第四十三話 新たなる世界⑤
乾坤一擲。
渾身の力を籠めて投擲された白い刃は、一条の閃光となってユークリッドへと迫る。
マージェリーへとその手を伸ばしていた泥の人形やユークリッドの複製達は、その閃光が通り過ぎた傍から光に吞まれて蒸発し、塵も残さず消滅した。
原初の
しかし、カルンウェナンの刃はその原初の人型をものともせず、触れた先から立ちどころに罰し、蒸発させ、消滅させていた。
「……なるほど。流石は青の至宝、原初の人型も難なく打ち払うか。……だが!」
だが、たかが最上大業物の一撃程度では、ユークリッドが斃れる筈もなし。
そもそも、彼には
――だが、それでは面白くない。それではこいつらの心を、魂を殺せない!
故に、勇者はその腕を開き……白刃の射線上にその身を晒す。
「存在の魔法を全開だ! 見届けろよ、希望の全てが潰える瞬間を!」
にやりと、ユークリッドが仮面の様な顔を歪に曲げて嗤う。
――見ていてよ、母さん。僕たちはずっと一緒だよ。僕たちの歩む世界を……僕は成就するよ。
穏やかに微笑むユークリッドに、カルンウェナンの刃が迫る。同時にユークリッドの身体は淡く透け、その存在を限りなく希薄なものに変え始めた。
乾坤一擲の一撃をすり抜け、逆転の芽を摘み取った後に……依然変わらぬ目標通りに、ノエルの首とマージェリーの手足を落とす。残った英雄も奪い、聖女も奪い、世界の全てを略奪し己が色へと塗り替える。何も変わりなく、何も淀みなく、勇者は己の世界への覇道を突き進んでいた。
……この瞬間まで、そう彼は信じていた。
「――――え」
とん、と軽い音を立てて、ユークリッドの腹に白い刃が突き刺さる。
冗談の様に、夢の様に、けれど確かに現実に。その刃は勇者の身体を刺し貫いていた。存在の魔法を拒絶して、思い通りに世界を動かす神となった彼の意思を無視して。
「────────ッッッ!!!!!」
絶叫し、慟哭し、目を剥いてユークリッドが悶える。突き刺さった白刃が強く輝き、白い一条の閃光が彼の身体を貫いた。
「何でッッ、何で何で何で何で何で……どうしてッッッ!!!??? おれは人を超越した新たな世界の神だぞッ! 確かに躱した、確かに魔法は発動した、なのになのになのにィイイ…………どうしてだァ───────ッッッ!!!!!」
どろりと、地上を埋め尽くしていた異形の兵団が悉く蕩けて失せる。天を埋め尽くす程に出現していた人型とユークリッドの群れは悉くいなくなってしまった。先程までの優勢はどこにも見られない。今や彼に残った手勢は、彼自身とビリティスだけとなっていた。
そんな彼の様子を見て……ノエルは未だ見せた事が無い程に残忍な笑みを浮かべた。
「かかか、かかかかっ! 愉快愉快、道化に染まって踊る姿は実に愉快よなユークリッド!」
彼女の嘲りは、魔王の言葉は、遍く世界へ轟き響く。
どこの世界であっても、そこが世界であるならば変わらない。魔王とはすべらからく世界を統べるべき存在として生まれるのだから。
「……ええ? どうじゃ今の気分は。カルンウェナンが己を罰した訳が解せんじゃろう。じゃが直に分かる筈よ、カルンウェナンは魔女殺しの刃じゃと、他ならぬぬし自身がそう申したのじゃからな」
血濡れた斧を担ぎ上げて、ノエルがふわりと宙に浮く。彼女の足元には、頭蓋を割られて動かなくなったビリティスの姿があった。……無論、本来概念であり肉で形を造っているだけの魔女がその程度で死ぬ筈も無いのだが。
「魔女の赦される世界、か。ようも斯様な方便を立てたものじゃの」
見えない階段を上るように、一歩一歩踏みしめる様にして、ノエルはユークリッドへと近づいていく。
「……ノエル・【ノワール】・アストライア……!」
「滅亡のレヴ、偽典のビリティス、天上のカンパネラ……うむうむ、実に懐かしい。妾の娘の様なものじゃもの、忘れる筈などあるものか」
「おれに、何をした……? おれと母さんにィ、いかな手妻を……どんな小細工を弄したッ!」
「小細工? かかっ、左様な真似には覚えが無くての。むしろ尋ねるべきはぬしの母ではないかえ?」
「………………何、だと?」
「偽典は嘘。偽りの教え。言葉と心を穢す毒。ぬしはもう少し、己の母について考えを巡らすべきじゃったの」
ぱり、とノエルの指先に、電流の様なものが走る。
「ほれ、自分の胸へと問うてみよ。己の戦う理由を、人を捨てて獣となった日のことを、新たなる世界の創世などという下らない妄想に囚われた日のことを」
魔王の指が、勇者の頭蓋を指さす。裁くように、見透かす様に。
「哀れじゃの、ビリティスの仔。これほどまでに母を想うても、ぬしに母の愛が届くことは永劫叶わぬ。そも、ぬしの母とは何ぞ」
「母さんが……何か、だと」
ユークリッドの頬から、汗がひと筋滑り落ちる。
〈ユークリッド〉
――母さんは、お前の生んだ魔女ビリティスじゃないか。何だ、さっきこいつは魔女は概念とほざいた。いいやそんな筈は無いだって母さんは小麦畑の中でおれに微笑んでくれて黄金色の海の潮騒が音楽の様におれの耳に響いて茜色の夕焼けはちりちりとおれの肌に染み入って――――――。
――あれ? でも、母さんってどんな顔だっけ? 母さんの声って、どんな声だったっけ? そもそも母さんって、いつ…………。
〈ユークリッド〉
〈ユークリッド〉
〈ユークリッドは……お母さんの為に、頑張ってくれわよね?〉
「……母さん……母さん、母さん、って――」
まっしろなこえと、まっしろなかおだけが、そこにある。
〈ユークリッド〉
――誰?
