第2話 山へ
「左の方へ向かっていいですか?」
稔は、両手でしっかりハンドルを握りながら彩に行き先を尋ねてみた。
「うん、山の方、少しドライブしましょう」
――やったあ、ドライブだ。光輝許せ、俺は、唯さんより可愛い彩さんと山までドライブだぞ。 山まで行って休憩したら手なんか握って、うあ。 無理か。
「手を握りたいの? いいわよ、左手出して」
――えっ、心の声、聞かれてる?
「あ、いえ。い、いいんですか?」
「バカね。男が何、考えてるかなんて直ぐ分かるわ。もっと肩の力を抜いて。だいたいオートマなんだからそんなに両手できつくハンドル握らなくたって片手で充分よ。さあ左手をハンドルから離して」
「は、はい」
稔は、ドキドキしながら左手を出した。車は相変わらずスピードが上がらなかった。
「いやだ、震えてる? 」
「いや、運転慣れなくて」
稔は、恋愛も初心者であることを運転の下手さでごまかそうとした。
「彼女いないんだ? 可愛いのにね」
「す、すみません。そうなんです。女性が苦手で喋れないんです。今日は、これでもだいぶ喋れてる方です。なぜだかは分からないんですけど」
稔は、彩の右手を力を入れるでもなく、かといって優しくも握れず、ただ掴んでるという感じで触れていた。
「つ、冷たいんですね。それに小さい」
「そうお? まあ女性の手は小さくて冷たいわね、だいたい」
「そうなんですね。細いです。女性の手は中学校のフォークダンスぐらいでしか握った記憶ないし。こんなに細かったんですね」
「人によるでしょうけどね。今の私は細いわ。ごめんね」
「いや、ぼくは嬉しいです」
稔には、若い女性の手を握れてるというだけで嬉しく、新鮮な感覚だった。
「あのさあ、どうして女性と喋れないの? なんか自分のものにしようとか、いやらしいこと考えてるからじゃないの?」
「いや、いやらしい事なんて考えてないんですけど、緊張するんです。特に気になる人の前では緊張して口がガタガタとなって。 彩さんの前ではなんだか喋れてますけどね。か、可愛いですけど、彩さん」
「まあ、喋ってるわね。それだけ喋れれば十分よ。私はいつも隠れているし影薄いから気にならないのね」
「そんな事ないです。ドキドキしています。か、可愛いし。どうしてこれだけ喋ってるか分かりません。初めてです。こんな風に喋れたの」
そんな会話をしながらやがて二人を乗せた車は、稔の家の方へ行く脇道の入り口を過ぎて更に山の方へと向かった。
「名前、名前聞いてなかったわね。名前なんて言うの?」
「ああ、そうですね。すみません。稔です。池下稔」
「稔かぁ、いいじゃん。しかも池上じゃなくて池下、下っていうのが私と繋がりありそうで良いわ。出会う運命だったのね」
「そ、そうなんですか? なぜ池下なら繋がりあるんですか? 本当に繋がってるならいいですね。あ、彩さんと。か、可愛いし」
「あはは、そんなに可愛くないわよ。他にも可愛い人たくさんいるし、私は普通よ。見る人によってはお化けみたいという人もいるかもしれないし」
「そんな事絶対ありません。彩さんはいちばん可愛いです」
稔は段々緊張が取れてきたのか、むきになって喋り始めていた。
「それはそうと、さっきから後ろの車に付けられてない? 貴方の友だちの車じゃない?」
「えっ、そうかもしれませんね。あいつ、まだ彩さんのこと狙ってるかもしれませんね。くそう、彩さんは渡しませんよ。せっかく彼女できたのに」
「彼女なんだ? 会ったばかりなのに、稔、運転下手くそなのに? あはは、ありがとう。彼女にしてくれて」
「彼女になってくれるんですね。こっちこそありがとうございます。嬉しいです。絶対、光輝には渡しません」
「そうね、そうと決まったら、彼らに捕まらないように逃げましょう。スピード上げて」
道は、もう山のふもとに入りかけていて、ややカーブも増え始めていた。
「肩の力を抜いて両手でハンドル持って。私も手を離すわね。 カーブに差しかかる寸前に強くブレーキを踏むのよ、そしてカーブの後半から一気にアクセル踏むの。いい? ブレーキを強く踏めるようになったらスピード上げてカーブに突っ込めるようになるわ。でも無理はしないでね。こんなところで事故は出来ないから」
「分かりました。やってみます。」
ふたたび二人を乗せた車はカーブへと差しかかった。
「そうそう、筋いいじゃない。運動神経いいのね。池下くん」
「そうですか。ありがとうございます。でもまだ光輝たち追って来てますね」
更にカーブが続いた。
