ゆきのまいし

くれさきクン

第1話

 時計の針を3000時間ほど巻き戻す。

 十二月十八日。

 日夏見ひなつみれいはまだ高校一年生だった。


    ⛄


 ユキコさんの名を初めて耳にしたのはその日だ。

「ありえないって」

 礼は例によって常識的な返答をしたものである。

「そう言い切れるかい?」と愛鷹郁あしたかいくは言い、購買部の弁当から卵焼きの欠片をつまみ上げた。割りばしは左右均等に割れ、卵焼きの切片は美しく揃っている。

「実際に犠牲者が出た例もあるんだぜ。聞いただろ?つい数年前のことだ。十年よりは前じゃない。教師が一人、階段から突き落とされて、足の骨を折って一か月休職してる」

「初めて聞いたよそんな話」と礼は言ってメロンパンに小さな歯型をつけた。

「相変わらず、情報がとろいなあ」愛鷹は呆れたように苦笑し、礼がメロンパンの欠片を租借するのをじっと黙って見ていた。それに賛成するか否かに関わらず、愛鷹は礼の意見を待っているのだ。うんざりした気持で礼はパンを飲みくだし、分かりきった意見を述べた。

「偶然さ、そんなの」

「偶然じゃないよ」と愛鷹は言った。「黒板にその教師の名前が書いてあったんだ。噂によると、その黒板に名前を書かれた者は、ユキコさんの『復讐』の対象になる。その教師は陸上部の顧問で、セクハラの常習犯だった。黒板に名前を書いたのはセクハラに苦しんでいた女子生徒だった」

「その女子生徒はどうなった?」

「どうなりようもないさ。そんなことで少年院に入れられたり、学校を退学になったりすると思うかい?」

「黒板に人の名を書いただけで?」

「そう」

「思わない」と礼は言ってメロンパンを食べた。

「だろう?立件のしようがないんだ。だからこそユキコさんは伝説になった。だって、ノーリスクで復讐ができる訳だからね。法律がなければ、誰が何を我慢すると思うよ?」

 礼は何も言わなかった。

 愛鷹の戯言に付き合っていられない、という訳ではない。ユキコさんが何者であれ、幽霊であれ何であれ、そういう噂が存在するなら確かに彼女は存在するのだろう。しかしそれは積極的に関わるべき問題ではない。もし自分の名前が書かれたらそんなことも言っていられないが、他人に恨まれるようないわれはなかった。恨みだけではない。礼に何かしらの感情を抱く人間など校内には存在しない。少なくとも礼はそう思っていたし、大まかに言ってその認識は正しかった。もちろん例外はあった。何にでも例外はあるのだ。沖原という物理の教師は礼が自分のことを馬鹿にしていると思っていた。そして当然の成り行きとして礼のことを憎んでいた。しかし彼はなんといっても五十四歳だったし、そんな齢の教師は、そんな伝説を真に受けて、実践しようなどとは思わない。

「僕の名前が書かれたらどうしよう?」と愛鷹は言った。野球場の観客がファールボールの行方を心配するような言い方だった。

「知らないよ。ユキコさんだか何だかに、ぶっ殺されればいいだろう」

「酷いなあ、日夏見くん」

 その中身の無い笑顔にちらりと目を向けて、礼はメロンパンの最後の欠片を口の中に放りこんだ。


    ⛄


 ホームルームの最中、礼はぼんやりと教室を眺めまわした。

 礼の席は窓際の、後ろから数えて二番目にある。そこからは殆どすべてのクラスメートの頭が見える。

 その殆どと、礼は口をきいたことがない。一年も終わりに近いが、話しかけようという気も起こらなかった。それは性格がひねているからとかそういう問題ではなく、ただ単純に、必要性が感じられないからだ。小さいころからの性質で、礼は友達を作るのが下手だった。初めは寂しい思いもしたが次第に自意識のバランスを取る術を覚え、その事じたいは苦にならなくなった。そういうものだ。そして礼には、物心ついたころからの腐れ縁のような友だちがいた。彼はいわゆる人間ではなかったが、友だちには違いなかった。小学生のころは放課後になると神社へ行き、日が暮れるまで彼と遊んだものだ。その習慣は今でもさほど変わらない。家に帰っても本を読むだけなので、読みたい本がないときは彼に会いに行く。この日もそのつもりだった。ユキコさん伝説の事が気になったからではないが、誰かと話がしたい気分だった。

 クラスメートの一人が何気なく後ろを向き、礼と目が合った――ハコフグのような顔をした、背の低いバレー部の女子生徒。菊池春子。

 菊池は怪訝な目で礼を見て、すぐ前方に視線を戻した。礼は頬杖をついたまま彼女がユキコさんの黒板に誰かの名を書く場面を想像した。誰の名前を書くだろう――レギュラー争いのライバルとか、いけ好かないコーチとか、嫌いな先輩とか。わだかまりが生じるのは部活内だけではない。菊池の友人グループは河野のグループと敵対関係にあったし、グループ内にだって軋轢はあるはずだ。

