第3話

 ひと雨きそうな雲は空の全面を埋め尽くしていたが、どうにかこうにか、降り出さないギリギリのところで持ちこたえている。薄暗い光に覆われた町は結局いつも通りの表情を見せていた。

 町。

 北を海、南を山に囲まれた小さな町。東へ延びる地下鉄は巨大な街に続いていて、休日は二百六十円の運賃と引き換えに都会人の気分が味わえる。それ以外の日には商店街で買い物をすることができる。要するに平穏で、イノセントな町。

 町はかつて白戸神社という大きな神社の元に栄えた。そしてその敷地の大半を明治政府へ売り払ったときに得た資金で更なる発展を遂げた。そんなわけで地下鉄も通った。それは礼の父親が生まれるより前の話である。

 縮小する前の白戸神社がどれほどの規模のものだったのかを正確に知る者は誰もいない。今では二枚の絵地図と数冊の薄い書物、それに物好きな郷土史家の言葉が我々の想像力に力を貸すだけだ。

 礼の唯一の友人は白戸神社に住んでいた。地下鉄が通る前から、土地のほとんどが明治政府に売却されるよりずっと前から、彼はそこの住人だった。

 彼はときおり神社の零落ぶりを嘆いた。だいたいそれはやることもなく、話題もなくなったようなときではあるが、

「ひっこそうかな」

 と彼は空に向って呟いたものだ。


    ⛄


 商店街をまっすぐに進み、八百屋の角で右折する。ゆるい左曲がりのカーブを描く坂道を、自転車を押してゆっくりと進む。

 その道の中ほどで右手に石の階段が現れる。その傍らの石垣の前に自転車を停め、二つの鍵をきちんとロックし、通行の邪魔にならないようギリギリまで石垣に寄せる。

 石段の手すりはぐらぐらとしていて安定が悪い。叩くといい音がするのは中が空洞であるからだ。おまけにペンキは剥げてかけていて非常に安っぽく、安全のためを思うならばいっそ使わない方が良いくらい。さらに足元の段はどれもこれも思い思いの角度に傾いていて、水平に均されることを断固として拒んでいた。

 スリルを味わうにはもってこいの階段である。特にこんな、薄昏の時間帯には。

 石段を登りきると木造アパートや家屋の並ぶ平地に出る。いつ来ても人通りは少なく、ときどき見かけるのは古くからの住人と……あとはせいぜい極端に貧乏な学生くらいだ。家屋どうしの間は驚くほど狭く、雑多な障害物によってところどころを塞がれている。

 その窮屈な路地を幾つか抜けて歩くと、《武藤流》という謎の木板を掲げた小さな古民家の前に出る。背の低い垣根に囲まれた哀れを誘うほど小さな家だ。狭い庭ではちょっとした生態系の輪がはぐくまれているようで、草は伸び放題に伸び、季節によっては聞き馴染のない虫の声(キョキョーエー、キョエー、キョキョキョキョ……本当に何の虫だろう?)を聴くことができる。庭を囲む垣根はバターナイフで切れそうなくらいに朽ちており、それと同程度に朽ちた木製の椅子や金バケツなどは草叢の中にうち捨てられていた。

