第4話
目を開けると、誰もいない白戸神社に礼はいた。
風が木の葉を騒がせるほか、聞こえる音はなにもない。ハクの冗談も聞こえなければ、街から流れるかすかなざわめきのようなものもない。
そこは何の誇張も比喩もなく、単なる無人の町だった。
礼はゆっくりと踵を返し、丘の頂上から吹き降ろす風に背を押されながら、白戸神社を後にした。
自転車を駆る。
太陽はすっかり山の向う側に落ち、宵闇が街の隅々を黒く染めていた。無機質な光がそこに幾らかのアクセントを添えているが、動くものは何もない。この無人の町にも電気は通っている。礼はいくつもの街灯の間を抜けて走った。
学校は巨大な闇の塊だった。灯りは一つもついていない。礼の自転車が放つビームライトとわずかに残った空の紺色だけが、敷地内における光のすべてだった。礼はユキコさんの教室のある校舎の入り口脇に自転車を停め、真白な光線を放ち続けるライトを自転車から取り外し、入り口のドアをくぐった。
校舎の中はまるで共同墓地のように冷たかった。リノリウム張りの廊下を叩く自分自身の靴の音は、まるで小さなくさびを打つように響いた。
礼は意識して早足で歩いた。血が身体をめぐるのを感じなければ、体の芯が凍りついてしまいそうだったからだ。
四階へ続く踊場に差し掛かったところで、階段の先からささやくような女の話し声が聞こえた。立ち止まり、ライトを掲げて少し先の方まで照らす。廊下の側面に貼られた窓が光を反射する他には何も見えない。人の姿もない。
四階まで上りきり、廊下の突き当り、多目的教室の入り口にライトを向ける。
扉はいっぱいに開いていた。灯りはなく、人の声も聞こえない。
ライトを前方に掲げたまま、時々背後を振り返りながら、礼は慎重に足を運んだ。
入り口に立ち、ライトで教室内の方々を照らす。
誰もいない。右側の壁に設置された電灯のスイッチを捻ると、この暗い無人の教室に、初めてほの白い光が満ちた。そして、視界の端できらりと光る何かに気づいた。
「靴紐がほどけてる」と女の声が背後で言った。
顎のすぐ下に両刃のダガーナイフが突きつけられていた。
「靴ひもを結んでみて」と女は続けた。「それだけであなたは、こちら側の人間になれるから」
「僕は体が柔らかいんだな」
礼は頭を動かさないまま、右足だけを顔の前に掲げた。言われた通り、たしかにお気に入りのバッシュの紐がほどけていた。
「ご忠告ありがとう」
「頭を下げるだけで、楽に死ねたのに」
女はそう言った。
「死にたくないよ」
「そうなの?」
「びびりだからね」
「てっきり、こっちの世界に興味があるんだと思ったけど」
「なぜそう思う?」
「わざわざこうして私の部屋に来てるぐらいだもの。それも、一日に二度も」
「うーん」と礼は右腕で相手の手をかち上げ、関節を捻る要領でその下を後ろ向きに潜りぬけた。女は抵抗をしなかった。死んだ軟体生物のようにその体はぐにゃりとして、冷たかった。
礼は三メートルほど離れた位置で女と向かい合った。だらりとナイフを下げた女は気の進まない作業を実行するような態度でこちらを向いた。
古臭いデザインのセーラー服――色白の少女。切れ長の目に、濡れ羽烏のような色合いのざんばら髪。唇は何かを言う直前のように薄く開かれていて、細かい息がその隙間から白く漏れ出ている。
人工的な灯りの元で見るユキコさんは、ごく普通の生身の人間のようにも、幽霊のようにも見えた。
「いたい」と捻じられた腕を反対側の手で押さえながらユキコさんは言った。
「それ、怖いんだよ」
礼はユキコさんの右手に握られたナイフを指さして言った。
「人に向けるもんじゃないよ、そんなの」
「他にどういう使い方があるっていうの」
ユキコさんは膝のわきで右手を小さく横に振った。それだけでナイフはどこかに消えてしまい、礼の位置からは見えなくなった。まるで曲芸だ。
「これでいいんでしょう?」そのままの姿勢でユキコさんは言った。
「武器は無しだ」と礼は言った。「僕を殺す必要なんてどこにもないはずだからね。僕は黒板に名前を書かれていないし、君に個人的な恨みを抱かれるようないわれもない」
ユキコさんは何も応えなかった。まるでこちらが「ぱげらったぱげらった。ぴよぴよ」とでも言ったみたいだ。なんだか馬鹿みたいである。
「……そうだろう?」
リアクションを催促した。
「そうね」
「僕がここに来たのは、ただちょっと、君に聞きたいことがあったからなんだ」
ユキコさんはやはり何も言わない。礼は続ける。
「つまり、どうして君は、黒板に名前を書かれた人間を殺そうとするんだ?」
「殺してなんかいないわ」と彼女は言った。
