陸の大部分が海に沈んだ世界で海の底の旧世界から小さな宝箱を拾ってくる話

yofune

第1話

 生臭さと塩っ辛さを含んだ風が吹き上げてきて、私の髪をもみくちゃにした。

 黒のタイツを履いた膝の内側に手をまわし、ベンチの上で抱える。白い息を吐きだして、目の前に並ぶふたつの時刻表を見上げた。

 正式には、現時刻表と、元時刻表だ。

 古い方に書かれている文字を、私は読むことができない。表の書かれた看板自体、長く潮風に曝されて酷く劣化している、というのも理由の一つだが、何よりそこに書かれている文字は、今では失われつつあるものだから。

 新しい方には、現在世界中で使われている文字――シンプルで分かりやすい、曲線の少ない文字――で、「光ヶ原バス停前停泊所」と書かれている。かつてはここに船ではなく、バスが停まったのだ。古い時刻表の看板を目印にして。

 バスが廃止されたのはもう2、30年も前だという。停泊所の名前になるくらいなのだから、この元時刻表は陸の大半が海に沈み船での移動が主になるその前……60年ほども前から、ここに立ち続けているのかもしれない。

 波から逃げる人々が丘を駆け上がって来るのを、逃げ切れず波に飲み込まれて行くのを、目の前まで波が迫り来るのを……この時刻表は見たのだろうか。

 現時刻表が船を待ち、迎え、見送るのを、この元時刻表はどういう思いで眺めるのだろう……。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、聞き慣れたエンジンの音が近づいてきた。ベンチから立ち上がり、船着き場の端まで歩いて行って音のする方を見ると、一艘の小型のモーターボートがこちらに向かってきているのが見えた。

「もう来てたのか」

 慣れた操作でボートを寄せ、私を見上げながらカズトが言った。「早めに来たつもりだったんだけど」

「部活、早く終わったから」

 海は干潮、地上からボートまで、結構な高さがある。カズトが差し出してくれた手を取って、私はボートに飛び移った。

「制服じゃ寒かっただろ。これ来とけよ」

 カズトが着ていたコートを脱いで渡してくれる。下は既にウェットスーツに着替えられていた。

「本当に潜るつもりなの? もっと暖かくなってからでもいいんじゃない」

 ありがたく渡されたコートを羽織りながら尋ねると、カズトは「いいやダメだ」と首を横に振った。

「俺の人生の中で、条件ぴったりの干潮の日は限られてるからな」

 私のため息は聞こえたのか聞こえなかったのか、カズトの操縦する船は低くエンジン音を唸らせながら岸を離れた。


 沖へ出るほどに、海は透明度を増していく。

 白く泡立つ波の下、いつもよりずっと近くに、海の底の世界が見える。今とほとんど作りの違わない屋根が並び、縦横に敷かれたアスファルトの道路には横断歩道の跡がまだ残っている――波に揺すられて眠る、旧世界の残骸。

「今日はここら辺にするか」

 船が停まり、波の音が間近に聞こえる。船べりでカズトが念入りに体を動かし、手際よく海に潜る準備をするのを、わたしは積み込まれたダルマストーブにあたりながらぼーっと眺めていた。

「じゃ、留守番は頼んだぞ」

「うん。気を付けてね」

 私の言葉に親指を立てて返し、カズトは額にあげていたゴーグルをおろした。大きく息を吸い、頭の上で高く両手を合わせる。体をばねの様に縮め、勢いよく海に飛び込んだ。

 私は手をあげて顔にかかる塩辛い水しぶきを遮り、カズトの飛び込んだ先を覗き込んだ。フィンを付けた足をゆっくりと動かしながら、底へ底へと潜っていく。かつての人々の営みの墓場へと、ゆっくりと降りていく。私は水面から上がってくる冷気も忘れて、揺らぐ波の向こう、彼の目指す世界に見とれた。

 屋根に空いた穴の下から、小魚の群れが泳ぎ出てくる。海底に根を張ったような道路標識はフジツボに覆われ、もはや何を示していたものなのか判然としない。二度と車の通ることのない道路の上を、大きな魚が悠々と泳ぐ――。

 すっかり見慣れた光景ながら、ふと、妙な感慨のようなものに捕らわれることがある。

 カズトは一軒の民家にお邪魔することにしたようだ。割れてしまっているらしい窓から家の中に入り込み、私からは見えなくなってしまった。

 戻ってくるまでに、そう時間はかからない。私は海を覗き込むのをやめ、サブバッグから水筒を取り出した。蓋に、ダルマストーブの上で蒸気を上げる薬缶からお湯を注ぎ、家から持ってきたレモンシュガーを入れる。インスタントレモネードの完成だ。カズトが戻ってくる頃には、彼にちょうどよい温度になっているだろう。

