後半

『洗脳の門』へのアクセス数は爆発的に伸びた。

ネットニュースで取り上げられたことがきっかけだった。サーバーが落ちることも頻繁で、これほどの注目は、無料のWEB漫画としては異例の事態だった。メディアの取材や神経生理学系のインタビューをいくつも受けた。

 世間に評価されることは初めての経験だった

。描いた作品が認められ、ほのぼのとした感動が心にあることに気が付いた。

ある日、大手出版社の名でメールが届いた。胸が高鳴る音がした。

「『洗脳の門』はもちろんのこと、もけもけ先生の作品全般が素晴らしい。週刊連載を依頼したい」という内容だった。


 出版社指定の喫茶店は東新宿の外れにあった。テーブルが六つほどのさほど広くない店内は、明るすぎも暗すぎもせず、チェーン店より落ち着く雰囲気だった。カウンターの中ではマスターが珈琲を入れている。隙間風すきまかぜが吹き込むのか、何人かの客は上着を着たままだった。

「早く着きすぎたな」と思い、ホットの珈琲を注文した。

待ち合わせの午後一時になったが、それらしき人物はまた入口に現れない。読みかけの文庫本に目を通すことにした。軽く本の世界に没頭した。

「すみません。遅れてしまって」

 いつの間にか目の前の席に男が座っていた。スイッチが入ったみたいにそこにいたという表現がよぎった。裏口からでも入ってきて、気配に気が付かなかったのだろうか。心当たりのないところに飛んできたその矢の出で立ちは、白Tシャツにデニムジーンズで、紛れもなく白川だった。

「面白かったですよ。『洗脳の門』。タイトルがいいですよね」

 淡々としている口調は、膝のあたりに水をかけ続けられているような不気味さだった。

「最初はうちの信者が描いたと思ったんですよ。炎、本部の造形、プログラムの内容まで忠実すぎますから。だけどそれにしては、思考改造のメカニズムが描かれすぎている。特に三原則の話は運営側にしかしていない」

「三原則……?」

 自分の声が少し震えていた。

「そのまま描いてたじゃないですか。『解凍・変革・再凍結』と」

 白石は歯を見せないで笑った。

「自分のした会話がそのまま漫画になっているのは気持ち悪いものでした。ねぇ?」

 白石がバーカウンターに目をやった。

「おい佐藤! 覚悟できてるよなぁ!」

若さの残る甲高い恫喝が店を揺らした。先ほどのマスターが、あの若い男に変わっている。ソファの部屋で白石の話を聞いていた男だ。エプロンを外すと、下から白Tシャツが露わになった。カウンターで見えないが、おそらく下はデニムジーンズなのだろう。

いつの間にか店内の客が上着を脱いでいる。全員が白Tシャツにデニムジーンズだった。どこにでもいるシンプルな格好を大勢がする気味悪さを初めて知った。生理的に嫌なものを見た時の肌寒さが背筋を走り抜けた。

「絵の構図の位置がそのままカメラの位置になっているのには笑いました。もけもけ先生の正体を確かめるためにカメラは放置していましたが」

 白石が立ち上がった。

「行きましょう。京子さんにも会えますよ」

 白石がそう言い終わる前に、僕はテーブルを思い切り前方へ押し込んだ。起立していた白石の太ももに焦げ茶色のふちが衝突し、うっと低い悲鳴が上がった。そのままちゃぶ台をひっくり返すように叩きつけると、白石は派手に倒れた。ガラスがいくつも割れるような音がして、机の上のものが床に散乱した。鼻を抑えながら倒れている白石の手ごと顔を数回踏みつける。後頭部とフロアが心地よい炸裂音を立てた。