 礼には友だちがいなかったが、クラス内の交友ネットワークに関してはそれなりの識者だった。この指定席からいつも教室を見回していることのくだらない成果である。マラソン選手が痩せているのと一緒だ。それを目的に生きた訳ではないが、自然とそうなった。礼は役に立たないがらくたのようなものを頭の中にたくさん詰め込んで生きていた。いつかそれらをぶちまけて、フリーマーケットを開こうと思っている。買い手がつくとは思えないが、生きている実感は湧くかもしれない。

 クラス内で菊池と敵対している何人かの女子生徒の顔を順番に目で追って、礼は心中深く重い溜息を吐いた。

 菊池は特別敵の多いタイプではない。表面上は結構うまくやっている、が、誰かは誰かの敵なのだ。敵という概念は指数関数的に膨張し、大いなる悪意は脈々と、この学校のなかに根を下ろす。沢山の生徒が入り、去り、ユキコさんはなお生命を持つ伝説として語り継がれる。

 礼は大きく首を振った。思考にストップをかけるためである。思うべきは「人間関係なんて作らなくて本当に良かった」ということだけだ。

 他の多くのクラスメートたちといっしょに礼は教室を出た。

 そのうち一人になり、昇降口まで降りてきた。靴箱を開いて中からリーボックの赤いバスケットシューズを取り出し、タイル張りの床の上に置いた。

 これを履き始めて今日で三十日になる。礼は十一月十八日に父親と一緒に大型アウトレットへ出かけ、このバッシュを購入した。なぜそんな日付を記憶しているかというと、それが今年の個人的三大ニュースの一つだったからだ。要するにお気に入りだ。何がいいって、履き心地が素晴らしかった。

 礼はもともと瞬発力に自信を持っていたが、このバッシュはさらに、その能力を何倍にも引き出してくれた。もちろん運動部に入っていない礼にとってそんな能力は持ち腐れの宝にすぎないが、一応動物の一種である人間にとって、いざというとき俊敏に動けるという自信はけっこう馬鹿にならないものだと礼は考えていた。

 例えばある日、突然、あなたの目の前にスピード違反の三トントラックが突っ込んできたとする。瞬発力があればあなたは生き延びるし、そうでなければ死ぬ。

 校舎を出ると空気はきりりと冷たく、低い空には重い雲がたちこめていた。百時間経ってもその場から動かないような雲だ。風はないが空中には微かな雨の匂いがする。早朝に降り出した雨は昼頃には止んでいたが、このぶんなら、いつまた降り出してもおかしくはない。

 校舎を迂回するように歩く。駐輪場へ向かう道は人が少なかった。朝の雨のせいで、自転車に乗って来た生徒は少なかった。十メートルほど前を一人で歩く女子生徒を除いて、誰の姿も見えない。

 その後姿にはなんとなく見覚えがあった。クラスの誰かだろう。あれ、誰だっけ?と考える間もなく礼は足を踏み出していた。


 それは人生に一度だけ訪れる、奇跡と呼ぶにふさわしい瞬間だった。


 礼は瞬発力が自慢で、しかも、素晴らしいバッシュを履いていた。

 少女の頭に向かって花瓶が落下していた。

 礼は女子生徒の背中に思い切りぶつかると、そのまま横ざまに体を捻りながら機雷のように地面に倒れ込んだ――場面はまるでNHKのスポーツ中継で流れるスロー映像のように展開した。鋭い音波が校舎の壁に跳ね返り、礼の後方で炸裂した。視界の端を花瓶の破片が舞った。地面に触れた瞬間少女の下にねじ込んだ右肩からずきんと鋭い痛みが走った。礼は顔を歪ませた。少女は痛がっていなかった――そんなそぶりは少しも見せなかった。痛みだけではない、その顔にはどんな色も浮かんではいなかった。

 からきしの無。

 きっかり二秒間、そのカラッポの人間は礼の上から動かなかった。

「ヘロー」と礼は言った。

「え?」

「怪我、ない?」

 言いながら礼は、女子生徒がクラスメートの久留橋くるはし夏菜子かなこであることに気づいた。久留橋はしばらく相手が何をしている何者なのか(犬なのか人なのか)よく分かっていないような目つきで礼を見ていたが、やがて力なく周囲を見渡し、最後に自分の体と礼の体が重なっている部分に目をやると、ばっと元気な蚤のように後方へ飛びのいた。たいした動きだった。

「怪我はない?」

 礼はもう一度そう言って立ち上がった。久留橋は曖昧に頷くと、傍らに落ちていた花瓶の欠片に水族館でライオンを見るような視線を向けた。

「そいつが上から降ってきたんだ」と礼は説明した。欠片は大小さまざま、広い範囲に飛散し、その光景はなんとなく落ち着きのない小学校の教室を思わせた。どうしてそんなことを考えたのかは分からない。「まさに君に当たるぎりぎりだった」礼はそう続けた。「だから僕は君に後ろからタックルしたんだ――悪く思わないでくれよ。君の脳みそを詰め直すのはあんまり気が進まなかったから」

