第6話

 屋上に出るための扉は鉄製でひどく重い。強風への対策だろうか。それはときに象徴的意味を帯びて見える。たとえば空を自由の象徴と見立てれば、自由への障壁と捉えることができるし、屋上を飛び降りのメッカと考えるなら、この世とあの世を隔てるたった一枚のたよりない板にすぎない。

 その意味で、鉄の重さは軽いともいえるし重いともいえる。強い風が吹けば簡単に開いてしまうかもしれない。状況次第だ。

 もちろん屋上には誰もいなかった。誰もこんな冬の朝、しかも一限目の授業が行われているような時間に、屋上へ出たりはしないのだ。

 久留橋は手すりに沿ってゆっくりと移動しながら眼下の風景を眺めていた。肩までの髪が風に揺れる。

「それで」と彼女は言った。「私はどのあたりから跳べばいいの?」

「跳ばないでいいよ、もうお願いは聞いてもらったから」

「跳び下りろって言ったじゃない?」

「言ったよ。でも選択肢を出した――跳び下りるかか、どっちでもいいってね」

 細い一陣の風が、二人の間を過ぎて東棟の方に抜けていった。微かに聞こえていた救急車のサイレンが遠ざかり、そのまま消えた。

「君は屋上に来てくれた。だからもう、僕は何も望まない」

 すん、と彼女は小さく鼻を鳴らした。それから風に向って「ばかみたい」とつぶやいた。


 久留橋はその後三十分間無言のまま手すりにもたれ、何事もない町の様子を見守っていた。紺色のダッフルコートがクリーム色の空によく映えた。

「へくし」

 と力のないくしゃみをして、少し身を縮める。脚をすり合わせている。

「寒いなら教室に降りればいいだろ」

「日夏見くん先行ってよ」こちらに背を向けたまま答えた。「いっしょに行っちゃ、まずいでしょ」

「だったら、そっちが先に行けよ。僕は寒いの嫌いじゃないんだ」

 コートを着ているので寒さは問題ない。風が穏やかで気持ちがいいくらいだ。

「私はまだ考えることがあるの」

 視線を上げ、ぼんやりと山の稜線を眺めながら久留橋は言った。

「僕にだってある」

「どうせろくな事じゃないでしょ。言っとくけど、もう命令は聞いたからね。これ以上はナシだからね」

「分かってる。次の機会にとっておく」

「次はないんだってば」

 しばらくの無言の後で久留橋は尋ねた。「……次はどんなことさせる気なの?」

「色々だよ」

「たとえば?」

「駅前で聖書を朗読してもらったり」

「ホントにろくな事じゃないのね」

「あとは、質問だね」

「確認じゃなくて?」

「質問。純粋に分からないことがあるのさ」

 考えるような間があった。「訊いてみて。特別に許可したげる」

「あの文字は、誰が書いたものなの?」

「……何の話?」

「あの黒板に書かれていた文字は君の字じゃなかった。じゃあ一体誰が書いたものなんだ?」

「言っている意味が分からないんたけど」

「別に確信があるわけじゃないけどね」と僕は言った。「でも、自分を罰するなんてのは、やっぱり腑に落ちない。何にしろ君が選んだ手段はあまりにもまどろっこしすぎるから」

「あなたが決める事じゃないでしょう」

「もちろんそうだ。でもやっぱり、ストンと落ちない。落ちないことはやっぱり気持ち悪い」

 久留橋はまだ山の稜線を眺めている。

「君はあの黒板に自分の名前を書いていない。あれを書いたのは別の誰かだ。そして君は、その誰かのことを庇っている――何故か?その人物になにか後ろめたいことがあるからだ。だからあんな嘘をでっちあげた。尤もらしい理屈までつけてね。どう?的外れな部分があれば教えてくれ」

 久留橋は少しも変わらぬ姿勢で色のない景色を眺めていた。やがて肩越しに振り返り、たった今その存在に気付いたとでもいうように、新鮮な驚きをもって礼を見た。

「日夏見くんって、もっと賢いのかと思ってた」

「……人は見かけによらないよ」

「あのね、あんまり推測でものを言うべきじゃないと思うの。結局恥ずかしい思いをするのは自分自身なんだから」

「ご忠告ありがとう。でも僕だって、何の根拠も無くこんなことを言うわけじゃない」

「ユキコさんに聞いたってわけ?」

「ああ――聞けばよかったな、たしかに」

 まったく気がつかなかった、と礼は言った。「君はやっぱり頭がいいな」

「そういうのいいから。言いたいことを簡潔に言って」

「君はクラス委員だ。黒板に字を書く機会なんて腐るほどあったし、僕もそれを見ていた――あの字は、君の字じゃなかった。黒板に字を書くのに慣れていない人間の字だし、そもそも上手くない。拙い。君みたいに几帳面な人間が、真似をして書けるもんじゃない」

「分かったような口を聞かないで」

 久留橋はよく冷えた声でそう言った。

「消えて」と続けた。「しばらくは、私の視界に入らないで」

 仰せのままに。

 退散するとき、屋上の重い扉は礼の目に、地下シェルターの入り口みたいに見えた。 

 出口?分からない。

 いずれにせよ、大した違いはない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゆきのまいし くれさきクン @kuremoka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