「結果的にはそうだろう。でも、四階から頭に花瓶を落とされればね、たいていの人間はね、死ぬよ。マイク・タイソンだって死ぬ」
「誰?」
礼は首を振った。「それはいい。とにかく人を階段から突き落としたり、花瓶を食らわせたりするのはまっとうな人間がすることじゃない。まして何の恨みもないような人に向って、そういうことをするべきじゃない」
「……それがあなたの言いたかったことなの?」
「今日君が殺そうとしたのは、僕のクラスメートなんだ。たいして仲がいいわけじゃない。でもね、決して死んで欲しいとは思わない。寝覚めが悪いからね。それに、たくさんの人が悲しむことになる。ねえ、だから、どういう趣味の暇つぶしかは知らないけど、変な都市伝説に乗っかって人を傷つけるようなことをするのはやめてくれないかな」
ユキコさんは礼をじっと見つめるだけ見つめて、身動きはちっとも取らなかった。もはやナイフは持っていないが、不気味であることに変わりはない。こちらの意図が通じているのかいないのか分からない人間は、説得の相手としては最悪だ。
かなり長いこと彼女は黙っていた。
「考えてみたこともなかった」
「……そうなの?」
「うん。そういうのを嫌がる人もいるのね」
「嫌がらないと思っていたのか」
「みんな喜んでると思ってたわ」
思わず考え込んでしまった。一理とは言わないが、0.1理くらいはあったからだ。
「……みんなが喜んでる訳じゃない」
「そうなの?」
「喜ぶのはごく少数だ」
「よくわからない」
「分かってもらうしかない」
「でも、喜んでる人はいるわ。それはわかる」
「それだけ分かってもらっても困るんだよ」
「それ以外のことはわからないわ」
「信じてくれよ」
「信じられない」
彼女はそう言って礼の目の前に立った――立った。走って移動したとか、素早く動いたとか、そんなものではない――ゼロコンマの出来事。気が付いたときには目の前に彼女が存在していた。
そして礼の眼前を白い閃光が薙いだ。それは本来なら二つしかない礼の目玉を全部で四つのパーツに切り分けてしまうはずのものだったが、結果的にそうならなかったのは礼が後方に首を逸らしたからに他ならない。ナイフの所在を確かめる間もなく、礼は次のアクションに移った――膝を折ってしゃがみ込んだ。
ゆっくりと顔を上げる。
それまで礼の眉間が存在していた空間を、二本目のナイフがまっすぐに突き刺していた。
「どうして避けるの」左手を前方に突き出したまま彼女は礼に向って言った。
「死にたくないからさ」
「でも、どのみち同じよ。ここにいる限り、あなたは私から逃げられない」
「確かにそうだ」と礼は言った。それは確かに、その通りだった。「ここは君のシラトだ。君が王様で、君自身が法則だ。この世界での僕はアブラムシの卵よりも弱い」
ユキコさんは首を振った。
「じゃあどうして来たの?」
「殺されないと思ったからさ」礼は努めて冷静に言った。「君は誰も殺してはいない。さっき君が言ったとおり、被害者の全員が生きている。殺そうと思えば、君は誰のことだって簡単に殺せたのにね」
彼女はねじまきのおもちゃを見るような目つきで礼の口の動きを眺めていたが、特別な感情を抱いているような様子はなかった。
「現にナイフで刺された生徒は一人もいない」
礼は続けた。
「君が今日花瓶を落したのも、僕が久留橋のすぐ後ろを歩いていたことを知っていたからだ。僕が久留橋を助けると分かっていた。違う?僕の考え方はちょっと楽観的すぎるかな」
軽い口調を意識はしたが、べつに確信があるわけではなかった。彼女が人を襲う理由が分からないのと同じように、殺しきっていない理由も分からないのだ。あるいはそれは単なる偶然かもしれない。気まぐれかもしれない。殺人鬼の心など分かるはずもない。
ただ、分からないなりにアテをつけることはできた。シラトはヒトではないが、かといって、不条理な自然現象でもない、そこには必ず何らかの理由や、行動原理があるのだ。礼は経験からそれを知っていたし、また、そうであることを願ってもいた。
そうでなければ、この場で殺されるしかない。
やがてユキコさんはあまり面白くもなさそうに「ふん」と鼻を鳴らした。何もかも、興味を失くしてしまったというように。それからだらりと両腕を垂らし、二本のナイフを手放した。ナイフは派手な音をたてて視界の端に転がった。
「つまんない」と彼女は色のない声で言った。
「ふむ」
「あーつまんないつまんないつまんないなあ」
「……そう?」
「わからない。でもなんだかどうしようもなく、つまんないのよ」
「誰のせいだろう?」