 少女はぽかんと口を開いたまま何のリアクションも返さない。言わなければよかったと思った。いつも言ってしまってからそう思うのだ。

 言い訳するように微笑み、礼は足元に目を落とした。

「とにかく、怪我がないならよかった」

「花瓶が落ちてきたの?」

「ああ」

「どこから?」

「四階だよ、そこの窓」と礼は言って花瓶の欠片が散在している地点の真上を指さした。窓がひとつ開いていた。「あそこから落ちてきたんだ。誰かが落としたのかもな」

 礼はポケットに両手を突っ込んで後ろ向きに歩きながら校舎の壁を離れ、開かれた窓の向こう側を覗きこんだ。首を伸ばしても大したものは見えない。くくられた薄色のカーテンと、パネルばりの天井。それらが窓枠に切り取られた全てだ。明かりはない。窓からこちらに顔を突き出している者もいない。

「あんなところに花瓶を持って出るなんて、頭がおかしいんじゃないか?」と礼は部屋を覗き込んだままひとりごとを言った。「たぶん誰かが花瓶の水を移し替えるときにUFOを見つけたんだ」と礼は言った。「それで、もっと近くで見ようと思って、窓の向こうに身を乗りだした。しかし誤って花瓶を下に落っことしてしまった。そこには偶然君が歩いていた。花瓶はピンポイントで君の頭蓋骨を粉砕するところだったが、まあ運よく、それは免れた」と礼は言った。「考えられるのはそれくらいだ」

 久留橋はまだ何とも言わなかった。「あるいは」と礼は続けた。「誰かが君を殺そうとしたんだ」

 自分の言葉にあきれる思いがした。久留橋はぽかんとした顔でそこに突っ立っている。そちらの方が常識的な人間みたいだ。

 礼は肩をすくめて二歩、三歩と久留橋の方に歩み寄った。そのまま進み、久留橋の脇を通り過ぎる際にとんとその左腕を突いた。クッション性のフェンスを押したような感触しか返ってこなかった。

「誰が?」と久留橋は言った。霧の向こうで火の粉が爆ぜているような声だ。礼はその場で立ち止まり、久留橋の頭を斜め後ろから眺めた。

「さあね?気になるなら確かめに行こう」

 久留橋が振り向いた。まったく、茄子にだってもう少し表情というものがあるだろうと思う。何も見ていない眼が礼の方を向いていた。礼の顔を貫通した視線が、脇の木立を通過し、大地を駆けて海原を切り裂き、地球を一周して彼女自身の後頭部に突き刺さっていた。

 久留橋は足を踏み出したが、そのときも煙が傾くくらいの音しか出さなかった――礼の隣をすり抜けるように、そして思ったよりも速いスピードで、彼女は校舎の入り口へ向け歩き出した。


 その教室が持つ意味を礼は知っていたし、久留橋も当然知っていたはずだ。ユキコさん伝説はすでにかなりの噂になっていたのだから。しかしそのことは最後まで互いに口にはしなかった。

 四階に上がる途中すれ違ったすべての生徒は例外なくどれもみな殺人者に見えた。十六人とすれ違い、十六の心とすれ違った。しかし誰も二人が校舎を上ってゆく理由は知らなかった。礼だって詳しくは知らなかった。誰もそんなことは知らなかった。

 その教室の空気は、必要以上にひんやりとしていた。机と椅子は普通の教室よりまばらに置かれ、だだ広く、そして宇宙の果てのように静かだった。

 長い黒板は手入れが行き届いていてチョークの消し跡ひとつなかったが、それが新品でないことは明らかだった。中央付近にでかでかと書かれた六つの白い文字が、そのことを高らかに証明していた。こんなことが書かれていた。


  久留橋加奈子


 礼は久留橋を入り口に残したまま、黒板につかつかと近づいた。そして黒板消しを手にとり、まるでクラスメートのゲロを掃除するみたいにその六つの文字を消し去った。

 使った黒板消しを黒板のへりに置き、その傍らに立て掛けてあった未使用の黒板消しを取って、残された消しあとをすべて丁寧に拭った。

 黒板がふたたび新品同然の清廉さを取り戻すまでに三分以上の時間が必要だったが、そのあいだ二人は一度も口を聞かなかった。土のように静かだった。

 礼が黒板消しを元の位置に戻して振り返ったとき、久留橋は先程と同じ位置に立っていた。そして同じ姿勢で、同じ視線を礼に向って注いでいた。礼は黙って教壇を降り、ゆっくりとそのカラッポな表情を浮かべた少女のもとに歩み寄った。少女の表情は出会った時からこれっぽちも変わっていなかった。まるで感情を持った人間が全てバカであるみたいだ。当然そこには礼自身も含まれている。

「大丈夫?」と礼は尋ねた。

「うん」

「出ようぜ」と礼は言った。注意深く周囲に目を配りながら。「寒くて凍えそうだ」

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