第四十二話 新たなる世界④
「――やっと見つけたよ。可愛い可愛い、おれの小鳥。愛しい愛しい魔王様」
それが当然の事である様に、前触れも無くユークリッドが二人の前に現れた。存在の魔法が遍く巡る彼の世界の中では、今や予備動作も無く意思一つで魔法を発動させることができる。
さてこそ、とノエルとマージェリーが身構えた。魔力が立ち上り、辺りに殺気が満ちる。
しかしそんな二人の様子などまるで意に介さないと言った具合に、ユークリッドは事もなげに視線を外してクリフの方を見遣った。
彼の全身がどす黒いものに変色し、異質な魔力と呪いが渦巻いているのを認めて、勇者は怪訝そうに僅かに眉を細めた。
「……なるほど、それが魔剣ダーインスレイヴか。目録の外典、既に喪われた兵器、魔界の中に在るべきもの……神となった今なら分かる。実に実に危険なものだ、ティターニアにまつわる産物か」
とんとん、とんとんとんとんとんとん。
苛立つ様に、ユークリッドはこめかみを何度も指で叩く。自分の指がこめかみを叩く度に、彼の中に在る記憶や感情が
「馴染むよ、実に馴染んでくる。この世界とおれの脳髄が、おれの意識と母さんの意識が……実に実によく馴染んできた。後は……んん……この国全体を呑み込んで捧げれば、おれと母さんはひとつになれる」
ぱちん、と指を弾くと、ユークリッドの身体が増殖し、明滅していく。
既に歌うたい達の肉と骨によって、巨大な女性らしきものの姿が形作られ、虚ろな眼窩の奥の瞳らしきものがノエルの方を見ていた。
魔女の受肉。肉と骨を得ることでこの世に干渉を始めた。原始から在る魔の鼓動。
「の、え……る」
「おう、久方ぶりじゃなビリティス。此度は随分と、見てくれの良い仕上がりになったものじゃ」
ビリティスの方を見上げて、ノエルがぞろりと牙を覗かせて嗤う。
白い手を中空へと広げると、殺気や魔力とはまた異質な気配が彼女の全身から放たれた。さながら鋼線の如くに、触れるもの全てを拒絶し傷つける強靭な気配を受けて、ビリティスの視線が僅かに細くなった。
「妾を見下ろすとは、妾に仇為すとは……何とも救い難い小娘じゃの。肉の身体が手に入って嬉しいかえ?」
ゆっくりと、魔王が虚空へと手を伸ばす。黒い魔力が立ち上り、隣にいたマージェリーの背中に氷の様な冷たさがいきなり捻じ込まれた。
それまでの戯れに満ちていたノエルの表情が、全く異質なものへと切り替わった。
「――
ずん、と強い重力が辺りに降りかかり、思わず膝を着きそうになってマージェリーがごくりと生唾を吞んだ。
ノエルの目が冷たいものになり、ユークリッドの視線がノエルの方へと移る。すぅ、と短く空気を切る音が響き、ノエルが息を吸う。
「開け、開け、血と影の門。
鉄冠の主、ノエル・【ノワール】・アストライアが命じる。扉を開け」
唱え終わると同時に、轟と地鳴りを響かせて、大地が大きく鳴動した。
ノエルの周囲にあった影から門が出現し、黒い魔力の奔流が噴き出す。黒い濁流がノエルたちを呑み込み、ユークリッドやビリティスを呑み込み――黒い渦となって天まで届く。
世界の全てを呑み込むほどの奔流は、しかし呑み込んだ相手には何か影響を及ぼしている様には見えない。
当然の結果ではあった。これは単なる影。存在のあやふやな、何の影響も及ぼさない、黒い色彩以外は何も持たない幻燈なのだから。
……しかし、それはただの影であったならの話である。ここにいるのは魔王。ここに立つのはノエル・【ノワール】・アストライア。血と影の女王にして、あらゆる呪いの頂点に君臨する存在である。
彼女の影は、異界の門。あらゆる全てを呑み込んで、あらゆる全てを支配する、【
押し寄せた影の大潮の動きが止まり、一気に引き始める。やがて黒い波を引き、世界が元へと戻り始めた時――黒く巨大な城がノエルたちの周りに出現しているのが見えた。
「――――――ッ」
