第10話 過去編⑤(終)


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 2010年3月



「まあ、おめでとうさん」

「どうも」

「しかしねえ。お前が結婚……年は取るもんやな」

「見た目若返ってるのに何を」

 妻になる女性とは別行動をしている。先に墓参りに行きたいと言ったら、じゃあ先に家族に報告して待ってる、と言われた。龍神は彼女が乗った宝塚線の列車をJR尼崎で見送った後、新快速でまずは明石に向かった。文明の利器である異様に速い在来鉄道は、全く別世界の海のそばまでわずか一時間で連れて行く。再開発を急ぐ明石駅前はそこかしこに灰色の工事用シートが貼られ、随分と様変わりして見えた。その解体されるビル群の向こう側、商店街の外れのたこ焼き屋が、今の旧友の拠点だった。

 人の身で出会った頃に蛇島と名乗っていた旧知の海蛇は、近頃名を改めて「虻川」と名乗っている。見た目もずいぶんと変わった。三十年近く前、別の旧友の死に際して同席したときは、もっと壮年の男性然とした見た目だったはずだが、今となっては龍神の方が遙かに年嵩に見える。半袖のTシャツで腕まくりをし、器用にたこ焼きをひっくり返す姿はとてもじゃないがこの辺りの海の主には見えない。

「色々あるんよ。マヨネーズきらい?」

「好きだ。嫌いなものはほとんどない」

「ええこっちゃな」

「その……あんたには昔、いろんなことを教えてもらったから。感謝しても仕切れない」

「真面目なんは変わらんのう。ええて、そういうもんや。どうしてもこの世に生きとったら興味も出てくるもんやろ。まあ俺は度が過ぎてツレにも呆れられとったけど、あんたくらいよ。俺も頑張ってみよかなあ言うて。変わっとるわ」

「いや。そういうのもあるのかと、あのときは眼から鱗が落ちた」

「鱗は落ちひんやろ」

「……腕あげたな」

「わかる? こだまひびき」

「何で最近になってまた話題になったんだろうな」

「知らん。芸事の流行り廃りは俺らにも捕捉できひん。最近なんかおもろいのあった? はいチーズたこ焼き、ネギマヨトッピング」

「どうも。最近だったらやはり救急救命のドラマが……」

「ああ。あれええよな。うちの嫁はん、もうだいぶボケとんのに男前は覚えよる」

 話が脱線する。巷間を騒がせる大衆文化にこそ人の世の息遣いがあるのだと、蛇島は龍神に教えた日のことを思い出す。ドラマを見て、映画を見て、音楽を聴いて、演芸を知れと。本を読むのもいい。そして何より人と話すのがいい。受けた感銘は一つずつ実践した。会社も興し、たくさんの人間と交わる機会を持った。死ぬまで仕事を頼みたがった者もいるし、別の場所に移っても贔屓にしてくれる者もいる。人の世界に混じるというのは、悪くないどころか心地よいものばかりだ。少なくとも山奥に隠棲していた時代より、龍神は日々を我がことのように捉えて生きている、と思う。果たして自分の身を「生きている」と表現するのが正しいかどうかはわからないが、少なくともそれなりの充足は得ている。

「奥さんは元気か」

「んー。もう長くはないな。まだ来年は元気しとうと思うけど」

「孫のふりはうまくいってるか」

「まあまあ? あの年になったら何でも孫に見えるらしいわ」

「適当すぎる」

 蛇島は龍神がうまそうにたこ焼きを頬張るのを納得した面持ちで見つめ、店の電気を消した。小さなスタンド形式の店は照明を消すと途端に暗くなる。明石に来たのは、明石に墓があるからだ。海の見える霊園墓地に黒越の妻が眠っている。足を悪くした黒越に代わり、長男の娘、孫にあたる人物が管理している墓は、静かであると同時に些かの排他性もあり、しかし旧友である彼らまでを阻むものではなかった。早めに店じまいをした蛇島は、龍神を車に乗せて霊園墓地へ向かい、そのまま春海の実家のある丹波まで送り届けるといった。龍神は恐縮したが、前後不覚の妻を介護する若人を演じている海蛇には、その襲来そのものが大きな娯楽であったらしい。