「待てコラァ!」

若い男がカウンターを乗り越えてきた。

文庫本を投げつけると、見事に顔面に激突して、犬のうめき声のような悲鳴をあげた。他の白Tシャツも立ち上がったが、弦が切れたかのような勢いで店内を脱出した。

店外にも複数人の白Tシャツがいた。

疾風はやてに吹かれた木の葉の如く、体を前傾に走った。一瞬、小学生の頃、運動会で運動場で走る母の姿をなぜか思い出した。

歌舞伎町の雑踏の中、なるべく狭い道へと滑り込んでいく。後ろから時折、怒号が聞こえる。いったい何人に追いかけられているのか見当もつかなかった。肺が潰れそうなほど手を振り、地面を蹴る。改めて痛感した。やはり人生にはファンタジーもサスペンスもいらない。帰るべき日常が何より貴い。

人が二人通れないほどの裏路地に入ると、目の前から白Tシャツが現れた。先回りされていたのだ。しかし掴み合うとあっけないほど軽かった。頭部を壁に何度か叩きつけたら、そのままぐったりした。格闘している間に後続が数人でやってきた。置いていたブルーのゴミ箱をブチまけてぶつけて、さらに逃げ続けた。だがまたしても、前方から白Tシャツが登場した。あの若い男だった。

「死ね佐藤!」と吠えながら繰り出してきた渾身の一撃は痛烈だった。綺麗にパンチをもらってしまい、痛みが顔から脳天に貫通した。

息切れしながら何度も殴られ、後ろからは何人かが掴みかかってきた。倒されるやいなや、布を顔に当てられた。何かを嗅がされると写真機のシャッターが下りたように目の前が暗くなり、気を失った。

 

 警察署という場所に来るのは初めてだった。朱里あかりからすると、それは見上げるだけの無表情な建造物でしかなかった。

 受付で「被害届」と書かれた紙をもらったが、被害者の住所や被害の場所、被害模様など書くことのできない項目ばかりだった。

「あの、すみません……」

朱里あかりは受付に話しかけた。

「兄と連絡がつかなくなってしまって」

「そうなんですね。職場やご家族へのご連絡は?」

 受付の係員は兄とさほど変わらない年齢に見えるが、警察というだけで何倍も立派に見えた。

「いえ……職場は分からないんですが、連絡はありません」

「お兄さん、何かに悩まれている様子はありましたか?」

 ついこの間まで兄の悩みや葛藤のなさに呆れていたのが、遠い昔のような気がする。

「カルト宗教のことを調べていたんで、たぶん原因はそれなんですが……」

「事件性があれば警察はすぐ動くんで、ご安心ください。で、連絡つかなくなって何日?」

 気がつけば男の口調から敬語が消えていた。ちらりと腕時計を見たので、忙しいのかもしれない。

「はい、三日です。でも……連絡したのが三日前だから、何かあったのはもう少し前かも」

「じゃあ捜索願出した方がいいね。行方不明の場所になった管轄の署で出してね」

 そう言って男は奥へ行ってしまった。


朱里は家に帰り、すぐにザックを取り出して、荷物を詰め込んだ。

おそらく兄に何かあったのだ。『洗脳の門』があちこちに取り上げられるようになるたび、朱里は不安だった。第六感のようなものに過ぎないが、とてもよくないことが起きる気がした。

