第2話
悲しみが教室を覆っていた。
涙のにおいは嫌いだった。苦いような香りがするのに、その実どこか、生臭いと感じるから。きっと、僕の抱く死のイメージに生臭さが付きまとっているのだろう。
重力が二倍になったような教室の中で、南野の友人たちは目を腫らしながら互いを慰めあっていた。……その会話の中に「おまじない」という言葉が入っていたことを、僕は聞き逃さなかった。
南野の友人には、ちゃんと言い聞かせておかないといけないだろうな……。
生臭さとともに思い出される、記憶に染み付いた、あのマンションの事件。それをこれから話さなければならない。そう思うだけで、生臭さがのどに絡みつき、飲み込む唾は鉛の味がした。
南野の自殺のことをクラス全体に知らせた後、南野と特に親しかったもので、おまじないを知っているだろう生徒四人を職員室に呼び出した。
「あのマンションとおまじないのこと、調べるのはやめろ」
僕の言葉に彼女たちは息をのんだような反応を見せた。おまじないのこと、自分たちがそれについて調べようとしていること、それが僕に筒抜けになっていることに気づいていなかったのだろう。
「狭山っ!?」
四人のうちの一人が鋭い視線を狭山に向ける。この剣幕、友人同士の秘密を狭山が僕に漏らしたと思っているのか。誰かを疑うのは分かるが、どうして狭山だけを……?
「勘違いしているようだが、あのマンションとおまじないのことは誰かから聞いたわけじゃない」
嘘だ。おまじないの確信を得たのは狭山から話を聞きだしたからだ。もっとも、どうしておまじないの存在に気づくことができたのか、それを説明するには過去の事件について話すことにつながる。
「でも先生! 絵里は好きな人に告白して、付き合い始めたばっかりだったんです! それなのに……。何か理由があるはずなんです」
「どうして調べちゃいけないんですか。友達のことちゃんと知りたいって思うのはいけないことなんですか!?」
友人の死を、好奇心と正義感でごまかそうとしている彼女たちは、どこか、過去の自分と重なるようで見ていられなかった。やはり彼女たちを止めるには話すしかないようだ。僕が知る、あのおまじないの真実を。
「もう十年も前になるが、僕が知る限りで六人、あのマンションで人が死んだ」
その言葉に、彼女たちは表情を凍らせた。
「一人目は、僕の友人の姉。僕もよく、遊んでもらった。失恋を理由にした飛び降り自殺で、遺体の損傷がひどく、ほとんど原形をとどめていなかった」
飛び降りという言葉に、狭山が顔を歪めた。南野のことを考えたのだろう。狭山はもしかしたら、一番南野の死にショックを受けているのかもしれない。狭山は南野に、ある意味で依存していたから。
四人のショックが収まるのを待って話を続ける。
「二人目は、失恋相手の男だ。彼は自殺ではなく、マンションの目の前で交通事故に巻き込まれた。跳ね飛ばされた遺体はちょうど飛び降りの跡と重なって、まるで手をつないでいるようだとその当時言われていた」
そのまま三人目、四人目と話していく。その二人も恋人同士だったようで、次第にそのマンションは失恋の苦しみで自殺した女の霊が呪いをかける、そんな場所としてうわさが広がっていった。
「そして五人目……」
「もういいですっ!」
僕の言葉を遮ったのは、狭山だった。彼女が大きな声を出すことは珍しく、話をすることに集中していた僕は思わず口を止めてしまった。
「もう、わかりました……。おまじないにはもう関わりません。だから、もうその話はやめてください……」
ほのかに目を潤ませている狭山を見て、後悔を覚えた。ぼくは、友人を失ったばかりの少女に何を話しているのだろう。
思い出したくない過去を話しているうちに、周りが見えなくなっていた。過去の記憶に飲み込まれて、彼女たちをおまじないに関わらせたくないという、本来の目的を忘れていた。正気に戻ると同時に、喉の奥に絡まっていた鉛の味と血なまぐささが消えていく。
「すまない……。とにかく、もうあのマンションに近づかないでほしい。今はただ、南野を悼むことだけを考えてくれ」
それだけ言い、四人には帰ってもらった。狭山は帰り際、職員室のドアで何か言いたげにこちらを振り返ったが、結局何も言わずに、再び背中を向けた。
放課後、生徒たちを帰して二時間ほどで仕事が終わり、帰路に着く。
もう外は暗く、少し肌寒い。校庭の土や植物の匂いが強く感じられ、一日が終わるのだと認識させられる。今日という一日を長く感じたのか短く感じたのか、振り返ってみてもわからなかった。
「先生」
ふいに呼び止められ、驚いて声の方向を見る、と、そこには校門に背中を預けた狭山が立っていた。
「狭山? 帰ったんじゃ……もしかして待っていたのか?」
帰り際に何か言いたそうにしていたことを思い出す。もしかして、二時間もここで待っていたのか? 思わず手を取る。夏だというのに、彼女の手は驚くほどに冷え切っていた。
どうして、と聞く前に狭山が口を開く
「先生、どうしてもだめですか?」