つう、とユークリッドの頬を汗がひと筋流れた。ぎょっと見開かれた双眸には明らかに焦りと驚きの色が見え、僅かに息を呑む音が聞こえた。
突如出現したその城に、ユークリッドは確かに見覚えがあった。先の大戦で、ユークリッド達勇者一行は確かにその城を見ている。
「あれは……魔王城! いいや規模が小さい、差し詰め砦か!」
「――『常闇の出城』。出すのは実に二百五十年ぶりじゃが、これを憶えておるかえビリティス」
「…………お、お、お。おう、さま。の、のえ、る、さま」
魔王とその出城を認めて、ビリティスがべたべたと自分の顔を触る。何かを確かめる様に、何かを思い出す様に、或いは何かを思い出す様にして。
ずい、とビリティスの足が一歩前へと踏み出す。次いでもう一歩、魔女の足がノエルの方へと向かうのを見て、ユークリッドは鋭く叫んだ。
「待って! そっちに行っちゃダメだ母さんッ!」
「かかっ、母に顧みられず哀れな子じゃのうユークリッド。じゃが気にする事はないぞ? 魔女の魂は、その最後の一片まで……妾の所有物ゆえ」
勝ち誇る様にノエルが嗤いながら手招きすると、ビリティスの足が再び前へと動く。その様子を認めて、ユークリッドが歯を剥いて憤怒に顔を歪めた。
「ここは我が領土にして我が出城。妾の城の在る限り、其処は遍く妾の世界よ」
きん、と鋭い音が鳴り、ノエルの頭上の空間が
「――『メネ・メネ・テケル・パルシン。金の頭と銀の腕、実る果実と倒れる木。ひと時の栄華と、ひと時の覇と、ひと時の滅びを』……起きろ、『ネブカドネザル』」
魔王が謳うと同時に、錫杖を中心として魔王の黒い魔力が爆ぜた。解き放たれ撃ち出された魔力は激流となって立ち上り、一本の束となって錫杖へと収束していく。縒り合され束ねられた濃密な魔力が、斧を形作り……漆黒の両刃斧として彼女の手に携えられた。
ユークリッドの目から、余裕の色が褪せるのが見えた。
「……出したな、呪われし覇王の斧を」
「ネブカド……ネザル……?」
――何それ。さっきの刃物もそうだったけれど、ノエルの持っている武器をアタシは全く知らない!
教会が公開している情報の中に、目録と呼ばれるものがある。
それは太陽教会の管財課と奇蹟認定局が五百年かけて調査して編んだ、この世の武器や兵器にまつわる情報の全てである。
教会の所有物を含めた聖帝国の中にある武器・兵器の類は勿論のこと、青の王国の王室大正倉に所蔵されたものや魔界から出土したものに至るまで、世界の中にある奇蹟の関わる兵装の全ては目録に通されていると言ってもいい。
しかし、ノエルの用いている千子村正やネブカドネザルと呼ばれる兵装の数々を、マージェリーは全く見た事も聞いたことも無かった。
目録の全てを暗記している訳ではないとはいえ、ここまで強力な兵装であれば一度も耳にしたことが無いというのは有り得ない。
つまりこの兵装は……一度も歴史の中に登場したことの無い兵装であるということになる。
「かかかっ、盛り上がってきたのぅ。では、
ノエルがマージェリーの方を見遣り、素早く指さすと、マージェリーの前に一本の短剣が出現した。
古ぼけて薄汚れた、如何にも年代ものの短剣。
しかし冷え冷えと冴え渡るその刃筋から伝わる殺気と覇気は、マージェリーの手に握られた短剣が紛れもなく最上大業物に類するものであることを物語っていた。
「使えい、ぬしの持っておったスキールニルの代わりじゃ」
「ちょっ、いきなり渡されたって、アタシ使えないわよ!」
「問題ないわい。ぬしならすぐに使い熟そうぞ」
ぱちん、とノエルが指を弾くと、彼女の指先とマージェリーの頭に黒い電流が走った。
「…………ッッ」
びくん、とマージェリーの身体が跳ね、頭蓋の内に彼女の今まで体験したことの無い情報の濁流が一気に雪崩れ込むのを彼女は感じた。
――何これ……! 色んな記憶が、直接雪崩れ込んできて……!