 

 突拍子もない丘陵地帯の、島と海峡を見下ろす小高い一角に黒越夫妻の墓がある。妻が入り、夫を待つ墓である。彼が興した事業、小さな輸入食料品の会社は今や神戸で知る人ぞ知る珈琲販売店に成長し、ブランドに拍車がかかっている。創業者一族というこだわりを捨て、先述した孫も公務員と飲食店経営と全く関係ない仕事についているらしい。そういうある意味でのこだわりの無さも黒越らしいと思う。龍神はすっかり方言の抜けて、教科書のような日本語を喋るようになった有久の隣に立っている。いずれこの墓に入ってしまえば、一方的に会いに来ることを拒む術もまたないだろう。朱鷺子に会いたいと憚らず口にしていた男は、ついに朱鷺子の隣で眠っている。添い遂げる姿の美しさを、龍神は黒越に倣った。そして看取る美しさを、蛇島に倣った。蛇島は車椅子の黒越の目線に屈み、遠く向こうの島影を指差す。

「お前が溺れたん、あの辺。見える?」

「やめろ」

「あの砂浜か?」

「そうそう。家族旅行でな。いや〜やっぱり俺が管轄する海で素人に死なれたら気悪いやん。それで、助けたったんよ」

「多少どころか非常に手荒だったがな」

「助けてもうとって何やのそれ」

「魔法使いでも自分の身はどうにもならないんだな」

「俺の魔法は大した魔法じゃないんだよ。薬草の知識とか、そういう程度の……故郷じゃその辺の婆さんでも使える魔法だ」

「俺、風邪ひいたときにお前の会社で扱っとうハーブティー買うたことある。効くよな」

「何で俺たちの立場で風邪を引くんだ」

 宗教的なことはわからない。が、龍神は朱鷺子の墓の前で手を合わせた。人より長く生きる、しかし終わりの近い黒越もまた同じように手を合わせた。黒越は外からやってきたのに、自分たちのようなものを受け入れるのが早かった。この柔軟性の高さもまた、ある種の魔法を身につけたものに特有の視野の広さなのかもしれない。

「もう俺は長くないんだが、その前にお前たちと会えてよかった。朱鷺子を亡くしてから、何とか思いとどまれたのはお前たちのおかげだし、朱鷺子に話すこともたくさんできた」

「朱鷺子さんしっかりしたはるからなあ、お前が呑気に手ぶらで来ようもんなら追い返しはるやろ」

「違いない」

「龍神。それで、奥さんとどう生きるか、決めたのか」

「……それがうちのはちょっと変わった女で」

 龍神は朱鷺子の墓前で言い淀んだが、旧友の前では何を繕おうと無意味であると悟ったらしくうなだれた。それは二人と全く異なる選択だった。

「この世が滅ぶまで、と保証してくれるなら一緒になっても良いと」

「マジか」

「ってことは死なないし、殺させないし、ずっとそのままか」

「そうなると思う。歳も取らない。これから向こうの親に挨拶に行くが、歳を取らなくなるわけだから……親兄弟や友人との付き合いもなくなるだろう。俺は止めたんだぞ、これでも」

「せやろな」

「あいつは果てが見たいらしい。あと不慮の事故で友人が亡くなってから、心に決めたんだと。もう置いていかれるのは嫌だし、自分が置いていくのも辛いと」

「それ、俺らと縁がなかったらどないするつもりやったんや」

「誰もいらんかった。そこにあんたが現れた。そういう縁だな、龍神よ」

「そういうことだろうな」

 春海は大事な友人を亡くし、またその人を憎からず想いながら喪った人を目の当たりにし、もうそれ以上に大事な人を得る気がないと心に決めたのだ。そこに龍神が現れてしまい、縁ができてしまった。老いず、朽ちず、死なない、生き物の理を外れた龍と。だからそうなれば、何よりも望む形であると、春海はそう言う。そうであることが結婚の条件であると。だから龍神もその条件をのんだ。看取る覚悟も、その後の永い孤独も肚に決めていたのに。春海のこころは龍神の迷いなどとうに凌駕していた。