読者にとってはフィクションに過ぎないが、描かれていたことはおそらく脚色ない事実だ。何ができるかは分からないけれど、母と兄に会うしかない。

以前行った時よりも、強い寒波に襲われることが予想される。防寒具を多めに入れ、時刻表アプリでA駅へ向かう時刻を確認した。


薬を嗅がされたせいか、頭が少しぼうっとする。自分は今どこにいるのだろうか。見渡すとコンクリートがむき出しになった倉庫のような狭い部屋にぶちこまれたらしい。

がちゃりと音がして開いた。

「出ろ」

 筋骨隆々の男が白Tシャツにデニムジーンズで立っていた。

「ここは?」

男は質問に答えずにまた「出ろ」と放ち、腕を掴んできた。びくともしなさそうな握力だった。

廊下を歩くと教団本部であることがすぐに分かった。いくつかの部屋を通り過ぎたが、その中には以前入ったソファの部屋もあった。

「殺すのか?」

 男は笑いながら「たまに老衰で死ぬやつはいるが、わざわざ殺しはしない」

「じゃあどうする? 帰れはしないんだろ?」

「不安か? 質問が多い。人間って生き物は不安になると質問が増えるよな」

「不安だ。安心なはずがない」

「まぁいったんプログラムを受けてみろ。白石さんに言われただけで、俺にはよく分からんが、漫画にするなら自分で体験しないとな」

「キチガイになるつもりはない」

男はこちらを睨んだだけだった。


地下への階段を下りると、無機質な扉に着いた。

「ここだ。仲良くやれよ」

ドアを開けると、中は意外なことにダンスのレッスンをするような作りだった。室内は適度に明るく、鏡張りになっている。七人の男女がおり、僕は八人目となった。

男が「おはよう!」と部屋中に響く声を発した。すると全員が全力で拍手を返してきた。


為されるがまま僕は流されていた。

まず全員でニックネームを決めるプログラムが始まり、僕は「ケーちゃん」と呼ばれることになった。その後、各自部屋をバラバラに歩きまわり、向かい合った人と見つめ合い、近づきにくいか、近づきやすいかと言った初見の印象を伝えるプログラムを行った。初対面の相手に「ケーちゃん、近づきにくい」と言われるのはいい気持ちのするものではなかった。

七人全員に「近づきにくい」と言われてしまった。

 

「次のプログラムは赤黒ゲームだ! 二手に別れろ!」と男が腰に手を当てて叫んだ。拍手をしながら別れる。四人ずつのチームになり、僕らには赤と黒の票が配られた。

「合計点を増やすゲームだ! ルールを説明する!」


簡単に言うと、相手チームに悟られないように赤か黒を選んで投票していくゲームだった。

二つのチームが選んだものが「赤と赤」になったらそれぞれマイナス三点。「黒と黒」ならそれぞれプラス三点。「黒と赤」ならば黒を出したチームにマイナス三点、赤はプラス三点になる。

この状況になると、赤が多く出ることになる。こうしてどちらも多くの赤を出すことになり、ゼロ以下マイナス点での攻防になる。

 しかししばらく経った時に男が声をあげた。

「やめろ! 何してんだ貴様ら!」

 僕たちはびくっと固まってしまった。

「誰が勝負しろと言った。俺は合計点を増やせとしか言ってない!」

 こちらが呆気あっけにとられているうちに「もういい! 全員座れ!」

僕たちは大人しくその場に腰を下ろした。隠し事をしているような後ろめたさが心に募る。

「合計点を増やせと言っただろ。馬鹿が。相手を信用して黒を出し続ければ、延々とプラス三点になっていく。それだけだ」

「でももし相手が赤を出してきたら……」

『山芋』というニックネームの学生らしき若者が口を開いた。

「だからお前らは駄目なんだ! 相手を信用せずに無難な道ばかり選んできたんだろうが! そうだろ! 山芋! 立て!」

 山芋はその場で立たされ、罵倒され続けた。最後、山芋は性根を直すためにこれからどうするかを大声で発表した。目には涙が滲んでいた。

男は同じことを全員に行った。

僕も同様だった。自分がいかに勇気のない者なのだと怒鳴られ、自分でも言わされ、それを他の七人に聞かれているうちに、罪悪感の声が次第に大きくなっていった。昔から裏切られないよう生きてきた自分の弱さに、激しい羞恥の念を抱くようになった。

深夜までプログラムは続いた。

 両親についての瞑想。二人一組になり秘密を教えあうもの。自分の過去をさかのぼり、反省するものなど。自らの弱さを他の七人にすべて伝える。泣き出す者も続出したが、僕の結果も同じだった。

