おまじない

遥 奏多

第1話


「ねえ、聞いて! 昨日、告白したらOKされちゃった!」


 教室に入ったとたん、高い声音の話し声が聞こえた。それに続いて複数の女子生徒が「きゃ――っ!」と黄色い歓声を上げる。夏特有のむわっとした空気とよどんだ匂いも相まって、朝から憂鬱が加速した。


「どうするの? 付き合うの?」「いつから好きだったの?」と、矢継ぎ早に質問が繰り出されるなか、話題の中心である明るい髪色の女子生徒はほほを赤らめながらそれに答えていく。


 中学生で告白だの付き合うだのと、大人になった身から考えると、くだらない事この上ないのだが、教師である僕がまさかそんなことを口にするわけにもいくまい。この子のように、小さい恋を繰り返しながら、女の子はしたたかな女性へと育っていくのだろう。


 そんな教師らしい、あるいはじじ臭いことを考えながら教壇に上る。そして朝の号令をかけようとしたとき、彼女たちの会話の中でとある単語が耳に入った。


「もしかして、あのおまじないのおかげ?」


 何気ない、中学生らしい会話にすぎない。けれどその単語は僕にとって聞き逃せない単語でもあった。


「実はね……」と、話を振られた生徒がその質問に答えようとする。その言葉が紡がれる前に僕は「こら! いい加減、席につけ」と、会話を遮った。


 盛り上がっていた生徒たちは、非難の目を向けながらも渋々といった様子で席に着く。


「盛り上がるのはいいが、けじめはしっかりつけろよ。日直、号令」

「はっはい! 起立!」


 そう声を出したのは、先ほどまで告白したという同級生を質問攻めにしていた、狭山という女生徒だった。中心になっていた生徒とは違い、校則通りの黒髪を胸のあたりまで伸ばしている、大人しい女子生徒だ。


 礼、の言葉で発される、ぼそぼそとして揃っていない朝のあいさつ。思春期らしいなと思いながら、こちらも「はい、おはよう」 とあいさつを交わし、朝のHRを開始する。


 HRといっても、大抵はこれといって共有するような情報がない。今日は週初めの月曜日で、ほかの曜日と比べると確認事項が多少増えるが、それも提出物の確認や生徒の健康チェックなどだ。


 しかし、今日はそれに加えてもう一つ連絡事項があった。


「先週の金曜日の放課後のことだ。学校のすぐ近くにあるマンションで、立ち入り禁止区域である屋上に入り込む子どもを見た、という報告が学校に届いている。心当たりのあるものは速やかに申し出るように」


 こんなことを言って素直に申し出るなら苦労はしないのだが、場所が場所だ。学校や自治体が過剰に反応するのも頷ける。


「立ち入り禁止区域には、そこに立ち入ってはならないちゃんとした理由がある。屋上であれば落下の危険、海であれば溺れる危険。そのことを理解したうえで行動するように」


 これだけ言っても「なら落ちなければいいし溺れなきゃいいじゃん」などと言って遊びたがるのが子どもというもの。ただ、無意味と分かっていても言葉にしなければならないのが大人なのだ。面倒くさいことこの上ない。


「さて、これで朝のHRを終わる。一時間目は僕の授業だから、教科書とノートのほか、資料集を用意しておくように。あ、配布するプリントがあるので、日直は先生と一緒に職員室に来てください」


 再び狭山が号令をかけて、HRが終了する。僕は一足先に教室を出て、彼女が現れるのを廊下で待っていた。


 教室内から声が聞こえる。『で、結局どうなの? あのおまじない!』『授業中に手紙回してよ、男子には読ませないからさ』


 ……まったく、次の授業はいつも以上に目を光らせなければならんな。


 そんな心配をしていると、話を切り上げたらしい狭山が廊下に出てきた。わざわざ彼女が出てくるのを待っていたのは、ひとえにおまじないについて聞きだすためだった。


 職員室までの道を二人並んで歩く。廊下は教室よりも幾分か涼しく感じたが、汗をぬぐうハンカチを手放す気にはなれなかった。隣を歩く狭山も同じようで、歩いていると、おそらく制汗剤のものだろう、柑橘系の香りがふわりと漂う。


「もう君たちも、恋愛に興味が出る年頃なんだな」

「や、やっぱり聞いていたんですね……」

「そりゃあ、あれだけ大きな声で話していればな。ところで、その話に出ていた『おまじない』についてなんだが……」


 おまじないという言葉が出た途端、狭山の肩が少しこわばった。その反応で、僕は「やっぱり」と確信する。


「そのおまじない、例の、マンション屋上の人影と関係あるだろう」


 配ってほしいプリントがあるのは本当だが、日直に頼んだのはこの話をするためだった。狭山のほうを見るが、彼女は少しうつむくように下を向き、その表情を隠している。


「あー、念のため言っておくが、今回のことを怒るつもりはないよ。もし説教するなら廊下じゃなくて、職員室でしっかり話を聞いてもらうからな」


 その言葉で少しは気が楽になったのか、狭山はゆっくりとこちらを窺うように顔を上げた。その表情は不安げなものではあったが、僕の顔を見てそれも安心に塗り替わっていった。


「よかった、もし私のせいで絵里ちゃんが呼び出されたらと思うと……」


 そう言い狭山は身震いした。


 絵里ちゃんというのは先ほど教室内で話題の中心になっていた、例の告白をしたと言って質問攻めにされていた生徒、南野絵里のことだ。狭山の反応を見るに、金曜日に目撃されたという人影はおそらく南野のものなのだろう。彼女はクラスの中心になることも多く、まあいわゆるカーストが高い。


 朝の会話を見ていると、狭山は南野が聞かれたがっていることを率先して質問しているように見えた。きっと南野の顔色を窺って発言していたのだろう。誰だって仲間外れにされたくはない。特にこの年の子どもはそう言った人間関係に敏感だ。


「立ち入り禁止区域に入ったのは、まあ褒められたことではないがな。そういうのに惹かれる気持ちもわかる。けどな、あのマンションだけはだめだ」

「えっと、何か特別な理由があるんですか?」


 ここまで強い言い方をすれば疑問を抱くのも当然か。


 どう説明したものかと頭を悩ませているところで、タイミングよく職員室にたどり着く。ガラガラとドアを開けると、クーラーに冷やされた空気がコーヒーの香りを運んできた。コーヒーの香りは不思議だ。飲んだわけでもないのに頭がすっきりする気がする。


 入口に狭山を待たせて自分の机からプリントをとってくる。その往復の間で考えた「あのマンションの屋上は建設の時に有害物質を使っている」というありふれた理由を説明し、狭山を教室へと送り出す。


 自分の椅子に腰かけた僕は「ふぅ」 とため息をつきながらコーヒーを口に含んだ。苦いが、どこかほっとする香りが口全体に広がった。


「先生、聞いてましたよ。あのマンションのこと、説明しなくていいんですか?」


 隣の席に座る同僚から声をかけられる。もちろんまじめな生徒に嘘をついたことに罪悪感はある。けれど、


「今のあの子たちに話したら、変に好奇心をあおってしまいそうなので。それに、あのマンションの事件は僕にとっても無関係というわけではありませんから」


 教え子たちがあの場所に関わらないでくれるなら、少しの罪悪感など甘んじて受け入れようと思うのだ。


「そういえば、もうすぐ命日か。……穂香さん」


 吐息のような声が、空気に溶ける。




 南野絵里が例のマンションから飛び降りたのはその日の夜のことだった。



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