「まあまあ。良かったやないか、安心して死ねるな黒越」

「冗談にならんぞ」

「はは。まあ、夫婦の縁だけが全てやないし、生きてるうちになんか変わったんやったら、それなりに生きたらええやないの」

「お前のところもそろそろか」

「そろそろやなあ。いやあ、あいつに合わせて老体ぶっとったらめっちゃ腰にくるんよ。介護はしんどいわあ。息子も娘も遠くにいてるし、もうこっちには帰ってけえへん気ぃすんねん。いや帰ってこられたら面倒なんやけどな、あいつ誰や! ってなるやろ。孫のふり言うても、うち孫息子いてへんのに」

「孫のふりをして介護か。泣ける話だ」

「五人目の嫁はんやからな。いや、何人嫁はんもろても、みんなええ女ばっかりやわ。誰が一番とかやない。そのときそのときの一番は、そのときの女なんよ」

 堂々と言ってのける蛇島に黒越は笑って肩を揺らす。風が出てきた。肌寒い風が吹いてきて、もしかすると老体にはもうきついのかもしれない。龍神はさりげなく黒越の背のハンドルを握る。もう戻る時間だと案に訴えるように。

「龍神と蛇島は、女関係では絶対喧嘩しなさそうなところが気が合うのかもな」

「否定はしない」

「何で? 俺の今のええ話やったやろ?」

 龍神は黒越の車椅子をぐっと押した。息子のバンが停まっている駐車場まで、限りのある時間をこの盟友と分かち合いたいと思った。黒越と出会って、その家族と関わりを持って、看取りを見届けて、また再び彼を見届けようとしている。この出会いがなければきっと、あの涙を見なければきっと、人の世にこれほど混じって生きようとは思いもしなかった。

「黒越。お前の信仰に来世はあるのか」

「あー。もともとはなかったけど、朱鷺子が二世の契りやって言うから、もしかしたらあるかもな」

「適当やな」

「そりゃあ、適当な信仰じゃなかったらお前らとつるまんよ」

「おっしゃる通りで」

「また会おう。また会いにくる」

「ああ。ここの場所で」

 龍神がそう言うと、風の勢いが強くなった。神の言葉には必要以上の力が宿ると言う。それがどれほどのものなのか、龍神は知らないし黒越も考えなかった。また約束を一つ、作ってしまった。だがその横顔には充足が浮かんでいた。


***


 電車で行きにくいところだろうから、と蛇島は丹波口まで龍神を送り届けた。

 確かに行きにくいところだった。京阪神からは電車で行けるのだが、明石や垂水の方から回るのはいかにも遠回りである。蛇島は山深い峠までノンストップで車を走らせて、腹減ったなあ、と唐突に口走った。山道は細く視界も悪い。仕事の都合で車を使う龍神にもその苦悩はよくわかる。状態の悪い中の運転はそうでない中よりもずっとひどく消耗するものだ。

「こういうところにはだいたい蕎麦屋があるんよ」

「何だそれ」

「脱サラして蕎麦屋。山奥の古民家。手打ち」

「そういうもんか」

「あかんな龍神、まだ修行が足りん。ほらそこ、そういうとこ」

 勝手に車を止めてしまう。蛇島がハンドルを握っている以上、龍神に反論の権利はない。

 龍神は蛇島が停車するのに従って大人しく外に出た。確かに蛇島が言った通り、自家製蕎麦の看板のかかった小さな店がポツンとある。こんなところで客足を見込めるのだろうか。蕎麦を育てたところで山のものに食い荒らされるのがオチじゃないのか? 京都の龍とはいえ嵯峨野は山郷でもあるため、龍神の頭には真っ先に獣害がよぎった。特に猪などは、人間の育てたものをかたっぱしから食べてしまう。人と嗜好が合うのかもしれない。