 ほどなくして、カズトが海の底から上がってきた。喘ぎながら船のへりにしがみつく腕が震えている。私は慌ててカズトを引っ張り上げた。

「さみぃ……」

「それはそうでしょうよ」

 私は呆れながらダルマストーブの前にカズトを座らせ、積んであった毛布を肩にかけてやった。レモネードを渡そうとして、彼が手に何かを持っていることに気づく。木製の、宝箱の形の小物入れだ。

「それは?」

「見つけたんだ。鍵がかかっててさ」

 レモネードと交換に、小物入れを受け取る。中に水が入っていて、思ったよりも重たい。傾けると蓋の隙間から海水が流れ出た。水を流し切ると、カタン、という小さな音ともに中で何かが転がる感触があった。

「何か入ってるみたい」

「マジでお宝かな」

 レモネードを啜りながら冗談めかして言うカズトに「どうでしょうね」と肩をすくめて見せ、改めて小物入れを眺めてみる。

 津波の衝撃のためなのか、所々がへこんでいる。蓋の縁は、何か固いものでこじ開けようとしたのか、一部が捲れかけたようになっていた。振ってみると、やはりカラコロと軽い音がする。

「工具箱、取ってくれよ」

 ストーブの前で両手をすり合わせながらカズトが言った。「開けてみる」

「壊してあけるの?」

「まさか。そんなロマンのないことしないって」

 私の手渡した工具箱の中から針金の束を取り出し、カズトは何だか得意げに唇を舐めた。

「これを使う」

「無理でしょ」

「やってみなきゃわかんないだろ。ほら、それ返せって」

 私が小物入れを渡すと、カズトは本当に針金を鍵穴に突っ込み、ガチャガチャとやりはじめた。

「……無理でしょ」

「いや、案外行けそう、かも」

 そういう目は真剣そのものだ。私はやれやれとため息をつき、カズトの足元から空になった水筒の蓋を拾い上げてお湯を注いだ。息を吹きかけ一口飲むと、ほのかにレモンの香りと、甘い味がする。

 カチャ、と小さな音が聞こえた。同時に、カズトが「あ」と声を上げる。

「開いた」

「うっそお」

 思わず大きな声を上げ、カズトの手元を覗き込む。確かに、閉じていた小物入れの蓋は半ばまで開いていた。

「何が入ってた?」

「まだ見てない。……一緒に見るか?」

 私が頷くと、カズトは私にも見やすいよう箱を差し出してくれた。目を合わせ、無言でうなずき合う。カズトがゆっくりと蓋を開けるのを、おでこがくっつきそうなほど身を乗り出して覗き込む――。

「……何だこれ」

 拍子抜けしたような声を上げたのはカズトだった。

「指輪、かな」

 中に入っていたのは、プラスチックの大きな石がついたおもちゃの指輪だった。石は酷く傷んでしまっていたけれど、光を吸収し、不思議な光沢を持っている。

 宝箱のへこみ、無理やりこじ開けようとした跡……背景が想像できて、私は小さく笑いを漏らした。

「……何が面白いんだよ」

 それをどうとったものか、カズトが不機嫌そうに唇を尖らせる。私は指輪を取り上げ、赤くなりつつある太陽の光に透かした。

「きっと、鍵をなくしちゃったんだね」

 この箱の持ち主にとって、中に入れた指輪は宝物だったのだろう。大切だから鍵をかけたのに、鍵をなくしてしまって……私にも、幼い頃に似たような覚えがあった。

 指輪の主は、あの大津波を生き残ったのだろうか。……だとしても、今健在だという可能性は薄い。医療はすっかり富裕層の特権になってしまった。

「指輪は海に返してあげようよ」

「いいけど、箱は?」

「もらっちゃダメ?」

 すっかり海水に浸かってしまっているが、よくよく風にあてて乾かせば使えないこともないだろう。

「いいけど……何入れるんだ」

「アクセサリーとかかな」

「お前そういうの持ってたっけ?」

「んーん。だからさ、町に買いに行くから、カズト付き合ってよ」

「はあ?」

 カズトが素っ頓狂な声を上げる。「なんで俺が」

「私はいつも着いて来てあげてるでしょ。たまには私にも付き合ってよ」

「……仕方ねえなあ」

 大げさなくらい面倒くさそうに言って、それから、大きなくしゃみをした。「……付き合ってやるよ」

 照れくさそうに頬を掻く姿にこちらまで恥ずかしくなってしまって、私はカズトに背を向けた。

 船べりから身を乗り出し、なるべくカズトが潜っていった家が真下になるようにして指輪を落とす。波にあやされるように揺れながら、指輪はゆっくりと沈んでいった。

 背後でまたひとつ、大きなくしゃみが聞こえた。私は笑いながら振り返った。

「今日はもう懲りたでしょ」

「懲りたってことはねえよ……満足はしたからもういいけど」

「じゃあ、帰ろうか」

「おう」

 ゆっくりと船が進み始める。

 海面は茜色に輝き、海の底の町まで光が届かなくなる。一足先に夜を迎える町に向かって、私はおやすみなさいと呟いた。


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