落ち着いたら

増田朋美

落ち着いたら

雨が降って寒い日だった。もう、着物の着流しでは寒くて、羽織が要ると言われる時期が来た。それなのに、どこかの国では台風が来ているようで、なんだか、地球の季節感がおかしくなっているようである。そうなると、同時に人間もおかしくなってしまうような気がする。

その日、杉ちゃんの家に、着物の身丈を長くしてくれと言って、一人の女性がやってきた。身長は、160センチ、まあ、日本人であれば、よくある身長だと思われる。少なくとも、現代の日本人では。一昔前の、昭和の時代であれば、まあ、あんまりいなかったかもしれないけれど。

「はあなるほどねえ。これの身丈を直してほしいというわけねえ。」

「はい、ちゃんとおはしょりを作って、しっかり着られるようにしたいんです。」

杉ちゃんがそう言うと彼女は即答した。

「はあそうなのね、確かに、胴を切って、別の布を縫い付ければ、身丈を長くすることはできるよ。でもねえ。それをしなくても、おはしょりをしなければ、ちゃんと着られるんじゃないかな。最近は、うるさく言う人も、あまりいないようだし。あえて、別の布をつけるという必要も無いんじゃないの?」

「そんな事ありません。」

彼女はまた即答した。

「着物の決まりは必要だからあるんですから、ちゃんと必要なことをしなければなりません。だから、それをするためにも、ちゃんとできるように直してもらわなきゃ。私は、身長が160センチもあるんですから、それでは、どのリサイクルきものも、着られないのは知っています。ですが、私は、書道教授という立場上、着物を着なければなりません。教師というのは、みんなの手本のように振る舞わねばならないこともありますし、だからこそ、しっかりと着物が着られるようにならないと。」

「はあ、そうなのねえ。でも、きちんと着られるようにならないほうが、ほかのお弟子さんだって、着物を着たいなと思う気持ちになると思うけど?」

と、杉ちゃんは言ったが、彼女の決断は変わらないようであった。まあ確かに、書道教授という職業上、そうしなければならないのかもしれないが、あんまりそういうことにこだわりすぎるのも、着物を着たいという若い女性が、大きな障壁になるかもしれなかった。何よりも、そうなっていることに、着物を着てる人たちが気が付かない事が問題でもある。

「まあ、お前さんが、そう思うんだったら、やってみようかな。じゃあうちにある布を、10センチほどたそうか。そうすれば、望み通り、おはしょりができる着方になれるよ。」

と、杉ちゃんが言うと、彼女はありがとうございますといった。お金は、どうしますかと端的に聞いてくるので、杉ちゃんは、出来上がってから払ってくれればいいよと答えた。

「ありがとうございます。直してくださって、本当に嬉しいです。やっと着物がこれで私でも着ることができるようになります。」

と、彼女がいうので、杉ちゃんは、

「お前さんの名前を教えてもらえんかな?」

と聞くと、

「はい、磯辺と申します。磯辺鞠子。鞠は、鞠と殿様の鞠です。」

と、彼女はにこやかに笑って答えた。

「そうなのね。じゃあ、一週間したら来てくれや。その間にちゃんとお直ししておきますから。」

と、杉ちゃんがいうと、彼女はわかりましたといった。

「ちなみにどこで書道教師やってんの?教えてよ。」

杉ちゃんが聞くと、彼女は、茶ノ木平ですと答えた。茶ノ木平というと、富士見台似近くの地名だが、確かそこへ行くバスが、何本か杉ちゃんの家の近くを通っている。「茶ノ木平ね。そういえば、僕のうちの近くにバス停があるんだけど、」

「ええ、そのバスに乗ってこさせてもらいました。私、車を持っていないものですから。」

と、彼女はまた即答した。どうやら彼女、すぐ即答してしまうくせがあるようだ。

「そうか。車を持ってないんだ。即答してしまわなくてもいいんだよ。少し考えてから、答えを出してもいいんだぜ。それで、だれも不快に思ってしまうやつはいないからな。」

杉ちゃんはカラカラと笑ってごまかしたが、磯辺鞠子さんは、ちょっと困ってしまったようだ。

「いやあ、嫌な思いをしなくたっていいんだよ。僕はただ、好奇心で聞いているだけだからね。」

杉ちゃんはそういうのであるが、磯辺鞠子さんは困ってしまうらしく、変な顔をした。

「そんな顔しなくたっていい。もし、返答に困るんだったら、そうですねといえばいいんだ。あるいは、私の悪い癖ですと言って、笑って誤魔化せばそれでいい。」

「本当にそれでいいんですか?」

と、鞠子さんは、初めてわかったような顔をしてそういうことを言った。

「何だ。お前さん知らなかったの?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ。知りませんでした。そういうときに、どんな反応をしたらいいか、わからなくなってしまうことが、よくありました。」