「蕎麦食うやろ」

「まあ普通に」

「せやろな。長いもんは長いもんが好きや」

「馬鹿にしてるのか?」

「いや、同族あるある」

 のれんをくぐると案の定客はいなかったが、愛想のいい若夫婦が出迎えた。これも意外だ。思い込みで老夫婦の店だと思ってしまったが、年の頃は龍神の見た目よりずいぶん若く見える。長いもん、とひとまとめにされたことにもう一言文句を言おうとした龍神だったが、愛想よく店員に話しかける蛇島に毒気を抜かれた。

「やってはります?」

「はい、もちろん。お好きな席どうぞ」

「ありがとお」

 蛇島が席につくなり鴨なんばか、山菜もええなあと悩み始める。龍神は出汁の匂いを嗅ぎ取って初めて、自分が空腹であることを知る次第だった。値段もそう高くない。大盛りを食うだけの胆力はないが、山菜くらいなら載せても美味しそうだ。注文を取りにきた女将にどないしましょ、と訊かれ、龍神は顔をあげた。なぜかひどい既視感に襲われる。確実にこの女とどこかで会っている。だがどこで会ったかまでは思い出せない。

「俺、鴨なんば。大盛りで」

「山菜蕎麦を」

「畏まりましたぁ。あんた、これ頼むわ」

 女将が伝票を亭主に渡し、龍神と蛇島の前に水をおいた。そこまではいい。女将は自分の水も同じ卓に置き、そしたら、と話を切り出した。

「蛇島ちゃん。お疲れさん」

「いやほんまに。ここ山深すぎやわ」

「……知り合いか?」

「龍神、お前、人間社会で生きるんやったらもうちょっと周り見た方がええと思うわ」

 既視感の正体を探るより前に女将が口を開く。チラッと見えた八重歯の鋭さに、龍神はようやく何かを思い出していた。

「あんた……丹波の」

「どうも。春海ちゃんがお世話になってます」

 わずかな威圧感とともに打ち出した女の声音には聞き覚えがあった。丹波の山の主、猪神。春海の氏神でもある女神だ。龍神の立場からすると春海の親と同じくらい頭を下げなければならない存在だった。龍神はそのような意識でいたことがないが、田舎に行けば行くほど氏子と家族同然の付き合いをする神がいると聞く。春海からは当然聞いたことがなかったが、ここはそういう土地柄であったらしい。ぬかった。そしてはめられた。蛇島は何も言わなかったのだ。何が腹が減っただ、白々しい。恨みがましく蛇島を睨むと、蛇島は龍神に極上の笑顔を差し向ける。友達がいのなさにも程があるだろう。

「結婚するんやって、おめでとうございます。ええ子でしょ、うちの子。縁があって嬉しいわあ」

「こちらこそ、お世話になって……」

「あの子のお家は代々山の仕事してはってね、もう娘みたいなもんなんよ。今はお兄さんが主だってしてくれてはるんやけど、若い頃は春海ちゃんも山のことしてくれたわ。ほんまにええ子。いずれ嫁に行くとは思っとったけど、まさかこういう身のもんと一緒になるとは思うてへんかったわ」

 龍神は何も言い返せずに猪神の言葉を聞く。何か言い返したら無事では済まない気がした。ただでさえ荒れ狂う山の主だ。だいたい山のやつは気性が荒いと相場がきまっている。蛇島は何の頼りにもならなかった。龍神は小さく俯いて頷くしかない。