母のこと、朱里あかりのこと、朱里が生まれた年に自殺した暴力を振るう父のこと、そして何もできなかった自分のこと。これまでどれほど鬱屈うっくつした気持ちだったのか気付きもしなかった。

自分の鈍感さに吐き気がしたが、痛みを吐露すると七人は「僕も」「私も」と同じ苦しみを吐き出してくれた。

何時間も続いた修行だったが、最後にはつま先から脳天まで感動が突き抜けて涙が止まることはなかった。昼も夜も分からなくなり、全員が部屋で倒れるように眠っていた。

「明日は通過儀礼イニシエーションだからな」

 意識の外から声が聞こえた気がした。


「目の前の人間に向かい合え!」

怒号が夕闇の雪原に響いた。昨夜のコーチだった大男が吠えている。

異様な光景だった。太い火柱の影が、月の空へ突きとおっている。白と黒と紅蓮の赤を月光の輝きがまとめていた。

 僕はキャンプファイヤーの親玉のような炎に背を向けて『山芋』と正対した。『山芋』の顔が炎でまたたいている。

 隣りにも、その先にも白装束の二人一組がずらりと並ぶ。この二人一組で円状に炎を囲んでいる。

「いいか! 今から指を一から四本出して、向かい合った相手と意志疎通を行う!」

男は拡声器を使い、ルールを説明した。


指一本「あなたと話すのは今回やめときます」

指二本「あなたとは見つめ合いたいです」

指三本「あなたと握手したいです」

指四本「あなたと抱き合いたいです」

 このようなものだった。

「相手と同時に指を出して、本数が合えば実行しろ。合わなければ合うまでやれ! その後は一人分ずつズレていくからな!」

焚き火の破裂音の中、荘厳な音楽が鳴り始めた。凍えるほどの寒さかと思ったが、炎の暖かさのおかげでそこまでではない。それよりも疲労が凄まじかった。

次々と人が流れてくる。見つめ合ったり握手したりして、雑談を交えながら交代していく。

全体的にみんな指二本、三本を出している。それにしても昨日今日で何人の知らない人と見つめ合い、過去をさらけ出してきたのだろう。これだけ自分を出したのは初めてだった。

「貴様ら! 気持ちをさらけ出すのがそんなに怖いか!」

 男の声がきっかけで雰囲気が変わった。

「何人とすれ違った! すれ違った者の顔を思い出せ! 今日だけじゃない。これまで生きてきてどれだけの人間とすれ違ってきたんだ、貴様らは!」

演説がヒートアップするにつれ、指四本の白装束が増していった。

 目の奥にじーんとした感覚が湧いてきた。次第に「俺は感情を殺していたため、分かち合えるはずの人ともすれ違ってしまった」と痛切さが胸を駆け抜ける。焚き火の美しさも相まって、宇宙の秘密に触れているような感動的な気持ちが押し上がってきた。

 あちこちですすり泣きが聞こえ始め、白装束のままへたりこむ者もいる。

誰しも指を四本しか出さなくなっている。涙ぐむような愛おしさが胸に迫り、目の前の誰かを大切にしたくて仕方なかった。もう全員が指四本を突き出し、抱き合っている。あちこちでよろこびの声がする。ペアの相手がたまらなく愛しく、その相手も迷わず指四本を提示してくれる歓喜が雪山に噴き上がっていた。

もう輪の原型すら崩れていた。各々おのおのが勝手に歩き回り、指四本を突き出し、目の前の相手を抱きしめ泣いている。

僕も何人もの老若男女と号泣し抱き合った。

自分が「抱き合いたい」というメッセージを放ち、相手も同じことを考えてくれている高揚感にやられてしまっていた。僕はもっと、もっと抱きしめ合いたいとあたりを見渡していた。