と、彼女は答えるのであった。

「そうか。それなら、今覚えとけ。私の悪い癖ですと言って、ごまかすこと。人と会話するときは、答えを出すのも大事だけどさあ、そうやって、自分の悪い癖だと言うことが、必要なこともあるんだよね。」

「わかりました、教えてくださってありがとうございます。嬉しいです。今まで、教えてくれることなんてありませんでしたので。」

杉ちゃんがそう言うと、彼女はにこやかに笑っていった。もしかしたら、曖昧な態度とか、そういう事を許さない人なのかなと杉ちゃんは思った。

「まあ、それでいいじゃないか。なんでも、決着をつけなくちゃだめっていう事は無いからよ。それを大事に生きていくんだな。」

「はい。」

と、鞠子さんは、にこやかに笑った。

「じゃあ、一週間後に取りに来てくれや。多分その頃にはできてると思うからよ。」

「わかりました。必ず受け取りに来ます。」

鞠子さんが笑顔になってくれたので、やれやれと思いながら、杉ちゃんはそういった。鞠子さんは、じゃあ、着物をお願いしますと言って、軽く座礼し、杉ちゃんの家から出ていった。

それにしても、鞠子さんが預けていった着物は、実に見事な着物であった。友禅で、大きなゆりの花を下半身に入れた訪問着であり、すごいものだとわかる。こんな着物に傷をつけてしまうのは、なんだかしてはいけないような、そんな威厳も持っている。多分、彼女はリサイクルショップなどでこれを入手したと思われるが、そこではちょっともったいないなと思われるほど、高級品であった。

それから一週間後。杉ちゃんが、布を継ぎ足して縫った着物を用意して、鞠子さんが来るのを待っていると、

「ごめんください。」

と、若い男性の声が聞こえてきた。

「はあ、だれかなあ?」

と杉ちゃんが言うと、

「ええ、磯辺守男と申します。鞠子の弟です。」

と、いうのでさらにびっくりする。

「お姉さんが取りに来ると思っていたんだが、なんで弟さんが来るんだろうかな?まあ、とりあえず上がれ。」

と、杉ちゃんが言うと、守男さんは、お邪魔しますと言って、杉ちゃんの家にはいった。

「すみません。本来は姉が取りに来るはずでしたが、姉が今日、家族とトラブルを起こして、来られなくなったため、代理で伺いました。姉が、着物の仕立て直しを依頼したと思うんですが、これでよろしかったでしょうか?」

守男さんは、杉ちゃんに一万円札を差し出した。

「いやあ、値段はどうでもいいのだが、それより、鞠子さんが起こしたトラブルって何?交通事故とか?」

杉ちゃんは、そう聞いてみる。

「いえ、それだったら、もっと気楽かもしれません。それよりもっと重いものだと思います。」

守男さんはそう答えるので、杉ちゃんは、

「はあ、それなら、お前さんたちの家族関係を言ってみてくれ。それか親戚関係とか。」

と、聞いてみた。

「はい。僕のうちは、父と母と祖父と暮らしているのですが、姉は、年を取った祖父と特に仲が悪くて。しょっちゅう喧嘩を起こすんです。まあ確かに、祖父は、勤勉だし、働き者でしたし、家族のために、働いてきたのを、生きがいにしてきたようなところはありました。だから姉にとっては、その祖父が、本当に敵対する人だと思っているようで。姉はどちらかといえば、一般企業に就くことはできず、自分で書道教室を開くしかできなかったような人ですから、祖父にとっては、おかしな生き方をしているように見えるんだと思います。姉もそれは感じていて、よく衝突するんですよね。」

守男さんは、この事を話したいと思っていたのか、一気に喋った。そうなることからも、そのような喧嘩が頻繁にあるのだろう。

「お姉さんは、なにか診断とか、治療をしているのか?こっちへ来られないほど、落ち込んでいるんだったら、薬で和らげてやることも必要なんじゃないの?」

杉ちゃんがいうと、

「ええ。そうかも知れませんが、姉は、祖父が絶対にそういう事は理解してくれないと言います。精神疾患なんてかかっている暇がないほど、祖父は忙しすぎる人でしたから。今は定年して、家にいますけど。」