「大事にしたってくれます?」

「そりゃもう」

「あの子は筒井筒の仲やった子を若い時分に亡くしてるん。聞きました?」

「聞いてます」

「人のことを好いたり、好かれたりが苦手な子でね。一人でどうにかなってしまう人や。どうにかする前に、そばにおってやってくださいね」

「はい」

 猪神が語る春海の像は龍神の知る春海の像とそう大差なかった。それは龍神にとって、少なくとも何かの救いのようには感じた。

 猪はそのほかには特に何も言わなかった。ほな蕎麦よばれて、と出来立ての蕎麦が出てくるのと同時に席を立つ。何とかなったのか? 龍神が目配せすると、猪は亭主の隣でニコニコと幸せそうに立っている。立場はどうやら似たようなものであるらしい。人間の夫と、人間ではないその妻。案外こういう組み合わせは巷に溢れているのかもしれない。龍神が知らなかっただけだ。龍神だけが事情をわかっていなかった。そして、本来ならば自分から、アポイントメントを手配すべきであった。知らなかったとはいえ。蛇島のその辺りの気遣いはさすが、五回も結婚をしているだけのことはある。

「黙っててすまんな。でもこういうのは順番間違えたらあかんのやで」

「……感謝する」

「やめてや、俺騙し討ちした側やのに」

「俺一人だったら永遠にこなかったと思う」

「まあそれで許してくれるたまやないで、あの人は。会えるまで粘りはる」

 龍神は麺をすすりながら頷いた。確かに蕎麦はうまい。そして許してくれる立場で助かった。何となく、話が通じなさそうな気配を感じ取ってはいたのだ。

「そうや嵯峨野の龍神サン。またそっち遊びに行きますから、その時はよろしく頼みます」

「は」

「ほらな?」

 怒られている、とまでは言わない。だが確実に、何か含みを持たせてきている。龍神は曖昧に笑って頷いておいた。まさかその後、かなり頻繁に京都旅行の拠点として重用されるとは、その時の龍神は知る由もなかったのだが。


***


 いのり、と名乗った猪神の重圧に比べれば、春海の実家の挨拶など何でもなかった。実に円満に、とんとん拍子で話が進んだ。

 初婚で会社経営者で、という自己紹介だけで信用に足りると判断したらしい家族一同、春海には過ぎた夫だと口をそろえた。春海は些か面白くなさそうに、京都への帰路を口数も少なかった。蛇島とは春海の家に着く前、蕎麦を食ってすぐ市街地に降りてから間も無く別れている。おかげで春海の実家への挨拶を終えて、最寄り駅まではバスを乗り継ぎ、そこから宝塚線を使って帰路に着くことになる。直線距離はそう遠くないのに、やけに迂回路を経由しなければならない。おかげでまだ昼過ぎだというのに、そうやって帰っていたら3時間はかかるだろう。

 龍神はスーツの首元を緩め、隣に座る春海の横顔を覗き見た。初めて会ってから5年ほどが経つが、春海は全く変わらなかった。もう自分の力が彼女の体の時間をとめているのかと錯覚するほど、春海は若く溌剌としていた。意外だったのは家族の反応だ。もっと引き止められ、面白くないものを見るようにあしらわれるかと思っていたのだ。春海の指摘する通り、ドラマの見過ぎだったのかもしれない。龍神はついにネクタイを丸め、無造作にカバンに突っ込む。

「地元の神様に会った。氏子を嫁にもらいますと、挨拶をしてきた」

「え、そうなの? 会ったことない。どういう神様」

「蕎麦がうまかった」

「冗談言ってないで」

「本当に。蕎麦打ちが特技らしい」

「……まあ、エアコンの洗浄が得意な神様もいるからね」

「たこ焼きを焼くのがうまい奴もいる」

 ほんと自由ね、と春海はおかしそうに笑う。自由だ。何をしようが自由。本当は、龍神とてそうだ。神でなければいけない時代は終わった。小倉山ももう、神職ではない。そういう力もほとんどないし、何よりも他ならぬ龍神に仕える必要がない。今は亡き小倉山の父は、我が子が男でも女でもないものになろうとしていることを心の底から悔やんだが、ほぼ時を同じくして龍神が生計を立て、人里に混じって人の世で生きることを選んだときから、その必要性のなさに気づく聡明さも持ち合わせていた。龍は長らく孤独だったが、これからはそうではない。孤独を持て余し、使い切れないくらいの関わりを春海と持つことになる。そうした世にもはや神やそれに類するものはいらないのだ。だから、春海とともに終わりがあるヒトとして生きることも選べたのだ。春海が、かつての喪失を語らなければあるいは、そうするつもりだったのかもしれない。