何のことを言っているかすぐに理解できず、首を傾げた。
「おまじない」
ぽつりとつぶやかれたその単語に、背筋が冷える。
「だから話しただろう! あそこは……」
「それでもです!」
狭山の剣幕に押され、黙る。今日の狭山はどこか雰囲気が違うなと、場違いだとは思いながらもそんな考えが頭に浮かんだ。
「絵里ちゃんは私の一番の友達でした。絵里ちゃんにとって私はたくさんいる友達の一人でしかなかったのかもしれないけど、私にとっては一番の友達です。お互いの秘密を守って、お互いの恋も応援してました」
狭山は、堰を切ったように南野との思い出を語りだす。それまでクラスメイトには言えなかった、秘密にしていただろうことまで、全て。
自分がいかに南野を慕っていたか、南野のどこに惹かれていたのか、どんな関わり方でも、南野と一緒にいられるだけでうれしかったのだと。
その言葉は中学生らしい、幼稚で、拙く、月並みな言葉の羅列だった。でも、南野の死を一番悲しんでいるのは狭山だという、僕の勘を裏付けるものとしては十分すぎた。
同時に、彼女の言葉は僕の決意を揺るがすに十分すぎるものとなった。なってしまった。
そのままの足で、僕と狭山は例のマンションへと向かうことにした。
できる事ならあのマンション、というかおまじないには関わりたくないというのが本音だ。だがそれ以上に、狭山が一人でおまじないを調べることは許容できなかった。
狭山の南野への思いを聞いた僕は、僕と一緒に行動することを条件に、狭山におまじないを調べることを許可したのだった。
到着したマンションには、すでにいくつかの花束が添えられていた。おそらくは先に帰った生徒たちか、遺族が手向けたのだろう。それを見て、狭山が表情を歪ませる。
友人の死を改めて認識させられた、そんな表情だった。
「やっぱり、今日はもう帰ったほうがいい」
言い聞かせるように狭山に告げる。
「自覚はないかもしれないが、相当なストレスを受けているはずだ。友人の死なんて、中学のうちから経験していいことじゃあないんだから」
「いえ、大丈夫です……」
けれど、狭山は気丈にふるまっていた。どうにかして彼女を休ませたい。だが意固地になった子どもほど、言うことを聞かない生き物もいない。
――これは、さっさとマンションに入ってしまったほうがよさそうだ。
そう思った瞬間、人が落ちてきた。
――――どんっ――――。
聞きなれない、鈍い音が聞こえてそちらを見る。
そこはちょうど、手向けられた花の真上。
南野が落ちたまさにその場所で、真新しい死体がまた一つ、出来上がっていた。
第一発見者として警察からの聴取を受けた僕は、狭山を自宅に送り届けてから家路についた。聴取が終わるころには午後十時を過ぎており、狭山を一人で帰らせるには心配だったのだ。おかげで家に着いたのはてっぺんが回ったころだった。
飛び降りたのは、うちの中学の生徒だった。それも、南野の告白した相手。南野と同じ場所で、当時屋上に他の人影が見えなかったことから、警察は後追い自殺として調査しているらしい。まあ、納得だ。普通ならばそう考える。けれど、
「狭山は、おまじないのせいだって考えるよな……」
あまりにも出来すぎている。同じ場所での自殺、というだけではない。普通、あの高さのマンションから飛び降りたら、全く同じ場所から飛び降りたとしても落下地点はずれるはずだ。人間の重さはそれぞれ違うし、風向きもある。それが、まったく同じ場所に落下だなんて……。
「うっ……」
鮮明に、思い出しすぎた。広がる血だまりから漂う鉄の匂いと、生暖かい、元人間の体温。押し花のようにつぶれた体、握られた両手、こちらを見つめる、胡乱な瞳。
濁り切ったその眼は、どうしたって僕に、最初の自殺者を想起させた。
「まさか、本当にあの人の、穂香さんの呪い……?」
否定したい気持ちが、重い事実に塗りつぶされる。
最初は、事件があった場所に生徒を近づけたくない、ただそれだけだった。おまじないや呪いが本当にあるだなんて、思いたくなかった。
まして、そのきっかけになった穂香さんは友人の姉で、僕の……初恋の人で。
今でも、その笑顔も、声も、香りも、寸分たがわず思い出せるほど、好きだった人で、思い出の人で。僕の中にある思い出は、呪いなんて無縁だと断言できるほどに美しかった。
それを呪いだのおまじないだのと言って踏みにじることが僕には、許せなかった。
けれど、今思い出される初恋は、濁った、焦点の合わない目で僕を見る、首の折れた人形のような姿だけ。
呪いなど、信じたくない。でも呪いだと言われてもおかしくないことが起きている。
「なら……僕が調べよう。呪いなんてない、穂香さんは誰も呪っていないって」
狭山を一人にしないことにもつながる。僕がマンションのおまじないについて調べない理由はどこにもない。
むしろ、ここで立ち止まるほうがどうかしている。
気づけば僕は、古い電話帳から一つの住所を探し出していた。
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