と、守男さんは答えた。

「きっと多分それは、自分がすることがないから、それで威張っているんだと思うよ。何もすることがないのに、昔の事を信じ切っている人ってのは、本当に惨めだから。そういう人ってのは、この時代には、一番有害なのかもしれないよね。」

と、杉ちゃんは、守男さんに言った。

「だれが悪いわけじゃないけどさ、そうなっちまうことって、結構あるもんだな。まあ、そういうときは、過去を洗っても、未来を心配してもしょうがない。健康な、お前さんたちは、なかないでいられるさ。でも、お姉さんはそれができないんだ。そういうやつは、今の時代、障害者と名前をつけちゃったほうが、かえって楽なのかもしれないよ。何もしないで、お姉さんが苦しむのを見ているのも、かえって辛いだろうからね。そういう称号をつけてやって、公的な支援が必要なんだってわかれば、おじいさんだって、何も言わなくなるんじゃないかなあ。」

杉ちゃんは、にこやかに笑ってそういう事を言った。

「でも、姉がかわいそうだというか、変なレッテルを貼られてしまうと、また辛いかなと思う気もするんですがね。それに、祖父は、人の言うこと聞く人ではないですから、姉がそういう障害であると言っても、理解はしないでしょう。」

「だったら、お前さんたちではなく、役所の人とか、なんでも屋とか、そういうやつを使え。血縁関係者ではなく、権威があるやつが、一番いいよ。古い考えの人は、そういう権威のあるやつの言うことは、意外に言うこと聞くもんだろうよ。」

「いやあ、それは無理でしょう。国会議員すら信用しない祖父ですから。実は先日選挙がありましたときに、立候補者の支援団体が、うちへ訪問した事がありました。其時祖父は、お前たちを信用なんかするもんかと、怒鳴り散らして追い出しました。ある意味、なんでこんな事ができるんだろうかと思うくらいでした。」

「はあ、なるほど。何か変なふうに行っているみたいだねえ。」

守男さんの話に、杉ちゃんは大きなため息を付いた。確かにそんな年寄がいたら、障害者であってもなくても、いい迷惑だ。なんだか、家が発展しそうであっても、それを妨げるような存在、といってもいいかもしれない。

「まあいずれにしても、お前さんたちは、どこにも行くところが無いんだろ?」

と、杉ちゃんは聞いてみた。

「ええ、ありません。姉が一人で暮らしていくことはできないと思いますし。それなら、今の生活を続けるしか、、、。すみません。相談できる人もいないし、親は祖父の言いなりになるしかないみたいで、何も反抗はできませんしね。孫である僕達が祖父の被害を被っているようなものです。多分一番の被害者は姉なんじゃないかな。」

「そうかそうか。お前さんだって、十分被害者だよ。今の時代、だれでも自分の行き方を選べるのに、それを選べないってのは、本当に酷だ。お姉さんだけじゃない。そういうお年寄りは、いると本当に困るよね。殺してやりたいこともあるんじゃないの?」

杉ちゃんにいわれて、守男さんは、小さく頷いた。それは、素直に認めろよと杉ちゃんは言った。

「まあでも、お前さんもお姉さんも、外へ出なくちゃ進歩も何もしないよな。だから、どっか集まれる場所があるといいね。まあ、そういう場所に居るやつと家庭環境が違うから、戸惑うこともあるだろうが、人間って、そういうもんだと思えば、楽に過ごせるようなもんだよ。」

「本当にありがとうございます。姉にも、伝えておきますよ。僕、話して本当に良かった。なんとか、姉が立ち直れるように頑張ってみます。教えていただいてありがとうございました。」

守男さんは、若者らしくそういう事を言った。

「ただ、やってはいけないことがある。無理をしちゃだめだぜ。」

「わかりました。それは気をつけながらやってみます。本日は姉の着物をありがとうございました。」

と、守男さんは、杉ちゃんから着物を受け取って、彼に一万円札を渡し、丁寧に座礼して、杉ちゃんの家を後にした。それを見て、うまくやるかなと杉ちゃんはちょっと心配な気持ちになった。

それから数日後のことだった。杉ちゃんがいつもどおり、着物を縫っていると、杉ちゃんの家の固定電話がなったため、急いで電話機の方へ行く。

「はい、影山です。」

電話の相手は、怒っているというわけではないが、杉ちゃんの事を快く思っていないというのがよく分かる口調であった。

「あの、杉ちゃん、磯辺鞠子という女性を知っていますね?彼女は、僕のところにクライエントとして来ていました。もちろん、クリスタルボウルを聞きに来るためにです。」

と、言うことから判断すると電話相手は竹村さんである事がわかった。

「その彼女ですが、今日自殺を図りましてね。幸い弟さんが見つけてくれて、大事には至らなかったんですが、僕は彼女が自殺を図ったことに、大変大きな衝撃を受けました。少し調べてみたら、彼女は杉ちゃんのところに、着物を直しに来たそうですね。杉ちゃん、あなたは何を言い含めたんですか?なにか、悪事をするようにと、彼女に言ったんですか?」