「あなたね」と彼女は言った。即答だった。「あなたのせい」
「僕を殺したい?」
「殺したい」
「……本当にそう思ってる?」
「殺したくて、殺したくて仕方がない」
彼女はそう言った。それは自分の感情をずっと昔にすべて殺してしまった人間の声のように聞こえた。視線は礼の首元に据えられたまま動かない。脈の動きでも見ているのかもしれない。
「だったら殺せばいいじゃないか。どうして殺さない?」
「殺してほしいの?」
「まさか」
「じゃあ」
と彼女は言った。
「殺さない」
「……」
「あなたが殺されたくないから、殺さない」
彼女はそう言った。
「二度とここに来ないで」とも言った。それからしばらくして更に付け加えた。「もう私に関わらないで」
今日のカウンセリングはここまで。
礼はユキコさんから目を逸らさないよう後ろ歩きで教室の入り口まで下がり、後ろ手に引き戸を開けた。礼が背を向けるまでユキコさんはずっと礼の目を見つめていた。睨んでいた、というにはあまりに熱量に欠ける眼差しだったが、いずれにせよ好意を含んでいたとは言い難い。最後に礼は右手を振り、そして声には出さず、『また会おうね』と口を動かした。
ユキコさんは何も言わなかった。
自分の靴音が鼓膜に刺さって二度と抜け落ちないのではないかと思えるほど静かな階段を、礼は駆けるように下っていった。自然と足が早まったのは身を切るような寒さのせいだ。それも単に気温が低かったためだけではない。寒さは礼の着ているコートの内側からも生じていた。右手が凍り付いたように動かないことにしばらくの間気づかなかった。ゆっくりと広げては閉じてを繰り返し、ようやく血が巡るようになった右手をポケットの奥にぐっと押し込む。
昇降口から自転車を停めている場所までそれほどの距離はない。暗さに慣れた目にはそのシルエットがはっきりと確認できた。それだけで十分。こまかい区別をつける必要はない。自転車は一台しか停まっていないのだから。鍵すらかける必要はない。盗まれる心配がないのだから。ここは、そういう世界だった。
ただ、心配すべきことは他にあった。
右の爪先が冷たかった。
何が起きたのかを確かめるためにしゃがみ込んだ一瞬のうちに頭上で風を切る音が聞こえた。何かが突き刺さる音がそれに続く。それはすぐ脇の地面に突き刺さっていた。
見覚えのあるダガーナイフ。柄の部分がおよそ七十度の角度で、まるで健康なつくしのようににょっきりとこちら向きに生えていた。
ナイフは一本ではなかった。礼の右のバッシュの爪先――そこに二本目のナイフが突き刺さっていた。冷たさの原因はこれだったのだ。
痛みはなかったが、当分のあいだ爪切りの必要はないかもしれない。冷たいナイフの『平』の部分は、右足の人差指と中指と薬指の先にぴたりと揃って触れていた。
ナイフが飛んできたであろう方向に目をやる。
それはもちろん多目的教室のある方向で、それに輪をかけて言うまでもなく、微かな風に揺れるカーテンの合間にぽつねんと立っていたのはユキコさんだった。
中指を立てた右手を顔の横に掲げている。
その口がゆっくりと言葉の形に動く。声は聞き取れなかったが、読唇だけで何を言っているのかは十分に分かった。おそらくはそのためにだろう、ユキコさんはゆっくりと、読み取りやすい動きで口を動かしてくれていた。
『いやなやつ』
「……」
ユキコさんに見えるよう礼はおおきく手を振った。ユキコさんは動かなかった。ナイフを投げる様子もない。もっとも気配を見せずにナイフを投げることなど彼女にとっては朝飯前なのかもしれないが、いずれにせよ、彼女はそれ以上ナイフを投げなかった。重要なのはそれだけだ。僕を殺そうとはしなかった。それだけで十分だ。バッシュは金で買い戻せるが、命を買うことはできない。彼女はそのことを心得ているようだった。それだけで十分だ。
礼が返事の言葉を考えているうちに、ユキコさんは姿を消した。それと同時に多目的教室を照らしていた白い灯りも消えた。
礼はしばらくその暗がりの窓を眺め、自転車に向って歩いていった。
⛄
ナイフが二本、という記述をここで訂正しなければならない。三本目のナイフが自転車の後輪に刺さっていたからだ。抜くと、弱々しい断末魔のような音を立ててタイヤの空気が抜けた。礼はかごの中にナイフを放り込み、うんざりした気持で自転車を押しはじめた。後輪はがたがたと音を立てて回り、むき出しの爪先からは冷たい風が嫌というほど吹き込んでいた。
さすがに、嫌がらせが過ぎると思った。
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