32:エピローグ


 不便な片脚を引きずりながら、どうにか部屋の掃除を終えた俺は、半ば崩れ落ちるようにソファーに腰を下ろす。


 散らかしていたつもりはなかったのだが、手をつけ始めてみると気になる箇所が次々に出てきてしまい、思ったよりも時間がかかった。


 そろそろ買い物も終わっている頃だろうかと、テーブルに放置していたスマホを手に取る。届いていた新着通知は、葵衣からのものだった。


「もうそこまで来てんのか」


 了解とだけ返してスマホを置くと、つけっぱなしにしていたテレビでは、今日の占いというコーナーが始まっていた。


 占いなどもうこりごりだと感じはしたのだが、俺にとって今日は特別な日でもあった。


 あの日、自分にとって人生最後の日になると思っていた。


 柚梨の代わりにと思った気持ちは嘘ではないし、実際あのまま身代わりになっていたとしても悔いは無かっただろう。


 柚梨を守ることができるなら、本望だと思った。


 それでも、あんな体験をしたからこそ、これからは後悔がないよう生きていこうと思い直したのだ。その第一歩が、俺にとっては柚梨の存在だった。


 これまでは、一番身近な友人だった幸司に対しても、自分の気持ちを偽って生活をしてきていた。


 そんな俺にとって、これはとてつもなく大きな一歩なのだ。


「……今日こそ、言うぞ」


 自分にとって、柚梨はただの幼馴染みではない。今回の件で、それをより強く実感することとなった。


 彼女の返事はわからないが、そこは重要ではない。改めてきちんと、自分の気持ちを伝えたいと思ったのだ。


 だからこそ、占いはこりごりだし信じていないとはいえ、運勢が最下位では士気が高まらない。そう感じて、俺はテレビから視線を外せずにいた。


『今日最高の運勢なのは……おめでとう、てんびん座のアナタです!』


「お」


 アナウンサーの女性が挙げたのは、まさに俺の星座だった。


 最下位でなければ良いとは思ったが、まさかの最高の運勢という結果に自然と気持ちも高まる。


『ラッキーカラーは赤! 今日は赤い物を持ってお出かけください』


「赤……赤かあ」


 部屋の中に何か赤いものは無かっただろうかと、整頓された室内を見回す。


 あまり色数の多くない室内では、該当しそうなアイテムは見つかりそうにない。


 すると、テーブルの上のスマホから電子音が聞こえてきた。


 今日の予定は葵衣たちも含めた、四人でのクリスマスパーティーだけだ。連絡を寄越してくるのは、十中八九その中の誰かだろうということは容易に想像がつく。


 とはいえ、先ほど到着間近だという連絡が入っていたばかりだ。


 まさか、仮にも怪我人に荷物運びを手伝わせるような催促ではないだろうが、どのような用事かと首を傾げながら再びスマホを取り上げた。


「…………え」


 ロックを解除して開かれた画面を見て、俺は言葉を失う。


 画面の中央には、とっくにアンインストールしたはずの、May恋アプリのアイコンが表示されていた。


 そんなはずはないと、ソファーにもたれていた上体を起こして画面を再確認する。


 ギプスをはめた脚が鈍く痛んだが、そんなことを気にしている場合ではない。何度見直しても、そこにあるのは確かにあのアプリだ。


(何で……間違いなくアンインストールして消えたはずなのに……)


 全身から、一気に冷や汗が噴き出す。それと同時に、アプリが勝手に起動を始める。


 操作を試みるが、ホーム画面に戻ることも、電源を切ることもできない。


 表示されたのは、あのGPS機能を搭載したマップだった。あの時と違うのは、二つのハートが既に重なった場所にあるということだ。


 それを認識すると同時に、自宅のチャイムが鳴り響く。


「!?」


 心臓が跳ね上がり、再び画面を見てみるが、ハートは重なり合ったままだ。


(……いや、柚梨たちだ。そうに決まってる)


 もうすぐ着くと連絡が入ってから時間が経っている。彼らがここに到着してもおかしくない時間だと、俺は自分に言い聞かせた。


 松葉杖を小脇に抱えて、ゆっくりと玄関に近づいていく。


 手狭なアパートなので、リビングから玄関までの距離などたかが知れている。けれど、今はその距離が果てしないもののように感じられた。


 恐る恐る、俺はドアスコープを覗いてみる。

 一瞬あの怪異の顔が脳裏を過ぎったが、そこにいたのは紛れもなく柚梨の姿だった。


「樹~? 買ってきたよ」


 なかなか応答しない俺を不審に思ったのか、ドアの向こうから声を掛けてくる。あの恐ろしい呻き声も聞こえてはこない。


 スマホを見ると、そこはもういつものホーム画面に戻っていた。アプリのアイコンも見当たらなくなっている。



 きっと、何らかの誤作動だったのだろう。もしくは、幻覚を見たのかもしれない。

 安堵の息を吐き出すと、俺は鍵を開けて彼女を迎え入れた。


「ごめん、松葉杖に手こずってた。二人は?」


「車停めたらすぐ来るよ。……何かあった?」


 出迎えた俺の顔色が悪いことに気がついた柚梨は、心配そうに眉尻を下げる。


 最悪の可能性が脳裏に浮かびはしたが、本当に全部終わったのだ。


 怪我で不自由なストレスもあって、まだ神経が過敏になっているのだろう。あれからもう半月も経っているんだ。


「いや、何もないよ。ちょっと腹減ったかもな、とりあえず上がれよ」


「そう? じゃあ、お邪魔します」


 柚梨を迎え入れる時、閉じかけたドアの向こうには晴れ晴れとした青空が広がっていた。


 見慣れた日常が戻ってきたのだから、もう影に怯える必要などない。


 何も起こらない生活が当たり前なのだ。


 そう気を取り直して、俺は室内へと踵を返す。


 俺たちの後を追うように引きずられた、廊下の黒い液体の跡には、気づかないふりをして。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冥恋アプリ 真霜ナオ @masimonao

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