「い、いやあ、待ってくれ。僕がそんな事言った覚えはないよ。確かに、彼女は僕のところに、着物を直してくれと言ってきたことはありました。それを彼女の弟さんが代理で取りに来て、彼女がおじいさんとの関係で悩んでいると聞かされたので、僕は、彼女はどうしても耐えられないのであれば、障害という名目を付けて生きたほうがかえって、楽になるのではないかとアドバイスした。それだけだよ。」

杉ちゃんは、急いで言うと、竹村さんは、それはすみませんと言ったものの、こう繰り返した。

「ええ、でも、杉ちゃん、若い女性に対して、障害を持っているというように持っていくのはやめたほうが良かったのではないかと思います。それに、彼女はおじいさんだけではなく、ほかの家族も居るんです。彼女はお父さんお母さんもいて、彼女を心から愛していることを忘れてはなりません。その二人にとって、彼女が障害者へ転身するというのは、非常に悲しいことだったということも。」

「うーん、そうだけどねえ。結局の所、僕みたいに、車椅子に乗っているのと、彼女がそういうふうに、感情をコントロールするのが苦手だって事は、同じことだと解釈したほうが、いいと思うぞ。それは、親が元気なうちに実行させてあげることが、最大限の目標じゃないのか。僕みたいなやつと一緒だと思わせたほうが、生きていくのは楽になる場合もあるよ。」

杉ちゃんは、竹村さんの話にそういう事を言った。

「なるほど。経験者は語るですね。」

竹村さんは、そう言っている。

「でも、そうなってしまうのは、なんだか悲しいことであると思ってしまう人も居ると思うんですよ。やっぱり、そういう身分というのは、今の世の中、不利であるということはよく知られていますからね。」

「まあそうだね。」

と、杉ちゃんは竹村さんに言った。

「いや、いいんだよ。それを思っちゃうのは、日本人であればそうだから。不利な世の中になるのは、たしかにそうだからね。でも、少なくともさ、人生に踏ん切りは着くと思うんだよ。本人だって、どうして自分はこんなにできないんだろうとか思って、苦しんでいると思うからさ。それに自分がこういう障害があるんだって、思えば、ちょっと楽になるんじゃないのかな。」

と、杉ちゃんは、にこやかに竹村さんに言った。

「明るい方ですね。そこまで明るい方は、初めてみました。そんなに明るくて、辛いことは無いんですか?」

竹村さんが、そう言うと、杉ちゃんはカラカラ笑って、

「いやあ、そういう事は何もない。だって、僕達幸せだもん。まあ確かに嫌なこともあるかもしれないけどさ。それなんて、長く考えていたら、辛いだけじゃないか。それよりも、できることを考えてさ。明るく生きていくしか人間にできることは無いと思ってるから。」

と言った。竹村さんは、電話口で、一つため息を付いて、

「そうですね。杉ちゃんのその言い回し、僕もクライエントさんを励ますのに使ってもいいですかね。時々、どうしようもなく不幸だと言ってくる人が居るんですよ。生きているのに怒りばかりで、感謝することもできないってね。そういう人が年々増えてきているような気がするんですよね。僕がやっているクリスタルボウルも、そういう方の辛さを少し和らげるしかできないですが、まあ、役に立てればいいかなと。」

と、言うのだった。杉ちゃんは、快く承諾し、

「それより、磯辺鞠子さんはどうなんだ。僕も見舞いにいこうかな?」

と言った。竹村さんは、怪我の程度は、大したことないと答えた。

「それよりも、かなり情緒が不安定で、人の話を聞けるような状態ではありません。それが暫く続くかもしれませんね。一応、薬はもらったんですが、いつ、立ち直れるか心配です。」

「わかったよ。まあ、そういうときは、できるだけ刺激しないで、そっとしておく事が大事だよね。落ち着いたら、僕も会いにいくよ。其時はよろしくな。」

杉ちゃんは電話口でそういうことを言った。竹村さんは、杉ちゃんのような人がいてくれて良かったと、電話を切った。






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落ち着いたら 増田朋美 @masubuchi4996

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