第四十一話 新たなる世界③

「アンタを殺すわ、ユークリッド。アタシがアタシであるために、アタシの世界へ踏み出すために!」


 あまりにも真っすぐに放たれた、マージェリーの言葉。


 一瞬、ユークリッドの動きが止まる。ユークリッドも、マージェリーも、ノエルも、クリフも、世界の全てが一瞬凪いで止まる。


 しかしすぐに、世界は動き出す。マージェリーの言葉を理解して、ユークリッドの口元は笑みの形に歪んで曲がる。


「――く、ふふ、あはははは! 随分と強い言葉を使う様になったねマージェリー! 、よもやそれで――」


 す、とユークリッドが自らの杖であるユグドラシルを掲げる。


「おれを倒せるようになったと勘違いしてる訳でもあるまい?」


 ごう、と音を立てて強風が吹きつけ、マージェリーが僅かに目を細める。


 びりびりと大気を膨大な魔力が震わせ、世界に満ちるマナを一点に集めていく。


「…………」


 マージェリーが、ゆるやかに構える。いつでも動き出せるように、いつでも迎撃できるように。


 ユークリッドの魔力の増大に合わせて、彼女の魔力も増大しつつあった。


 しかし彼と彼女の実力には、天と地ほどの差がある。


「現実改変能力。自らの体内を一個の世界と為し、己が空想を外部へと具現化する力……。第二位ジジイ第四位酔っ払いだってこなせる、大して珍しくもない力さ。フリーデの秘策も高が知れている」


 空の雲が一瞬で晴れ、星空が出現する。赤い空にぽつりと一点、マージェリーの上空にだけ、濃紺の星空が現れた。


 驚愕の表情を浮かべたマージェリーが夜空を見上げ、余裕の表情を浮かべながらユークリッドが詠唱を開始する。


 歌うように、讃えるように、彼は唱え続ける。


「堕ちよ、堕ちよ、涙の如く。其は満天の群青、散りばめしは白々しらじら瞬く星の群れ。光は闇に、天は地に、水は土に、わたしはあなたに。女神の涙は彼の者に、そそいで巡れ、照らして濡らせ、仰ぎひれ伏し慈悲を知れ――」


 彼の詠唱に合わせて、出現した夜空が幾度となく瞬く。


 その輝きは全て、正確無比に彼女を指し示していた。


「遍く大地のともがらへ、土星サトゥルヌスの赦しを!」


 其は、あらゆる全てを裁き赦す土星サトゥルヌスの権能。


 星空が真昼のごとく強く輝き、夜空に散りばめられていた星々が雨の如くマージェリーへと叩きつけられる。


「こんなもの……!」


 マージェリーが掌を翳すと、彼女へと飛来した星の欠片が次々に消えていく。物理法則を無視して、世界の理を飛び越えて、世界を書き換える。


 己が空想を具現化し、世界を侵食し改変する。それが現実改変である。


 強度レベルの差を無視するならば、しかしこの能力自体はそれほど珍しいものでもない。魔術協会や太陽教会には、同じ能力を持った者は山ほどいる。


 そして、現実改変の強度レベルとは現実を改変させられる許容量キャパシティに直結するものである。無限に万能に現実を変え続けられる者は存在しない。


 ――数が、多い……!


 隕石が消えている。しかし次々と飛来する隕石の数は、マージェリーの御し切れる分を易々と越えてくる。あっという間に限界は訪れた。


 そして限界を超えた分は、そのままマージェリーの元へと降り注ぐことになる。


 重力と距離による加速を目いっぱい受けて叩きつけられる星々の群れは、衝突することで莫大なエネルギーを辺り一帯へと伝える。


 ましてそれらは魔力でできたもの。蓄えられた魔力とエネルギーは衝突と同時に爆発し、マージェリーの身体を軽々と宙に舞い上げた。


「ぐ――!」


 まるで秋の落葉の如く、マージェリーの身体が宙を舞う。


 絶えず爆発する地面に煽られて宙を舞う姿は踊っている様でもあり、ここから反撃や迎撃などできる筈も無い。


 余りにも圧倒的な優劣の差はもはや戦闘と呼ぶことすらできない。表現するなら、それは一方的な蹂躙と呼ぶべきだ。


 ――妙だな、随分と抵抗が弱い。見かけ倒しか?


