第3話 彼女たちの記憶
紗良の大脳神経の再生治療が始まった。
凄まじい量の大脳神経細胞を増殖させ、紗良に定着させていく。これには相当な時間がかかる。
そこで取られた方法が、成長抑制処置だった。
どれだけ増殖が間に合うかわからない。何年かかるかわからない。どれだけ定着するかわからない。
その時間稼ぎのために、紗良の体の成長を鈍化させるのだ。そうやって十分な記憶ができるまで脳神経細胞を増やし、定着させる。
費用はあった。山根がかつての貢献で得ていた資産を、全てまわした。
そして、紗良が横になっているベッドのそばには常にアンが居た。
そんなある日、お見舞いに来た山根と回診中の沢口に、アンは尋ねた。
視線は紗良を見つめたままだ。彼女は全てを記録しようとしている。
「もうすぐ、紗良は17歳になります。ワタシは考えました。ワタシは紗良の記憶を持っています。紗良が物心ついてからの全てを見て聞いてきました。彼女の脳の動きもすべて完全に記録しています」
視線は紗良に向けたまま動かない。
「ですので、ワタシの記憶を彼女に移してください」
二人は目を見張った。
確かに脳細胞の連結を化学物質を使って再構成するのはできなくはないだろう。
山根のかつての非人道的な実験によってその技術は飛躍的に進歩し、会社が治験を進めようとしているのは、脳神経医師の沢口経由で聞いている。ただ、問題があった。
「アンちゃん、『記録』と『記憶』は違うのよ」
沢口が努めて穏やかに言った。
「アンちゃんが持っているモノは記録。人間である紗良ちゃんが持っているのは記憶なの」
アンの瞳が一瞬だけ暗くなった。まるで戸惑っているようだった。
山根には、アンがロボットたちの共有クラウド記録にアクセスし、解釈処理系に電力を回しているのだとわかった。
「記録とは、残すためのモノ。記憶とは、忘れてしまうことが前提」
それが、アンが自らはじき出した答えだった。
「アン、それも正しい」
山根は穏やかな表情でアンを見た。
「記録は正確に残すモノ。だが、記憶には感情が大切なんだ」
アンの瞳が再び一瞬暗くなる。
沢口が優しく語りかけた。
「アンちゃん。あなたが紗良ちゃんと初めて出逢った時、どう記録している?」
「2030年3月3日。紗良はワタシを見て動悸が高まりました。人間だろうかロボットだろうか判断しようとしたのが最初のログです」
「それじゃあ、初めて意識し始めた男の子に話しかけられた時は?」
「2039年7月13日。どのように対応するかあらゆる行動を検討した結果、ある漫画のキャラクターを参考にして対応しました」
「その時の不安や期待、嬉しい、楽しい、悲しい。アンはそれを記録できているのかな?」
アンのまばたきが増えた。
「残念ながら、わかりません」
山根が悔しさをにじませながら続けた。
「記憶はな。その時の想いが繋がっているんだよ」
紗良の寝顔を見、後悔にさいなまれる。
「記録に想いが繋がること。それが記憶だ。紗良に記録を転送できたとしてもそれは事実の羅列にしかならない」
アンは、まばたきを止めた。
「わかりました」
そして、静かに目をつむる。
「ワタシは今から全ての機能を制限して、ワタシの記録と、想定されるオモイを連携する処理を行います」
姿勢制御を最低限にしたのだろう。アンの体のあちこちがダラリとする。
「紗良が目覚めたときに、山根さまやワタシの思い出を失っていないように、全機能を使ってワタシの記録の再構成を行います」
アンの呼吸が深く早くなる。AIの過熱を防止するためだろう。
「紗良が入院し昏睡状態になった2047年10月30日より以降の再構成は不要ですから、少しは負荷が下がります。必要なのは2032年、紗良が2歳の時から昏睡直前までの記憶」
アンは閉じていた瞳を開いた。沢口を見、山根を見た。
「それでは紗良をよろしくお願いいたします」
アンは紗良をしばらく見ると、再び目を閉じた。
そして、微動だにしなくなった。
※※
山根のメンテナンスが終わった。気が付けば1時間経っていた。
あの時からアンの体に十分な電力を送るための電源ケーブルを増設した。何かの役に立つかもしれないと、クラウドへの専用回線を強化した。AIの加熱を防ぐために冷却用のベールを頭に被せた。新型のパーツが出るたびに差し替えていった。
そして――
廊下をバタバタと走る足音が響き、ドアが弾かれるように開いた。
「山根さん! 紗良ちゃんの!」
片手には小さなケーキ箱、もう片手にはクマのぬいぐるみを抱えた沢口が飛び込んできた。
「山根さん! 来ました! 脳神経細胞の十分な量の定着と、機能回復が認められました! 紗良ちゃんの! 紗良ちゃんのっ!!」
沢口の声は涙ぐんでいた。
弾かれるように立つ山根。そして、その横で衣擦れの音がした。
アンの体が再稼働を始めていた。
彼女はゆっくりと目を開くと、まず紗良の寝顔を見た。
そして、山根がかつて見た事がない表情を作った。こんな表情プログラムはしていない。
「おはようございます」
座ったまま、体の稼働状態を試すようにゆっくりと背を伸ばし始める。徐々にバランサーが息を吹き返す。
「長い夢を見ていました」
山根と沢口の方に向きなおると、アンは静かに口を開いた。
「さあ、お願いします。私の準備はできています。始めましょう」
アンの瞳は潤んでいるかのように美しかった。
それでも君が好きだよ~全て忘れていく孤独な君へ~ 筆屋 敬介 @fudeyaksk
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