第2話
黒板の文字を消したからといって、久留橋が無傷で家に帰り着くという保証はない。そんなことは誰にも断言できない。しかし、少なくとも校舎を出るまでは安全だった。
礼は久留橋のすぐ斜め後ろにぴたりとついて歩き、曲がり角に差しかかるたび、歩く速度を緩め、久留橋の命を奪う何かが飛んできはしないかと廊下の向こうを伺った。命を奪う何か、それは一体何か?――ボウガンの矢とか、細い投げナイフとか、そんなもの。考え付くのはそれくらいだった。たぶん、昔見たアニメか映画の影響だろう。
(謎の遺跡に迷い込んだヒナツミ一行。襲いくるかずかずの罠。床に敷き詰められた無数のレンガのうち、どれかを踏むと壁から矢が放たれるのである……)
さいわいにも、矢は飛んでこなかった。学校にそうしたトラップはしかけられていないのだ。ただ花瓶が落ちただけだ。そして、冬の川のような冷たい空き教室の黒板に、ひとりの女子生徒の名前が書かれていただけだ。
「家まで送るよ」
校舎を出ると礼が言った。日は落ちかけ、どんよりとした光が空を薄い藍色に染めている。
少女の視線は進行方向の十メートルほど先に注がれていた。既にちらほらと電灯がともり始めていて、薄く長い影がこちらに向って伸びていた。
「それでいい?」と礼は尋ねた。
「ええ」と久留橋は口の中で応えた。
多目的教室の下を通らずに済むよう遠回りの道を選んだ。壁際を歩くのも危険なので、道の中央を歩きながら、ひたすらに駐輪場を目指す。
その途中で、ふと久留橋は立ち止まった。
砂利を踏みしめる二つの音が止むと、あたりはまるで巨大な湖の中心にいるみたいに静かになった。久留橋が振り返る、砂利を踏み直す音がやけに大きく響く。その目は礼に向けられていたが、やはりそこに何かを読み取ることはできなかった。硬い膜のようなものがあらゆる光を跳ね返していた。
「歩いて帰る」
ぽつんと久留橋はそう言った。
「自転車はいいの?」
「ええ」
「家、遠くないのか?」
「三十分も歩けば着くわ」
それは遠いのではないかと礼はいぶかしんだ。ええと、微妙な距離だ。
「別にいいよ、歩きでも」と礼は言った。「じゃあ、校門まで引き返そうか」
久留橋は首を横に振った。「あなたは一人で帰って。自転車で」
「さっきと言ってること違うじゃん」
「お願い」と久留橋は言った。「お願いだから、そういうことを言わないで」懇願するように続けるのだった。「自分が変なことを言ってるのは分かってるわ。でも――」
それから、不意に言葉を切った。カラッポの肺から何かを吐き出そうとするように、唇だけが言葉の形に開かれている。ふいに久留橋は震えた。そして思い出したように口をきっと引き結び、礼の目を正面から見すえた。そこにはこれまで見られなかった光が宿っていた。言うなれば人間的な光、あるいは、社会的な光だ。久留橋が何を考えているかは分かった。
「……分かるでしょ」
「まあね」と礼は答えた。ふん、と鼻を鳴らし、意味もなく、ゆるく砂利を蹴とばす。
何を考えているかは分かった。
「私は一人で帰れるわ」と久留橋は口早に言った。「心配かけてごめんね。またあした」
「僕のことを気にしてるならそんな必要はないよ。巻き添え食って死んだって、僕は別に構わないんだ」
その目に宿った光が、戸惑うように揺れた――礼は両手をコートのポケットの奥につっこんだまま惰性で砂利を蹴飛ばしつづけた。
「二人でいた方が危機管理のためにはずっといいだろ」
久留橋は何も応えなかった。ただ礼から目を逸らし、それ以上何か言われるのを恐れるように、すたすたと礼の脇を通り過ぎて校門の方へ歩いて行ってしまった。礼はその場で反転し、久留橋の後ろ姿を見送った。水平線に向かう小舟を見送るように、しばらくはその場から動かなかった。
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