ふいに肩を叩かれた。涙でビショビショになった目を拭いてそちらを見ると、母の姿があった。

「母さん……」

「何してるのよ……入っちゃったの?」

白装束とフードの奥、母の温かい表情が焚き火の柔らかな明るさに灯されていた。

「いや、入信とかじゃないんだけど、ごめんなさい。今まで……」

母を探しに来たことがきっかけでこんなことになってしまったが、見つかった喜びより、今胸に込み上げている謝罪の念と感謝を伝えたかった。

「私も本当にごめんね……それより久しぶりね」

 京子はそう言って目元を拭いてくれた。それがたまらなくて、また涙が噴き出した。

「母さんを連れ戻そうとしたんだけど……ごめん」

 自分でも何を謝っているか分からなかった。ただただ、胸に申し訳なさが溢れ、その芯には愛情が満ちていた。

母も同じような気持ちに見える。

「ごめんね、ごめんね……もっと私がちゃんとしてたら幸せに育てられたのに」

「違う! 俺の方がずっと悪かった!」

優しく抱きしめられた。親の温情が湯のように自分を包むのを感じた。

「でもね、まだ帰れないの。ごはんの当番も私だし」

「母さんがカルトにどっぷり浸かるなんてイメージなかったよ……」

「自分でも意外よ。カルトの給食当番なんて」

こんな精神状態なのに、母はどこまでも母らしいと思った。

僕たちは抱き合いながらまだ泣いていた。

母を連れ戻せないことに対する絶望はなかった。ただ今ここにある絶頂を伴う多幸感に溺れながら、ただ月と火にさらされていたかった。

その時、一人の白装束がこちらに駆けてきた。勢いよくフードをとった顔は朱里あかりだった。


10

朱里はぱっと眉を上げて僕と母の手を握った。

「やっと見つけた! 大丈夫? 早く行こ!」

 久しぶりに見た朱里の顔、というか存在は何というか、現実的だった。2Kの部屋の匂いやペッドボトルの蓋をカリカリ引っ掻く音まで聞こえてきそうだった。

「お前一人で来たのか?」

「いきなりお兄ちゃんいなくなるんだもん!」

母は驚いた表情のまま「朱里、あんた……こんなとこに一人で……?」と外国人のように首を振った。

「一人で来たくて来たんじゃないってば。前、お兄ちゃんと来てるから全然余裕! ただ寒すぎ」

 朱里はたまらないと言った感じで、歯を噛んで腕をさすりながら足踏みしている。こんな表情をしているだけで、白装束が死ぬほど似合わなくなる。神秘的な要素が欠けて、ただの白い服にしか見えない。

