第5話

 翌朝のこと。

「あ」

 と礼は声を上げて立ち止まった。

 校門の前に久留橋の姿を見たからだ。向こうもこちらに気づいて足を止める。礼が歩き出すと、何か躊躇うように口を開きかけた。

 その脇を礼は通り過ぎた。

「――ちょっと待ってよ」

 腕を掴まれた。思っていたより強い力だった。

 強引に久留橋の方を向かされる。

「なんだよ」

「『なんだよ』って何よ?」と久留橋。「昨日の今日で、無視はないんじゃない?無視は。せめて気づかなかったフリくらいするもんでしょ普通?」

「元気そうで安心したよ」と礼は言いながら久留橋の手を振り払った。「学校に来ているだけで、生きてんだなってことは分かる。そうじゃなければ、代わりに悲しい知らせと菊の花が届けられるところだからね。無事ならそれでいい。他に知りたいことなんて何もない」

「それはそうかもしれないけど」回り込み、辛抱強く久留橋は言う。「でも昨日あんなことがあって、気遣いの言葉ひとつもないなんて、あんまり紳士らしくないんじゃない?」

「そういうのは他所にあたってくれよ」と礼は言った。「僕は専門外だ」


 二人を追い越して階段を上る生徒、前を歩く生徒、あちこちの教室からあふれ出す、頭痛をもよおすほど喧しい大声――学校はいつも通りだった。そして久留橋まで普段と同じ調子であることは、わずかに、ひそかに、礼の心を動揺させた。

 久留橋はユキコさんに命を狙われた。それが意味するのは、彼女のことを殺したいほど憎む者が、この学校に存在するということだ。 

 そのことを、彼女が知らないはずはない。そんな状況で普段通り冗談を言ったり、笑ったりできるものだろうか。

 久留橋はクラスの人気者だ。ありきたりな学園漫画の人物紹介を二つ三つ引っ張り出してモンタージュ化すれば、彼女に相応しいプロフィールはいくらでも作れる――いわく「男女分け隔てなく接し」「教師からの信頼もあつく」「いつも友達の環に囲まれているけれど」「本当の自分を見てくれる人のことを、心のどこかで探している」そんな感じ。

 毒を吐くことはあるが、それはジョークの範疇だし、言われた側を不快にさせない程度の加減も彼女は心得ていた。要するに気持ちの良い話し相手だったわけだ。久留橋の悪口など、ほとんど聞いたことがない。聞いても大体は他愛のないものだ。率先して久留橋を殺そうとする理由など、少なくとも礼には思いつけない。

「あーあ」

 階段を上る途中、久留橋は突然声を上げた。

「……何だよ」

「なんか調子狂っちゃった」と久留橋は言った。「ホントは日夏見くんに、お礼言おうと思ってたのに」

「……言わないでいいよ」

「だって、命の恩人だもの。今日だけは日夏見くん、あなたの言うことなら何でも聞いてあげるって、そう言おうと思ってたの。『私のこと奴隷だと思っていいよ』って」

「それほど大したことはしてないよ」

「私の命が大したことないっていうの?」

「そうは言ってない。大したことあるから、お礼なんて言われる筋合いはないって言ってるんだ」

「……どういう意味?」

 顔を覗きこんで尋ねる。

「……僕はたった一度、君を助けただけだ。偶然に。でも二度目以降はどうしようもない。いつも君と一緒にいられる訳じゃないし、仮にそうしたところで、不意打ちを食らったら防ぎようがない。昨日は運がよかっただけだよ。根本的な問題は何も解決されてない」

 久留橋は口を挟まなかった。仕方ないので、礼はその先の言葉を継いだ。

「あの黒板に名前を書いたのが誰なのか分からない限り、同じことは何度だって起こるよ」

「起こらないわ」

 久留橋は歌うように軽く言った。

「もうあんなことは起こらない。私には分かるの」

 涼やかすぎる顔をしていたので、何を意図しているのか分からなかった。

「……何故そんなことが分かる?」

「だってあの黒板の字、私が書いたんだもの」

 

    ⛄


「つまりね、自殺しようと思ったの」久留橋は変わらぬ口調で続け、教室のある三階を素通りし、四階に向け足を進めた。礼もそれに続いた。

「自傷――かな、正しくは。ホントに死ぬつもりはなかったから。ユキコさんは人を殺さないって分かってたからね」

 私は自分を罰したかったのよ、と久留橋は言った。

「そのために恐怖が必要だったの。一体いつどこで、どんな痛みを味わうか分からないという恐怖の中で、本当に自分の身体を傷つけなければ罰の意味はない……そうでしょう?ふつうに屋上から飛び降りたんじゃ、私が得をするだけじゃない。自分のペースで自分の人生を終わらせて、その後片付けは他人がやる。そんなの間違ってるわ。人に迷惑をかけているだけだもの」