「――――ッッッッッッ、うわあああああああああああああああああああああああ─────────────ッッッッッ!!!! ああっ、あっ、あああ──────!」
だらだらと脂汗を流しながら、ユークリッドが絶叫する。
「ああっ、厭だ、厭だ厭だ厭だッ!! 嘘だ嘘だ、おれには確かに母さんがいて、殺された母さんのためにおれは今まで痛みにも苦しみにも耐えて耐えて耐えてきたのに……何で、何でェ…………おれは、おれは一体、何の為に…………!」
何度も何度も頭を掻きむしり、血走った目でユークリッドは天を睨んで声を涸らす。
それはかつて神の座まであと一歩まで迫った男の、母の夢まであと一息まで至った魔法使いの、見る影もない凋落を意味していた。
「……一体、何が……!?」
突然のユークリッドの変化に、マージェリーが上ずった声を出す。その声を耳に入れて、ノエルはつまらなさそうにふんと鼻を鳴らした。
「は、何の事もないわいの。此奴は骨の髄までビリティスの仔だったというだけの事じゃ。偽典の権能によって、幼少の記憶と人格をまるごと書き換えられた端末だった、という訳じゃの」
ぐらり、とユークリッドの身体が傾く。
先程までマージェリー達を縛り付けていた威光の様な圧力が、肺臓を満たしていた呪いの様な淀みが、音を立てる様にして崩れていくのが肌で感じ取られた。
彼の世界が、魔女の楽園が、反転したタルタロスが
「既に此奴も言うた事じゃがの。カルンウェナンは魔女を殺すものじゃ。肉であれモノであれ魂であれ――
ネブカドネザルがノエルの影の中に沈み、常闇の出城も地面に溶ける様にして失せていく。ビリティスは依然として動かず、世界の
もはや、魔王の出る幕は終わった、勝敗は既に決着の域にあるのだということを、魔王と勇者の一挙手一投足は物語っていた。
「白刃は一切の呪いを否定する。魔女の力を源とするならば、消失は必定じゃ。つまり――」
「――ユークリッドの魔法は、魔女ビリティスの力に由来してたってこと……」
「左様。ビリティスの司る力は『偽典』、万象を偽る権能じゃ」
「……ぼくの、おれの魔法が、母さんの……」
ぶし、と音を立てて、ユークリッドの手から血が噴き出す。噴き出した血は手から腕へ、腕から全身へと拡がり、彼の周りの空間も既に歪み――その歪みからは、元いた広間が覗いていた。
「偽りとは伝播する空想じゃ。本来であれば
す、とノエルが自らの後方を指し、ユークリッドの虚ろな視線が指の先へと移る。
「終わりじゃ、緑の魔法使い。ぬしの世界もその夢も、妾の刃が微塵に砕く」
「――――――――――」
そこにあったのは、英雄。否――英雄であった一塊の影と灰。
漆黒の魔力の奔流に隈なく全身を包み、しかしぞっとする程にその鼓動は静かに定まっている。ダーインスレイヴは光を全く反射する事無く、一色の「黒」として天地を縫い留める様に高く振り上げられていた。
「――我が身は祝福、或いは災禍」
掠れた、しかし聞く者の心を逃さない声色の声が響く。
まるで心臓を鷲掴みにされたかの様なぞっとする冷たさに、マージェリーは一歩たじろいだ。
――何か、恐ろしいものが来る――!
