第3話
翌日の放課後、僕と狭山は市立図書館に来ていた。過去、あのマンションで起きた事件を調べるためである。図書館ならば新聞など、その市の出来事を細かくスクラップにしていることが多い。今回借りたいのはここらの地域のみを取材対象にしている地方紙だ。
「え、貸し出し中? そんなピンポイントで?」
「はい。つい先ほど、学生の方がスクラップ帳を借りていかれました」
司書に『マンション 飛び降り』の検索で出てきた新聞を貸してくれるように頼むと、そんな言葉が返ってきた。このタイミングで僕たちと同じことを調べている学生……。
嫌な、当たってほしくない考えが頭の中を駆け巡る。
「先生」
狭山が真剣な声音で話しかけてくる。
「私、実はその生徒に心当たりがあります」
「本当か!?」
つい声を張ってしまい、司書に睨まれてしまう。いくら緊急事態だとは言え、教師としてこれでは示しがつかない。
「うちの学校の生徒だよな、いったい誰なんだ?」
今度は怒られないよう、声を潜め狭山に問うた。かなり小声なので、できる限り顔を近づける。
「ん……? 狭山?」
なかなか口を開かない狭山に、どうしたのかと思い顔を向けると、
「あ、あの……。せんせ……近い、です」
頬を朱に染めた狭山の顔が目の前にあり、僕は「あぁ、すまんっ」と急いで距離を取った。ふわりと揺れた狭山の黒髪から華やかな香りがあふれ、鼻腔をくすぐる。
あ、危ない危ない。年頃の女子生徒に顔を近づけるなんて、デリカシーがなさすぎる。教師失格だ。……しかし、何故だろう。頬を染めて照れている狭山の表情が、頭から離れない。普段学校で見ている姿と比べてしまうから、そのギャップに戸惑っているのだろうか。鼻腔に残る花のような香りも相まって、ここにいる狭山が、教え子の狭山とは別人のように思えてしまう。この香り、制汗剤じゃなくて香水のものか。
中学の大人びた女子生徒であれば、見た目なんて大人とほとんど変わらないものな……。頬の紅潮をそのままに、上目遣いでこちらを見上げる狭山を見てそんなことを思う。いかんな、吊り橋効果ではないけれど、焦りで心拍数が上がっているときに考えることじゃない……。これではまるで、教え子にときめいているみたいじゃないか。こんなところほかの生徒に見られでもしたら――。
「あれ、もしかして先生?」
「はい! いかにも私は先生ですが!?」
突然背後からかけられた声に思わず背筋が伸びる。
「何してるんですか? こんなところで」
「何もしていないとも! あぁ断じて何もしていない!」
別に僕は何もやましいことはしていないし、考えてもいない。考えてない……よな? 教え子の成長をしっかりと見ておくことはやましいことどころか教師としての本分だ。ただちょっと、ちょっとだけ心拍数が上がっただけ。血圧を測ったほうがいいかもしれない。……あぁ、よくわからない自己弁護が頭の中にあふれてくる。脳内で言い訳をすればするほど、さっきのときめきを肯定してしまうようだ……。
「はあ……。まあ何でもいいですけど、そこ、退けてくれません? これ返したいんで」
「ああ、すまない」言いながら相手を確認し、そこで初めて、それがうちの学校の女子生徒だと気づく。耳が隠れる程度のショートカットと、勝気そうな釣り目が印象的な少女だ。生徒だということくらい、自分のことを先生と呼んだ時点で気づけよという話だが、さっきの精神状態では……、いや、そのことはもう考えまい。
彼女は手に、新聞記事などをまとめたスクラップ帳を持っていた。
「先生、あのひとです、私が言ったのは」
スクラップ帳を返す女子生徒を見ながら、狭山がつぶやく。それに無言で頷き、僕は声をかけた。
「なあ君、少し話があるんだけど、いいかな」
「……いいですけど、人のいない場所に行きましょう」
彼女は僕、というよりは狭山に一瞥をくれてから図書館のカウンターに向き直る。新しいスクラップ帳を受け取っているようだった。
「先生たちの調べものも、きっと同じでしょう?」
どこか挑発的な表情を見せた彼女は、まるで「ついてこい」とでも言わんばかりにこちらに背を向け、歩き出した。
彼女が向かった先は、時間的に人影がまばらな、児童書のコーナーだった。女子生徒が真っ先に口を開く。
「私は三年の白石といいます。昨日飛び降りた男子生徒、実君の、本当の恋人です」
「なっ、本当の!?」
その言葉は僕の度肝を抜くものだった。だって、昨日飛び降りた生徒は南野が告白した相手のはずで、しかも南野は、告白が成功したと確かに言っていた。
思わず狭山に視線を送ってしまう。一体どういうことだ? 南野と白石、どちらの言うことが正しいんだ? そんな意味を込めて。
「先生、実は……。絵里ちゃんの恋は……略奪愛、と言えなくもないんです」
「ふん、何が『言えなくもない』よ。まぎれもない略奪じゃない」
狭山の言葉に白石が間髪入れず訂正を入れる。
「実君は浮気なんかする人じゃなかった。それなのに、どうして急に別の子の告白を受けて、その上、その子の後を追うようなこと……。おまじないだか何だか知らないけど、そんな曖昧なものじゃあ到底納得できないのよ」
白石は静かに、けれど確かな強い口調でそう言い、睨みつけるように狭山を見つめていた。きっと狭山と南野の仲を知っているのだろう。