「そう、上手いじゃん。少し離れたんじゃない? 後ろの車。その調子でもう少し離しましょう。そうしたらいいところがあるから、そこまで頑張って」
――いいところ? まさかラブホ。ないか、あっ、しまった。
「ラブホかあ、それもいいけどね」
――やっぱり読まれてた。
「いや、ちょっと考えてみただけです。そんな、さっき出会ったばかりだし」
「いいじゃない、出会ったばかりでも。でも今日は、その前に行きたいところあるからまた今度ね」
「は、はい。 やったぁ」
車はダム湖のほとりまで来ていた。視界は開け、湖の周りに沿って走る道になっていた。カーブは少なくなって直線的に走れるところもあった。
「この直線、スピード出していいわ。ここで後ろを離すのよ。100キロ出して」
「100キロ、了解。行きますよ」
稔は、すっかり彩の虜になっていて、素直にそれに従おうとスピード違反や危険な事だという認識は全く浮かばなかった。
――さあ、行くぞ、光輝。付いて来れるなら付いて来い。
スピードは、スルスルと上がり100キロ近くまで上がったが稔は運転し始の頃のように肩に力を入れることはなかった。
「そう、もう少しよ、もう少し上げてあのカーブに突っ込んで」
「えっ、突っ込むんですか? あぁ」
ゴー、ガタガタガタ、稔は、思いきりブレーキを踏み込んだがABS搭載のこのピンクの車は100キロというスピードに耐えきれず滑りだした。ハンドルを切ったが効かない、真っ直ぐ湖の方へ突っ込んで行く。ガードレールが目の前に迫ってきた。
「ハンドル一回戻すのよ」
「はい」
稔はハンドルをいったん真っすぐに戻して再びハンドルを切った。
――やった。曲ったぞ。
二人を乗せた車はガードレールにぶつかりそうになるのをギリギリで回避し、右に曲がった。
――ええ、なんでだ?
しかし、今度は目の前に崖が迫ってきた。稔は、また慌ててハンドルを左に戻した。
―ああ、マジかあ。
ハンドルを戻してまた湖の方へ真っ直ぐ向かい始めた車は、今度はガードレールがないところへ向かっていたがブレーキをふたたび踏んでも間に合わなかった。二人を乗せたピンクの車はガードレールの隙間をすり抜け、見事に湖にダイブした。岸から2.30メートルは飛んだだろうかフロントから飛び込み、直ぐに浮き上がってきた。
「あ、彩さん大丈夫ですか?」
車内にはエアーバッグが運転席、助手席ともに膨らみあまり身動きが取れないまま彩を気遣って声をかけた。
「私は大丈夫よ。稔は大丈夫? 完璧だったわね、稔。運転上手いわ」
彩に怒られるかと思ったら逆に褒められ、稔は益々気が動転した。
――150万、ラブホ、彩さん、事故? なぜ彩さんは落ち着いているのか。
「どうしましょう? 沈みますよ」
「慌てなくていいわ。もう少しは浮いてる。けど窓は今のうちに開けておいてね。沈みはじめたらドアは水圧で開かなくなるから。まだ開くでしょう」
「分かりました。開きました」
フロントガラスには大きくヒビが入っていて今にも車内に崩れてきそうな状況だったが運転席のドアの窓は直ぐに下がった。
「そっちの窓開きましたか? 今下げてるんですけど」
「ううん、開いてない。私の方はいいわ。私は、出れないから。稔は水が来たらそこから外に出て岸まで泳いで。きっと助かるわ。そしてレスキュー隊を直ぐに呼んで。泳げるでしょ」
「泳げますけど彩さんもこっちから逃げましょう。二人で助からないと」
「私は出れないの、レスキュー隊を呼んで。泳げないし。さあ水が入って来たわ。もう時間ないわよ。早く行って」
「嫌です。ぼくの始めての彼女、死なせるわけにはいきません。ぼくが引きずってでも泳ぎます」
稔は、そう言って彩の手を左手で掴んで運転席側に引っ張り出そうとした。なんて細い指なんだと改めて稔は思った。
「ダメよ。私を助けられるのはレスキュー隊だけよ。さあ、行って。稔がレスキュー隊に連絡してくれるしか私が助かる道はないの。さあ行って。楽しかったわよ。頑張ってね。振り向かず必死に泳ぐのよ。吸い込まれるわよ」
「嫌だー」
稔は、大きな声で叫んで彩の手を思いっきり引っ張ったがその細い手はするりと抜けて離れ、その勢いで稔の身体は益々増えた水の中に浮いて窓から外に押し出された。それと同時に車がボコボコと泡を出しながら沈み始めた。