 民家の脇を伸びる砂利敷きの小路を進むと、周囲を藪木立に囲まれた六畳ほどの石敷きの空間に出る。氷を鑿削るような鋭い鳥の声が丘の上から聞こえる。

 正面には、丘を登る階段が木立を貫きながらまっすぐに伸びている。

 現在の白戸神社はその階段の先にあった。

「よおーレイちゃん」

 ハクが礼の方を見ずに言った。やたらレンズの大きなサングラスをかけ、膝の上には文庫本を広げている。

「おかえり。でもなんだかひと雨きそうだし、せっかくなのにアレだけど、もう帰ったほうがいいんじゃない?」

 礼はくすんだ朱色の小さな鳥居をくぐって、ハクが座っている賽銭箱に近づいた。

「寒くないの?」

 ハクはサングラスを鼻の先にずらしながら礼をぼんやりと見上げ、それから今気づいたというように、自分の着ているアロハシャツの裾をつまみ上げた。

「日光浴をしてたんだ」

「……どこに日光があるのか教えてほしいな。サングラスなんかかけて、それじゃあまともにものが見えるとも思えないよ」

「こういうのはね、要するに気分なんだよレイちゃん」

 ハクはサングラスを取って胸のポケットにしまった。それから白い歯を見せて笑った。「僕の気分は夏だったんだ」

 礼は肩をすくめた。ハクにまともな議論が通じないのはいつものことだ。関わり合うぶんだけ、時間と体力を浪費することになる。

「べつに、僕はお前と日光浴をしに来たわけじゃないよ」

 ハクは文庫本を閉じて賽銭箱の中にすとんと落とした。ごん、という音がした。

「じゃあ、どういったご用事?」

「聞きたいことがあるんだ」

「へえ?」

「『ユキコさん』って、知ってるか?」

 ハクは両手を腰の後ろについて、「ふうん」と言った。「知ってるよ、もちろん。レイちゃんの学校に伝わる都市伝説みたいなやつだろ」

「お前が知ってるってことは」と礼は言った。「やっぱりユキコさんは、なんだな」

「そうだよ。どういう経緯で生まれてきたのかは知らないけどね。でも、なんだか暗ぁくて、嫌ぁな感じのヒトだよね。正直あんま関わりあいになりたくない」

 そう言ってハクは首だけをこちらに向けた。とろんとした眠たげな目が笑いの形に細められている。

「でも、わざわざそんなこと聞きに来るってことは、レイちゃん、すでに彼女と関わり合いになっちゃったってことなんだよね?それはそれは大ピンチだ」

「まだだよ。これからそうなるつもりではあるけどね」

「ふうん?」

 礼は久留橋の件について語った。そして噂に聞いたユキコさんに纏わる都市伝説。ハクはのけぞった姿勢のまま、とりたてて面白くもなさそうに、しかしそれほど退屈しているわけでもないようにその話を聞いていた。話が終わってもしばらくは放心したように木立の向うの闇を見つめていた。何を考えているのかはよく分からない。ハクの考えが分かったためしなど一度もない。

 風が吹いてハクのアロハシャツがはためいた。礼は思わずコートの中に首を埋めたが、ハクは寒がる気配すら見せなかった。

「それは」、ゆっくりとハクは口を開いた。「気の毒だったねえ、その、久留橋さんって子」

「無事に帰りつけたと思うか?」

「それは大丈夫だったんじゃない?ユキコさんは黒板の文字に従って動いてる訳でしょ?だったらそれを消してしまえば、襲われるいわれは何処にもないよ」

「確信を持って言えるか?」

「言えない」とハクは言った。「シラトはまっとうな理屈で動いちゃいないからね。だから恨みもない子の頭の上に花瓶を落したりする」

 シラトに理屈は通用しない。それはハクにとっては春に桜が咲くのと同じくらい当たり前のことなのだ。彼自身がシラトなのだから。

 礼は軽い溜息を吐いて首を振った。

「ユキコさんに会いに行くよ。このまま放ってはおけない」

「……なんか、レイちゃん気合い入ってんね。どうした?久留橋さんって子、そんなに可愛かった?」

「気になるんだよ。いま何か行動を起こさないと、あとで後悔するような気がする」

「アプローチするってこと?」

「わざと意味をはき違えてるな?」

「いいけど、気をつけなよ」ハクは賽銭箱の前で組んだ足をぶらぶらと揺らしながら、言葉とは裏腹に楽しそうな口調で言った。「仮にも相手はかよわい女の子の頭を花瓶でかち割ろうとしたクレイジーな女の子だぜ。レイちゃんもあんまり失礼なことすると、一生女の子にもてない顔にされちゃうかもよ」

 ハクの冗談には取り合わないことにした――肩に提げた鞄からボールペンと一緒に手帳を取り出し、白いページを開いてその中央に『ユキコさん』と書く。

「おい、ちょっと、どけよ」

 まだ何かくだらない冗談を言っているハクを賽銭箱から引きずり下ろした。先ほどのページを破って賽銭箱の隙間から中に入れる。

「ホント、女の子には気をつけるんだよ、レイちゃん」

 礼が手を合わせて目をつぶっているときも、ハクが背後でそんなことを言っていた。

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