剥落
四流色夜空
第1話
1
チカチカする。光が眩しい。
寝ぼけた頭と目に街路樹の葉を通過したまだらの陽射しが突き刺さる。黄色い学帽をかぶり、ランドセルを背負って十字路のところに行くと、数人の顔が集まっている。
「もう、おそーい! ゆうくん、また遅刻だよ」
一つ年上で六年生のサトちゃんが腰に手を当て、僕を睨む。
「ごめんごめん、昨日の夜テレビが面白くって、遅くまで見てたら寝らんなくて」
「何? またアニメ?」
「ううん、都市伝説系の怖いやつ」
「えー。ゆうくんそんなの見るんだあ。夜中に見たらおトイレ行けなくなりそう」
そんな話をしながら僕たちは二列くらいになって歩き出す。田んぼに張られた水がキラキラしてて、青空は高く、雀や鳩が木や電柱の上で鳴いている。今日も暑くなりそうだ。
サトちゃんと会話できるのは、登校する朝だけだ。学年が違うし、普段何をしているかも知らない。栗色のウェーブのかかった髪を揺らし、ぱっちりした二重の瞳は透き通って、僕よりも一年先の世界を、僕にはまだ見ることのできない風景をその目は見ていた。
年の差というものが絶対的でなくなったのは中学に入った頃からだった。同じ制服を着ているというただそれだけで、サトちゃんは僕と同じ地面に立っているという感じがした。
小さい頃から憧れだったサトちゃんのことが、中学に上がると俄然気になり始めた。僕はサトちゃんと一緒に登校するために、三十分早く目覚ましをセットしなくてはならなくなった。偶然を装って、サトちゃんが家を出る頃、僕も家を出た。通学班という括りがない以上、約束をするのは憚られた。反応を知るのが怖かったのだ。サトちゃんの隣りを歩くのは幸せだった。学校に着くまでの短い間だけど、当たり障りない日常のことをサトちゃんの口が喋って、僕の耳に届くというのが心地よくて、ずっとこんな毎日が続けばいいなと思っていた。
もちろんそうはならなかった。
部活が終わって帰路を歩いていると、視界の先に一組の男女の姿があった。すぐに分かった。男子に手を伸ばして、笑いながらちょっかいを出している女の子、あれはサトちゃんだ。黒々とした泡が水底から湧き上がるような不安に駆られて、木陰に隠れながらそっと二人の後をつけた。サトちゃんの家の近くまで来たとき、僕ははっきりと目にしてしまった。二人はそっと唇を重ねていた。サトちゃんとその男子はそれから照れたように手を振って別れていった。僕は動悸に眩暈がした。頭に血が逆流し、心臓が倍の大きさに膨らんで耐えがたい心音を疼かせた。
程なくしてその男子の正体が分かった。サトちゃんと同じ学年のミヤケという男子だった。ちょっとオタクっぽい文化系の地味なやつ。どうしてサトちゃんがこんなひ弱そうな男子に惹かれるのか分からなかった。
ただ怒りがあった。
僕はミヤケがひとりで帰るところを追い、人けのない路地まで来ると、彼の前に飛び出し、いきなり顔面を殴りつけた。バキッと骨と骨の当たる音がしてミヤケはアスファルトの上に倒れた。
「な、なんだよお前……」
「うるせえ!」
全身に血潮の滾るまま、ミヤケの顔を殴り、腹や腰を蹴りつけた。サトちゃんに通じる道を全部この男に奪われたのだと思った。ミヤケは抵抗したが、大したことなかった。鼻や口から血が流れ、彼は地面にぶっ倒れたまま、ヒクヒクと腕や足を動かしていた。僕はぜいぜいと肩で息をしながら、立ち上がれなくなった奴の腹を一蹴すると、ざまあみろと呟いた。
当然、問題は表に出た。ミヤケは全治二週間の重傷で入院することになった。ミヤケの親が大騒ぎして一時は退学かというところまでの話になった。だがそんなことはどうでもよかった。僕の心は最初からサトちゃんだけにあったのだから。しかし反応はあまりにも冷たかった。
「どうしてあんなことしたの?」
感情の失せた目で、サトちゃんは訊いた。その目には初めて見る敵意のようなものが感じられた。
「だって、僕はただ……」
サトちゃんの隣りにいたかったから、という言葉は口にできなかった。そのオーラは僕を明らかに拒絶し、続く言葉を許さないようなところがあった。充分すぎるほどの沈黙ののち、彼女は目を上げた。
「もう私に話しかけてこないでね。さよなら」
それがサトちゃんと交わした最後の会話だ。結局その後もミヤケと付き合っていたらしい。僕は目覚める時間を遅らせ、ひとりで登校するようになり、道でサトちゃんを見かけたときも、互いに相手を無視した。
まるで知らない人のように。
まるで違う星の住人のように。
2
「俺、もう辞めます」
自分の声じゃないみたいだと言ってから思った。微かに震えを含んだ短い声。でも馴染みのあるセリフだ。俺はまたこれといった理由もなく仕事を辞めた。