「あ、でも最終の新幹線で来てよかったよ」

「最終? 何でだ?」

「焚き火の時間に合わせたかったんだもん。このタイミングなら紛れられるし見つかると思って。でも待ってるの寒すぎたよ! ほら、お母さんもさっさと帰ろ!」

朱里は母親の手をまた握った。

「超痩せてんじゃん……!」

「帰るのはいいんだけどね、朱里。お母さん当番になっちゃったのよ」

母の言葉に朱里はいた口が塞がらないと言った様子だった。

「朱里、俺も二日間、ここのプログラムを受けさせられたが本当にすごい。人格が変わるのも頷ける」

「そんなの白川の言ってる解凍、変革、再凍結じゃん!」

「いや、それがすごいんだよ。お前と喋ってたら急激に冷めてきたけどな。感情が過敏になると言うか、心から謝罪と感謝をしたくて仕方なくなった……」

 僕が言うや否や、朱里は肩をがっと掴んできた。

「あのね! 帰るべき日常でしょ! 感謝しなきゃいけないのも、謝んなきゃいけないものも毎日の暮らしのどっかにあるんでしょ!?」

朱里はさらに声を強めて「帰るべき日常が一番重たいの!」と言ってから「とか、偉そうに言ってたじゃん……!」と笑った。

「偉そうではないだろ。別に」

朱里は僕の言葉を無視して、今度は母の肩を掴んだ。

「お母さん! 帰るべき日常より大事なもんなんてないよ! 日常がないと何がなんだか分かんなくなるよ!」

「素晴らしい言葉だな」

 朱里がこちらをじろりと睨んだ。

「お兄ちゃん、やっぱ日常もの大事だよ。それに『洗脳の門』もまだ全部描き終わってないでしょ」

「たしかに、まだ続きだったな」

「じゃあちゃんと続き描こうよ。あれ面白いんだから。それに何かを描き始めたなら描き終えなきゃいけないんでしょ?」

「素晴らしい言葉だ」

 朱里は今度は笑って頷いた。

「そうだったな。始めたからには描き終えないといけないな」

朱里があっち、と焚き火の反対側を指差した。登山道が見えた。隠しカメラを取り付けにきたとき、朱里と登ってきた道だ。

「母さん、行こう。帰ってまず日常をやろう。ごはん当番のことはそれからでもいい!」

「まぁ絶対帰らないってこともないんだけどね」

 母が困ったように笑っている。

「なんで? そんなにここがいいの?」

 朱里が貧乏ゆすりをしながら、今にも癇癪かんしゃくを起こしそうな声を出した。

「嫌じゃないのよ? ただ私もちょっとは変わりたいっていうか、そういうのあるじゃない」

 こういうぼんやりした感覚派のところはじつに母らしく、なんだかそれが面白かった。それに共感するところもある。

「そうだな。俺も変わりたいところがある……そんな気がする」

「あんた、変わりたいなんて考えてたの? 意外ね」

「母さんの方が意外だって」

 母は少し笑って首を傾げた。先ほど抱き合った時とは表情が違う。昔こういう表情かおで笑っていたのを思い出した。

僕も母も朱里を見てから、妙に気が落ち着いている。夜中に書いたラブレターを翌日読み返したようなめ方だった。

「とにかく帰るの! 日常に戻れば大抵の物事はうまくいくんだって!」

朱里が母の背中を叩いた。

「非論理的すぎるだろ……」

「自分が言ってたんでしょ! 日常最強って」

「分かった。朱里。俺が悪かった」

 こちらが悪い気はしないが、謝った。色々とすまなかったという意を込めて。

「母さん、いったん朱里の言う通りにしてみよう」

 僕は母の手を取った。

「そうね、朱里の言う通りにしてみよっか」

母の足取りは少しずつ軽くなった。焚き火を囲む信者の咆哮ほうこうも遠くなっていく。

「お母さん、走れる?」

 朱里が少し心配そうに母を見やった。

「朱里、何言ってんのよ? 走れるわよ。もう当番フケちゃったからには、しっかり逃げ切らないと!」

 朱里と目が合い、笑った。母が帰ってきたような気がした。勘違いでなければいいなと思った。

「おい、誰か抜けたぞ!」

 後方から拡声器の声がした。

「やばい!」

僕の声を合図に三人で慌てて走り出した。すぐに母が僕と朱里より前に出た。

「あんたたちどうしたの? 若いのに!」

「お母さん速すぎ! 私、文化系だから!」

「俺も!」

 どんどん加速していく。そうだった。母は昔から足が早かった。小学校に入った年、運動会の親子リレーで他の父兄をごぼう抜きしていたんだった。あんなに誇らしいことはなかった。

母が前方で何か言って笑っている。朱里が返事をしているようだが、走りながらのせいか聞き取れない。情けないが僕がこの中で一番遅いらしい。

ふもとが見えてきた。建物の窓が宝石のように光っている。

人生にサスペンスはいらない。帰るべく日常が何より貴い。日常を目指す母の背中は、運動場で前のランナーを追い掛けているみたいだった。

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洗脳の門〜カルト宗教本部に監視カメラをつけてWEB漫画にしてみたら〜 拓郎 @takuro_QQQ

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