「いろいろ言いたいことはあるけど」しばらくして礼は口を開いた。「一つ言わせて」

「どうぞ」

「君は僕に迷惑をかけているよ」

 ややあって久留橋は頷いた。「わかってる」と言いながら廊下を渡りきり、三階に伸びる階段を下り始める。

「だからあなたに罪滅ぼしをしたいの。何でも言う事を聞くって言ったでしょ?あれ、本気だよ。どんなことでもいい、一つだけ言うこと聞いてあげる」

「……」

「嬉しくて言葉も出ない?」

「いいや」と正直に言った。「混乱してるんだよ、情報量が多すぎてね……だいたい、罰って何だ?中途半端な自分語りは困るんだよ。いったい君は何の罪を犯したんだ?」

「人を殺した」

「自首すればいいだろ」

「してもしょうがない。法律には裁けないことだから。そういう殺し方をしたの」

 足を進めながら礼は溜息をついた。久々に頭痛を感じた。まっすぐ進んでいたつもりが、スタート地点に戻ってきたという感じ。

 けっきょくそのまま歩き続け、一階まで戻ってしまった。何やってんだかと思いながらも対面の階段に向って進む。

 その階段を二人で上りはじめる。

「あなたが望むことなら何でもいい」と久留橋は言った。「言ってみて」

「つまり」と礼は言った。「それが君にとっての罰になるんだね」

「それに答えれば『命令を聞いた』ことになるの?」

「ならない。答えが明らかな質問は、質問とは呼ばない。これはただの確認だよ」

「それじゃあ改めて確認しておくけど、私がしてほしいことはあなたがしたいこと。本当に何だっていいんだよ」

 三階と四階の間の踊場には大きな窓があった。空はいつもの大理石色で、その下にある町はパラフィンで固められたみたいに静かだった。まるでシラトの中にいるみたいだと礼は思った。

 あるいは、似たようなものかもしれない。そこに大きな違いは無いのかもしれない。人の想いを垣間見ているのは同じことだ。

「ひとつお願いがある」と礼は言った。

「何でも」

「この窓から飛び降りてくれ」

 久留橋と窓との距離は40センチほどしか離れていない。締め切られた窓に映る彼女の姿は檻の中の小鳥を連想させた。

「ここから君が跳び下りて死ぬこと、それが僕の願いだ。それとも、屋上に行く?僕はどっちでもいいよ」

 チャイムが鳴りだす。

 久留橋には礼の声が聞こえていないように見えた。でもそんなはずはなかった。踊場には二人しかいなかったし、二人はとても近い場所に立っていたのだから。

 チャイムの音に紛れながら、「驚いた」と久留橋は普段どおりの口調で言った。「そんなこと言うんだ、日夏見くん」

「自分の言った事には責任を持たなきゃ」

 久留橋は礼の方を向いた。

「せめて別のやり方じゃいけない?飛び降りだと、後片付けをする人が大変でしょう?私は誰にも迷惑をかけたくないのよ」

「虫がよすぎるよ。誰にも迷惑をかけずに死ぬなんて、誰にも迷惑をかけずに生きるより難しいことだろう」

 間延びしたチャイムの音が長い尾を残して消える。

 それから長い時間が経った。どれほどの時間なのか礼には分からなかった。一分なのか一時間なのか――まるでカッターで切り出したみたいに時間は平板で、尺度というものを失っていた。

「意地悪」と久留橋は言った。

「違うよ」と礼は言った。「親切心だ。人間死んだらそこで終わりじゃないってことを、君に教えてあげているんだ」

「……終わりじゃないの?」

「想いは残る。残された家族や友だちは、君のことを覚えている。そういう想いが目に見えない世界を作ることもある」

「日夏見くん、ひょっとして霊感あるとか言っちゃう系?」

「僕はユキコさんに会った」

 久留橋は表情を変えなかった。

「昨日、君と別れた後にね。会って、久留橋のことを殺そうとするのはもうやめにしてくれってお願いした」

 しばらくの沈黙の後、「どうだったの?」と久留橋は尋ねた。

「殺されかけたよ。話が通じたのかどうかはよく分からない。でもとにかく、彼女は僕のことも殺さなかった。そういう術に長けているんだ。殺さず傷つける術にね」

 それは簡単なことではない。ナイフで刺し殺すことよりはるかに難しい。

 でも、今のところは誰も死んでいない。

「彼女は殺したくないんだ。でも同時に、誰かを喜ばせたいと思っている。だから人を傷つける」

「喜ばせる?」

「誰かをコテンパンにすれば、みんなが喜ぶと思ってる」

 実際、彼女が傷つけているのは誰かに傷つけられることを望まれている人間だけだ。

「歪んでる。矛盾した想いが彼女を成り立たせている――殺したくない、でも誰かの役に立ちたい、ってね。そしてみんなが彼女に望んでいるのは、日常の退屈を紛らすために犠牲者を出し続けることなんだ。そして恨みのあるやつを、できるだけ酷い目に遭わせてくれることなんだ。それだけなんだ――本当にそれだけなんだよ」

 だからユキコさんは人を傷つける。そういう『想い』が、この学校に存在するかぎり。

 久留橋は何も言わなかった。ただじっと、礼を色のない目で見つめていた。視線は少しも動かない。こちらの話は耳に届いているだろう。いくらかは心にも届いているかもしれない。それでも彼女は落ち着いていた。自分のペースを崩さなかった。

「迷惑をかけたくないと言ったね」と礼は言った。「君の『自傷』は、すでにユキコさんに迷惑をかけている――彼女の心を苦しめている。あるいはもうずっと前に、感情なんてものは失っているのかもしれない。こんな馬鹿げたお祭り騒ぎに付き合わされているうちに、そんなものは、とっくの昔に死んでしまったのかもしれない」

 でも彼女はまだ人を殺していない。それが彼女の明確な意思表示でなければ、いったい何だというのだろう?

「僕はユキコさんの心を殺したくない。彼女が人殺しにならないうちに、彼女を救ってやりたいと思う」 

 礼はそこまで言うと金縛りを解くように久留橋の眉間を人差し指で軽く突いた。久留橋は目をつぶった。

「痛い」と久留橋は言った。

「そんなに痛くしてないよ」と礼は言い、上りの階段に向って踵を返した。

「屋上行こうぜ」

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