂ってきたのは思い出の空気、思い出の香り。もう二度と感じることはないと思っていた、僕の初恋の香りだった。
きつく目をつむり頭を振る。再び開いた目に入る景色は、今までと変わらない荒れたものだった。
……ほんとうに、引っ張られているのかもしれない。
まるで誘蛾灯のように、甘い蜜のように。記憶という、もっとも美しく脆いものに付け込んで、思い出という宝物に擬態して。もう現実には残っていないものだけど、だからこそ、記憶と重なる。ただそれだけで僕の心は侵食されていく。
きっと僕はこの件に関わりすぎたのだ。だからありもしない幻覚まで見てしまう。生徒には偉そうに注意しておいて、なんて様だ。
狭山を見習って、僕ももう手を引こう。これ以上は僕の心が持たない。未だに漂っている気がする初恋の香りから目を背けて、僕は自分に言い聞かせた。
それに、お父さんの話を聞いて思ってしまったのだ。おまじないは本当に存在するのかもしれない、と。
片想い、駆け落ち、死んだ家族への想い、盲目的な愛、不倫、兄妹、これだけの事例がそろってしまったら、分かってしまう。おまじないに必要な条件というものが。
なるほど、まっとうな恋愛をしていた白石が「酷い話」と言うわけだ。
穂香さんの家から帰宅する。その道すがら、南野に花を手向けに来た教え子に会った。最初に僕が呼び出した、おまじないのことを調べようとしていた四人の中の一人だ。
「先生、私たちにはダメって言っておいて、狭山と二人でおまじないのこと調べてるでしょ?」
「う、ばれていたか……」
積極的に隠していたわけではないが、生徒には禁止したことを自分ではやっている、ということは、なるべくなら知られたくはなかった。もっとも図書館で白石にも会っているし、狭山と二人で行動していることも隠そうとしていなかったから、今更な話ではあるのだが。
「しっかし、狭山もやるよねー。ちゃっかり先生とお近づきになっちゃって」
「うん? どういうことだ?」
そう聞き返すと女子生徒は「あ、やべっ」と言ってそそくさと僕のそばから離れていった。去り際に「しっかりねー、せんせー!」なんて言葉を残して。
「……まさか、ね」
教師をしていると、女子のそういった話題について耳にする機会も多い。そんな風に考えてしまったせいか、今までの狭山のふるまい、態度について思い返してみても、変な勘違いをしてしまいそうになる。ただの自意識過剰で済めばいいのだが……。
もし勘違いではなかったとしても、僕は教師だ。狭山の気持ちにこたえることは絶対にない。
そう……絶対に、ありえない。
もし狭山が僕に特別な感情を抱いていたとしても、その想いは……、
『絶対に叶わない』
考え、背筋が震えた僕は薄情だろうか。教え子の純粋な気持ちにおびえるなんて、教師失格だろうか。
「……いや、まさか」
あえて口に出し、自分の不安を払拭しようと努める。
そもそも狭山は僕と一緒におまじないについて調べているんだ。彼女が頼るはずがない。その結末を知っているのだから。おまじないをしたとしても、結末は決まって二人の死だ。好きな人と一緒にいられるなんて、そんな幸せな結末には絶対にならない。
幸せにならないことが分かっているのなら、誰もおまじないなんてしようとしない。
頭の中で自分を納得させるだけの言い訳を完成させて、僕は緊張を逃がすためにため息をつく。
「ふぅ――」
その時、ヴ――ヴ――と、ポケットの中のスマートフォンが鳴った。
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