稔は、彩に言われた通り後ろを振り向くことなく、半分泣きながら必死で岸と思える方向へ向かって泳いだ。クロールとも平泳ぎとも言えない、とにかくバタバタと必死に泳いだ。早く岸に着いてレスキュー隊を呼ぶしか彩を助ける道はないと彩の言葉を信じ切っていたのである。波は湖とあって、ほとんどなく、泳ぐ途中で水を飲むこともなかったが服を着たままの泳ぎは思った以上に大変だった。岸までなんとかたどり着いた稔は、車が飛び出したガードレールの切れ目を見上げた。するとそこに赤い服をきた光輝が現れた。
「稔、大丈夫かぁ?」
「光輝、レスキュー、レスキュー隊を呼んでくれ、彩がまだ車の中なんだ。頼む光輝早く」
稔は、泣きながら声を張り上げて叫んだ。そしてもう沈んでしまった車の方を振り向いた。そこには、まだ車が沈んだあたりに小さな泡が出て水の色も変わっていた。また自分が必死で泳いできてできた波も小さく広がって行っているのが見えた。
「あやー」
そして、また稔は叫んだ。
「分かった。今直ぐ電話するよ」
光輝も上から叫んだ。あとを追ってきた唯も光輝のそばに立っていた。
間もなくレスキュー隊が到着し、潜水隊が光輝や稔が指差すあたりに潜り始めた。稔は息をのみながら彩が発見され水からあげられるのを湖の上から光輝、唯たちと共に待った。
だが、いっこうに発見の様子はなく、湖面に上がってきては頭をひねるダイバーばかりであった。稔はたまらず、湖面に向かって
「彩さーん」
と叫んでしまった。それを見ていた光輝が後ろから声をかけた。
「なあ、稔、本当に彩さんは乗っていたのか? 実はなあ、唯が変なことを言ったんだ。稔の横に座っていたのは洋服は着ていたけど骸骨みたいだったって。俺には、とても可愛い子に見えたから、可愛かったじゃないかと揉めたんだ。じゃ戻って確かめようとコンビニから出たばかりのお前たちのあのピンクの車を追ってたのさ。そしたらお前たちどんどんスピード上げて行くし、ついに置いて行かれたと思ったら湖面に沈んで行く車が見えたんだ」
光輝は、必死になっている稔に向かって気の毒そうに話した。
「乗っていたさ。コンビニに行く前からずっと一緒だったぜ。湖に落ちた時も一緒だったし、一緒に逃げようと手を引っ張ったけど、彩さんの指が細くて抜けたんだ。レスキュー隊しか助けられないと言って沈んで行ったんだ。助かるよ。レスキュー隊来たし」
稔は、濡れた服のまままた泣きながら光輝に訴えた。
「ああ、そうなんだね。うん、助かる。助かるよ、彩さん」
光輝は、稔にそう言うしか出来なかった。唯も震えながら稔を気の毒そうに眺めているしかなかった。
またしばらくして、ひとりのダイバーが岸まで泳いできて稔たちに声をかけた。
「車が沈んだのはあの辺ですか? 私がさっき上がって来たあたり? そして沈んだのは今日なんですよね?」
「見つかったんですか? そうです。沈んだのはあの辺りで、ついさっきです。見つけてください。まだ今なら助かります。お願いしますよ」
稔は必死でダイバーにお願いした。
「それが変なんですよね。車があったんですが、泥に埋もれてるんです。とりあえず引き上げますから確認してもらえますか?」
「車より彩は? 彩さんはいなかったんですか? 助手席にいるはずです」
「濁って、よく分かりませんでしたが、誰も見当たりませんでした。引き上げてから確認します」
「流されたのかもしれません。もっと探してください。見つけ出さないと彩さん、死んでしまいます。お願いします。」
また稔の声が自然と大きくなっていた。
「車は引き上げ作業に入りますが、他のダイバーは辺りを探してますから大丈夫です」
そのダイバーの言う通り他のダイバー は、そのまま辺りを探し続け、待機していたクレーン車が湖の下、底に沈んだ車を引き上げ始めた。
湖面から上がり始めた直ぐには泥で分からなかったが半分くらい上がったところで水で泥が流されて稔と光輝が声をあげた。
「ああ」
「あれだ。ピンクの車だ。彩さんが中にいる」
泥にまみれたピンク色の車体が半分現れていた。
レスキュー隊員と稔たちが中を懸命に探したがそこで見つかったのは女性物の衣服と赤い靴を履いて運転席に座ってる白骨化した死体とビール瓶1本だった。
稔には、それが彩だと直ぐに分かった。そして僅かにその骸骨が稔の方を見て微笑んだように見えた。
翌朝、地方新聞に記事が載った。
『不明の女性5年ぶりにダム湖で発見、ガードレール隙間からダイブか?!』
しかし、ビール瓶のことは何も触れてなかった。
終わり
車中女子 岩田へいきち @iwatahei
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