次の瞬間にクリフが何を行おうとしているのか、その正体についてマージェリーは何か知っていた訳ではない。
しかしこれまでの戦いで磨いてきた勘や生来の感応能力、一流の魔術師として磨いてきた魔力の流れを見ての判断力等から、これまでに彼女の経験した事の無い大規模な何かが起きようとしていることは容易に見て取れた。
そしてその程度のことを、最高の魔術師であり魔法使いでもあるユークリッドが見逃す筈も無い。それと同じ芸当ができる者を、かつて一人だけ知っていたのだから。
「……させ、るかァッ、英雄ッッッ!!!」
ぎろりとクリフの方を睨み、掌の先へと魔力を集める。
それはクリフとノエルにとっての天敵。聖女コーネリアの太陽の魔力。
しかし天敵となる魔力を向けられてもなお、英雄の姿勢は崩れない。
「天上の
其は、英雄の逸話の結晶。
其は、英雄を英雄たらしめる大いなる業にして力。
〈――時に英雄、水や空気を斬れるかい?〉
いつぞやのユークリッドの言葉が、クリフの脳裡を過る。
――ああ、斬れるとも。
堕ちた英雄、クリフォード・フォン・ノクチルカ。彼に斬れないものなど無い。
人であろうと水であろうと空気であろうと……それらを全て内包する、世界そのものであったとしても。
秘め置きしは、魔剣の魔技。
其は黒よりも黒く、血よりも紅く、力よりも強く、刃よりも鋭き一撃。
其は戦士の技に非ず、騎士の技に非ず、兵士の技にも非ざるもの。
即ち、英雄クリフの奥義が一刀――
「――エリ・エリ・レマ・サバクタニ」
絶技一閃。
それまで高く渦を巻いていた漆黒の瘴気がふつりと消え失せ――次の瞬間に、クリフは虚空目掛けてダーインスレイヴを振り抜いていた。
魔力は見えず、呪いも見えず、刃も届いている様には見えない。
しかしクリフが何かを斬ったと――何かを壊したという感じだけは、静かにユークリッドの世界の中で伝播し始めていた。
ひょう、と刃が風を切る鋭い音が、遅れてマージェリー達の耳へと届く。
「――――――――――――」
一秒、二秒……凍り付いた様な停滞した時が世界に流れる。その場の誰も、今立っている場所を動くことはできなかった。
――何? 外したの?
マージェリーが目だけでノエルの方を見遣る。しかしノエルの双眸には、失望や焦りというものは欠片ひと粒程も見当たらない。
「……………………ごぶっ」
ユークリッドの口元からひと筋紅が垂れたのは、その一瞬後のことだった。
びき、と何かが割れる、大きな鈍い音を立てて――空間が割れた。
びき……びき、びきびきびきびきびきびき、ばきばきばきばきばきばきばきばきばきばき…………ッッッッッ。
一度生じた亀裂が、二度と閉じる事は無い。亀裂は爆発的に大きく成長して世界のあちこちを瞬く間に駆け巡った。
亀裂が走るにつれて、硝子の様に紅い世界は剥離と崩落を始め、血や膿の如くにダーインスレイヴの呪いが傷口から噴き出す。
「が……、あっっ……………………!」
声にならない声を上げて、ユークリッドが全身から赤い血を噴き出させる。
見れば彼の全身も彼の全身と同様にズタズタに斬り刻まれており、傷口からは血と同様に赤黒い魔力が噴き出してその身を冒していた。
がくん、とユークリッドの膝が折れ、地面へと着けられる。
既に赤黒い大きな水溜りとなった彼の足元は、彼の命が最早幾許も無い事を物語っていた。
「――
にやりと、心底愉しそうに、実に満足そうに……魔王は英雄の業を見て微笑んだ。
エリ・エリ・レマ・サバクタニ。英雄クリフの持つ四つの奥義の一にして対界技術の究極。世界を裂く一撃。
切断の合理とは、対人・対物のみに留まるものに非ず。神域にまで至る業は、時に事象や世界にまでも、その対象を拡げる。斬れぬものなどどこにも無い。
意識と魔力を世界の全体にまで拡張させ、広げた魔力と超過駆動させた魔剣の呪いで世界そのものを切断する。
聖遺物――フリーデ・カレンベルクの
現実の世界であればあまりにも巨大な為、魔剣の呪いも仕手の魔力もまるで足りない。しかし心象世界であれば話は別である。
人一人分の心の広さであれば、未だユークリッド一人の心象世界に留まっているこの世界であれば――英雄の刃は届く。
既に完膚なきまでに、ユークリッドと彼の世界は破壊されていた。
「――俺はクリフ。魔王ノエルの刃として、勇者の全てを斬ると決めた者だ」
ダーインスレイヴが元に戻り、元の長剣と短剣をゆっくりと鞘へと仕舞う。
「お前の
「……見事だ、英、雄…………」
ぐらりとユークリッドの体勢が崩れ、地面へと倒れ伏す。
彼の身体が地面に着き、クリフがその刃を完全に鞘へと納めた瞬間――タルタロスは完全に砕けて消えた。
竜と魔王の英雄譚 ‐魔王と始める、勇者殺しの物語‐ 九重ミズキ @surugananagase
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