知らない風景、知らない時代、知らない人物、知らない場面……それらの未知を流し込まれ、受け取った情報の全てを咀嚼し終わった時、マージェリーは大きく息を吸って、白い刃の
刃に魔力が迸り、きっと睨んだマージェリーの左目が蒼く輝く。
「『穿て、
白い魔力が爆ぜ、爆風と閃光が辺りを吹き飛ばす。びりびりと打ち震えるその手応えは、その兵装の力の強さを存分に示している。真っ白な一振りの短剣がマージェリーの手に現れた。
「カルンウェナン……魔女殺しの刃だと? 莫迦な、そんなものまで集めていたとは!」
カルンウェナン。魔女殺しの刃、
目録からは既に抹消されているが、紛れもなくその刃は最上大業物に類するものである。四百年前に散逸し、行方不明となって以降――青の王室や奇蹟認定局、赤の大公に至るまで、あらゆる人界の勢力がその消息を追っていた至宝でもある。
――成程、既に魔界へと渡っていたか。
「……………………」
驚愕の表情が、次第に落ち着いたものへと変わっていく。
カルンウェナンを魔王ノエルが持っていたという事や、マージェリーがその御し方を知っていたという事は確かに驚きだった。……驚きだった、という以上の事態ではないと彼の中で既に決着は着いた。
「けれど、戦うべき相手がアベコベじゃないかい? ネブカドネザルは世界を断つ斧、カルンウェナンは魔女を
ユークリッドの額が盛り上がり、ぱくりと割れる。割れた額からもう一つの目が開き、無色の瞳がマージェリーを睥睨した。
びきびきと音を立てて、ユグドラシルが
――魔力が、変質している……! こんな色の魔力は見た事が無い……!
ユークリッド本来の属性は、
昏い極彩色の魔力が、巨大な渦となって周囲に立ち上る。その極彩色の輝きが、その場に無数にいるユークリッド全員から放たれていることにマージェリーはすぐに勘付いた。
――術式の分散実行!
「――いざ仰げ。新たな秩序と新たな属性、
ユグドラシルが暗く輝き、重圧が辺りに満ちる。
「
ユークリッドの指が、真っすぐ天を指す。
彼の意思に応える様に天は裂けて、空間の亀裂から無数の泥の手が這い出てきている。その手と、その異質な気配を認めて、ノエルは苦々しげに一度舌打ちをした。
――始まりの泥。ヒトの原型の創造とは
その手はかつて見た誰かの手の様でもあり、或いは全く見知らぬものにも見える。
ありとあらゆる生命の情報が
「初めの
空間が鳴動し、亀裂から泥は溢れ出した。
濁流となって次元の狭間より流れ出した泥は、瞬く間に人の形を取ってマージェリーの方へと飛来する。
――どうする?
マージェリーの頬を、冷や汗が幾筋も滑り落ちる。
今ならまだ、魔術の行使は間に合う。ぎりぎり間に合う。多対一の戦闘を想定した、
――けれど、あの余裕は何? アタシの今の状態を、アイツは知ってる筈……!
はじまりの泥。はじまりの人間。神の加護を最も色濃く受けた、原初の存在。
魔術が人から生まれ、人の枠だけにある技術であるならば。失った魔法という奇蹟の真似事に過ぎないのであれば、奇蹟の総量がまるで足りない魔術が通ずる道理は無い。
――ユークリッドはここを、魔女が赦される世界と呼んだ。ならば!
「――白なる
口上と共に、マージェリーがありったけの魔力をカルンウェナンへと注ぎ込む。七色に輝く彼女の魔力を吸って、魔女殺しの刃は夜明けの如く白く強く輝いた。
――この一撃に、全て懸けるッッッ!!!
鋭く呼吸し、マージェリーが大きく肩と腰を捻ってカルンウェナンを振り被る。
「…………穿て、カルンウェナン!」
全霊の絶叫と共に、マージェリーは魔女殺しの刃をユークリッドへと振り抜いた。
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