僕はといえば、白石の宣言よりも、自分の教え子が略奪愛をしようとしたこと、そして狭山がそれを応援していたことにショックを受けてしまっていた。
だってそうだろう? 誰かの恋人を奪おうとしていたら、止めるのが友人なんじゃないのか。いくら好きという感情が強くても、それで倫理観を捨ててしまえばそれは、感情のままに行動する獣と変わらないのだから。
「先生?」
狭山が助けを求めるように僕の顔を覗き込む。僕はまっすぐに伸びてきた狭山の視線を裏切るように目をそらした。
「狭山、確かに友人の幸せを応援することはいいことだ。でもな、その幸せが他人を不幸にするものなら、友人として、友人だからこそ、それを応援しちゃあいけない」
それは倫理にもとる行為だから。
「でも、先生っ……。好きになったものは、しょうがないじゃないですか。絵里ちゃんも、何度も私に相談してきました。恋人がいる人を好きになったらどうすればいいって、どうやって諦めたらいいのかって」
確かに、人間の感情の中でもとりわけ「恋愛感情」は制御が難しい。制御できる恋愛感情がはたして恋と言えるのか、そんな疑問すら生まれてしまう。
「でも、『好き』を諦めるのが辛いことだってことくらい、私にだってわかります!」
「でも、だからと言って……」
「先生にっ、叶わない恋をする辛さが分かるんですか!?」
……皮肉なことに、
「……ああ、わかるとも」
それを思い出したのは、生徒の自殺がきっかけだった。
僕の言葉に狭山が驚いたような、どこか傷ついたような表情を見せる。傷ついたように見えたのは、彼女自身が口にした言葉の後悔だったのかもしれない。
「盛り上がってるとこ悪いですけど、調べるんでしょ、マンションのこと」
「あ、あぁ。そうだな」
「……そうでした」
白石の言葉で元の目的を思い出す。まったく、自分の教え子と本気のコイバナをするなんて、我ながらどうかしている。
「新聞の方にはめぼしい情報はなかったから、今度はこっちを借りてみたの」
白石が近くの机に借りてきたスクラップ帳を広げる。
「これは、週刊誌か」
「そう。この手の話なら、公的な文章よりもこっちの方が詳しく書いてると思って」
なるほど、確かに他人事だと思えば、あのマンションの自殺はそう言った視点で興味をそそるかもしれない。痴情のもつれ、後追い自殺、連鎖する呪い。大衆ウケしそうな内容ではある。
「人の不幸を見世物にするなんて……」
狭山が汚らわしいものを見るような目で週刊誌のスクラップ帳を見つめる。が、白石がそんな狭山に正論を振りかざした。
「あらあら、友人の略奪愛を応援するような倫理観の乏しいお嬢さんにはそんな風に見えるのね。もしこの自殺が自分の全く知らない、全くの他人ごとだったとしても同じことが言えるかしら」
「当然です」
スクラップ帳に目を通しながら、白石は流れるように言葉を紡ぎ狭山を煽る。狭山も毅然とした口調でそれに答えるが、
「本当に? ならあなたは、実君を奪われた私の気持ちもしっかり考えてくれてるはずよね? 大好きなアイドルの熱愛報道も笑って応援できるし、海外の悲惨な戦争にも涙を流して悲しむことができるなんて、とんだ聖人サマだわ」
「っそれは……」
いけない、狭山が涙目だ。
白石が言ったことはすべて正しい、正論だ。それゆえに逃げ場がなく、何も産まない言葉でもある。人を追い詰めるためだけに存在している言葉、といっても過言じゃない。正論とは、自分で気づかなければ意味がないことだから。
狭山は自分の未熟さ、考えの至らなさを無理やりに見せられてしまった。他でもない、白石という「被害者」によって。
「自分の浅ましさを見ようともしないで、目についた悪者を糾弾して気持ちよくなってるだけじゃない。あなたの方がよっぽどたちが悪いわ」
週刊誌の文章を読み進めながらも、白石は正論を振りかざすのをやめない。けれどスクラップ帳を持つ手は小刻みに震え、開かれたページはくしゃりと、握りしめられていた。
白石は、おまじないの被害を間接的に受けただけの、完全なる被害者なのだ。それも、南野の略奪愛によって道連れにされた男子生徒、実君の本当の恋人という、考えうる限りでは最悪の巻き込まれ方をした。
でも、それは狭山を追い詰めていい理由にはならない。
「白石、その辺にしてくれないか」
僕がそう言うと、白石は一度だけ固く、固く、目を閉じた。
「……わかってるわよ。これはただの八つ当たりだって……。でも、ならどこにぶつければいいの……?」
白石のそのつぶやきは、きっと答えを求めてのものではないのだろう。
「今日はもう、帰るわ……」
それまでとは打って変わった、疲れきったような声で言い、白石は皴になったスクラップ帳を手で伸ばし、それを静かに閉じる。
「おい、白石……」
僕にスクラップ帳を押し付けて立ち去ろうとする、最初に見た時よりも幾分小さく見えるその背中を、僕は反射的に呼び止める。
「その、調べたかったことは、わかったのか?」
僕の呼びかけに白石は足を止め、振り返ることなく言った。
「ええ。ホント、……酷い話」
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