「俺は一つ危惧してる。その、一言で言うなら、飽きないかと」

「飽きる? 何を」

「俺を。春海が……親兄弟と違う時を生きて、生きて生きて、そのさきで俺の妻であることに飽きるかもしれない」

「うーん」

 春海は誠実な女だった。たっぷり唸って、ないわ、と龍神に告げた。

「例えば電車をこうして待っていて、三十分に一本が永遠に来ないんだけど、あなたといると暇が潰れてる。場が持つ。悪くないわ」

「そうかな」

「会話はあったほうが楽しいけど、なければいけないものでもないし。親や兄弟とは、存命である限り関わり続けるつもりだし。二度と会えないわけでもないし」

「いずれその時がきてもそう言えるか」

「いずれのことなんてどうでもいいのよ。この世が終わるまで一緒にいるなら世界中の誰よりも話したりるわ。私はそれがほしい。永遠に別れなくて良いひととどんな仲でいられるのか。もしかしたら、そのうち夫婦でなくても良いと思うかもしれない。また一緒になりたいと思うかもしれない。それが選べるって贅沢で楽しいことよ」

 龍神は春海のものの考え方が好きだった。結婚の挨拶の帰りに、夫婦で居たくなくなったら、という話を平気でする。彼女の瑞々しく、贅沢な感性。龍神の凝った発想を解きほぐすその視点に、これからも幾度となく何かを得ることだろう。人間との交わりがいかに面白いか。それは、交わったものにしか得られない知見と、刻一刻と変わり続ける世界に対峙することに他ならない。

「誤解する余地なんてないくらいわかりたいの。あなたのこと。好きって気持ちはこれでいいのか、どこかに行き着く先があるのかも知りたい」

「そのための時間には不自由しないと」

「そう思わない?」

「いや。俺も同じことを思った。俺もこの気持ちで合ってるのかどうか、確信がない」

「神様なのに?」

「人間じゃないから余計に」

 置いていかないから、置いていけないから、まさしく過不足なく永遠に言葉を交わし続けることになる。あの変な天気の夕暮れに握った手を、抱かれた肩を春海は思い出した。言葉が説明する時もある。あの時のように手の方が雄弁な時もある。どちらでも構わないと、春海は思った。そうしてありとあらゆるコミュニケーションを、分かり合えない生き物同士の説明を何万何億回と繰り返して次に進む。それはちょっとした永久運動のように思えた。

 龍神は隣の女の顔を焼き付けようとじっと見入る。そのうち流れてきた電車の接近アナウンスに邪魔をされ、視線はついに交わらなかった。だが電車に向かって先に歩み出した春海はさも当然のように龍神の手を引く。ここに帰るのだ、と言外に滲ませるようにして。

「また雨。ここはまだ洛中じゃないのに」

「俺じゃない。俺じゃない、さすがに」

「偶然にしては出来すぎてる」

「濡れ衣だ」

 電車に乗りながら煩わしそうに春海が手をかざす。ドアが閉まるとき、咄嗟に庇うように腕を伸ばした龍神が春海をそのまま抱く形になった。公衆の面前で、事故とはいえ、なかなかの羞恥に二人は顔を赤くする。さらに強まる雨足が、窓の外を横殴りの激しい粒で打つ。京都に帰るまでずっとこうなのだろうか。春海は些かの危惧とともに嘆息し、それでも龍神の腕の中からは出ようとしなかった。雨は激しくなるばかりだ。同じ車両に誰もいないのをいいことに、一瞬だけ二人で呼吸を止める。どちらからともなく溢れ出す想いの詳細は、ひとをやめかけている女と、人ではない男の二人にしか、終ぞ知り得ないことであった。



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禊の雨 juno/ミノイ ユノ @buki-fu-balla-schima

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