井の頭公園は散歩する者や観光客で賑わっている。広々とした池に浮かぶボートや、レジャーシートを敷いた家族の姿を横目に遊歩道を歩く。背の高い木々がサラサラと風にしなり、暖かな陽が肩や背にやわらかく当たる。ちらちらと飛ぶ羽根の青い蝶に導かれるようにして、俺は歩いた。人びとの歓声が次第に遠く、淡くなっていき、頭の凸凹が均されていく。自然にふれることでしか真の安らぎは得られないと思う。でもそう感じるのは、俺が自然の豊かな土地で育ったからかもしれない。友人に誘われて八王子の実家を出たが、その友人と組んだバンドが解散してからも、惰性からか今のアパートに住み続けている。二十六歳になってもなお、バイトを始めては辞めるを繰り返すのはどうなんだろうとは思う。しかしここにいれば何かに巡りあうかもしれない、そんな淡い期待をまだ当てにしている自分がいる。いつの間にか視界にあった青い羽根が消えている。
明水亭の辺りで左に折れ、七井橋通に出るのはいつものコースだった。だが、いつもと違うのは人混みから出た女性が俺の顔を見るなり、ぱっと顔を輝かせてこちらに駆け寄ってきたことだった。
「あ、あのう、迷惑だとは思うんだけど、ちょっと助けて欲しいの」
理由を訊けば、知らない男からのナンパがしつこいから、一人でないことを示すために一緒にいてくれと言う。
「あの喫茶店に行きましょう。私、出しますから」
切羽詰まった声に押され、近くの店に入った。彼女の言った通り、メニューを考えるふりをしていると、リュック姿の男があたふたと店の入口に現れた。男は店内をじろじろと見回し、目当ての女の前に俺がいるのを見て取ると、苦虫を噛んだような顔をして帰っていった。
「本当は元カレとか?」
「まさかあ」
薄墨色のワンピースに淡い緑のカーディガンを羽織っている彼女には、控えめではあるが人目を引くような美しさがあった。だから彼女が「実はライブとかしてて……」と切り出したとき、やっぱりと思った。いわゆる地下アイドルというものらしい。見せてくれたスマホの写真には、派手な衣装を身につけた彼女の姿があった。白いブラウスの襟元にリボンを飾り、ベストとスカートをオレンジ色で合わせている。どこか見覚えがあるような気がしたが、流行りのメイクのせいでそう感じるだけだろう。
「あの人も初めは熱心なファンだったんだけど、だんだんとエスカレートしてきちゃって。最近ちょっと怖いかも」
「警察へは?」
「それも考えてるけど、ファンでいてくれることには変わりないしって思うとなかなかね……。結局もうちょっと様子見ようかなって先延ばしになってる」
そうなんだと頷いて、俺たちはその後も雑談を交わした。悪い空気じゃなかった。ただ深入りしようとはしなかった。なぜだかはっきりとは分からないが、彼女の中に俺からは剥落していった輝きというか憧れというか、そういうものが垣間見えた気がしたのが大きかった。
3
貯金の底が突く前になんとか職にありつくといった生活が続いた。交通整理の仕事をやり、居酒屋で働き、倉庫のピッキングなどをするうちに秋冬が過ぎて、春になり、また初夏の季節がやってきた。そんな折、かつてのバンド関係の知り合いからライブの手伝いをしてくれないかと連絡が入った。急にベースが熱で寝込んでしまったらしい。場所は八王子の小さなハコだった。俺はラインを返しながら郷愁を覚えた。
実家周りは色々と開発の手が入ってはいるものの、懐かしい山と土の匂いがした。ライブを終えた翌日、俺は煙草をふかしながらその辺を散歩した。小中高と十八年間育った土地だ。不思議な感じがした。まるで見終えて思い出せない夢の中を歩いているような、そんな感じだった。山の方から降りてくる風に、吉祥寺で過ごした記憶や経験が溶けて消えていくようだ。
中央線のホームで帰りの電車を待っていると、近くの列に喪服姿の女性が立っていた。彼女は一年前と変わらないように見えた。俺は知っていた。知っていて無視しようとしていた。今日はミヤケが死んでから四十九日で、近所で法要が行なわれていた。交通事故だったらしい。狭い町内だ。今朝母親が話すのを聞いたときから、俺はなんとなく予感していた。どこかですれ違うんじゃないかと。どこかで見かけることがあるんじゃないかと。喫茶店で顔を合わせたときから、面影は感じていた。ただ都会っぽい化粧や服装で分からなかったのだ。でもあのとき、サトちゃんは人混みの中から見知った俺を見つけたからこそ、声をかけてきたのだろう。
そろそろ電車が来る頃だ。俺はなにかを言おうと思った。自然と通学路の光景が目の裏に浮かんできた。空は高く、朝の澄んだ空気の中で笑う二人がいて、無意識にホームの彼女へ一歩足を動かしたとき、電車到着のベルが鳴った。ふわっと空気が動いて、電車がホームに滑りこんでくる。懐かしい土の匂いを鼻の奥で感じたとき、なにげなく振り向いた彼女の瞳が視界のうちに俺を捉えた。
剥落 四流色夜空 @yorui_yozora
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