 呆気なく地面へと倒れ伏したマージェリーを見て、ユークリッドが僅かに訝る。


 この現実改変能力は、恐らくフリーデが最後に託した切り札だ。


 エヴァの遺灰を預かっていたのがフリーデであったこと、フリーデがマージェリーと最も長い間一緒にいて全ての秘密を知っていること、マージェリーと最後に会ったのが彼女であったこと等から、自分が起こす世界の顕在化と似通った何かをしてくることは容易に想像できた。


 フリーデが己の企みを知って、手をこまねいて見ているだけとは思えなかった。それ故に、ユークリッドはフリーデの直接起こす行為に最大限の注意を払っていた。結果として、フリーデが直接手を下して彼を攻撃することは無いまま、フリーデはマージェリーに殺された。


 その為、彼が次に考えるべきはの可能性だった。即ち、フリーデがマージェリーに何かを施し、ユークリッドを殺せるよう細工を施した可能性である。


 しかして読みは当たっていた。しかし、その手ごたえが随分とあっさりしたものである事を、肩透かしを食った様な心持になったことを、彼は訝しんでいた。


 ぱん。


 ユークリッドが手を叩くと、倒れたマージェリーの身体が彼の足元へと瞬時に移動する。【存在ウーシア】の魔法は、この世界でも依然として健在だ。


「忘れて貰っちゃ困るんだけど、おれは最高の魔術師でもあるんだぜ? 第七位おまえ程度がどれほど小細工を弄したところで、勝てる筈などないことは分かっているだろうに」


 素早く、ユークリッドがマージェリーへとユグドラシルを突き付ける。先端に魔力が集まり、マージェリーがごくりと生唾を呑み込んだ。


 狩られる獣が一瞬見せる、怯えと諦めがそこにはあった。


 即ち、この戦闘における一つの決着が間もなく見られるということでもある。


「集え、荊で編まれし偽りの王冠。祈り、赦し、嘆きの聖者にひと時の慰めを」


 其は、耐えがたき罪を負う者の荊。頭を垂れ伏して許しを乞わせる罪の王冠。


 マージェリーの頭上より、光の十字架が無数に降り注ぐ。


 轟音を立てて十字架は次々に彼女の身体へと突き立てられ、腕という腕、足という足を叩き潰し裁断した。


 派手に血が噴き出し、マージェリーが白目を剥く。


「…………っ!」


 悪夢にうなされる様にがくがくと痙攣し、マージェリーの目が急速に光を喪っていく。


 萎びた植物のごとく力を喪った彼女の胴体を見下ろしながら、ユークリッドはこつこつと杖の先で地面を叩いた。


 杖の音に、彼女の瞼は全く反応を見せない。


「悪いが、こちらもなりふり構ってられなくてね。君には何としても、おれの世界の礎になって貰うよ」


 生きているかを確認する為に、ユークリッドがユグドラシルでマージェリーの頭を小突く。……否、


 しかし、結論から言うと、ユークリッドの思惑は外れた。……行為そのものが成り立たなかった。


 するりと、ユグドラシルがマージェリーの頭をすり抜ける。幽霊の様に、現象の様に、


「な――!」


 ぎり、とユークリッドが歯噛みする。その目は大きく見開かれ、いつもの胡散臭い表情ではなく、明白な驚愕の表情に塗り替わっていた。


「馬鹿な……! ?」


 さっと、ユークリッドが辺りを見渡す。


 三人の姿はどこにも無い。クリフも、ノエルも、マージェリーも、ユークリッドの見える範囲にはどこにも見当たらなかった。


 ――なるほど。妙に手ごたえが無いと思ったら、まんまと出し抜かれていたという訳か……!


「……分かった、認めて訂正しよう。全く大した能力だよ、よもや神を欺くとはね」


 ちっ、と舌打ちして、ユークリッドがゆっくりと瞼を閉じる。彼の意識は爆発的に拡がって世界全体へと意識を張り巡らせていく。


 そこに何が存在しているのか、どのくらいの強度で存在しているのか……侮りを捨てて対処すれば、彼は世界の果てまでも余さずることができる。


「ここはおれの世界。逃げ場があるとは思うなよ」


 程なくして、彼は三人を見付ける。




「……どうやら、上手くいったみたいね」


 ユークリッドから遠く離れた場所にある、とある墓標の群れの陰。


 びっしょりとかいた額の汗を拭いながら、マージェリーは墓石にもたれ掛かって大きく息を吐き出した。


 傍らには、ノエルとクリフの首と胴体が転がっている。その内ノエルの首だけがごろんとマージェリーの方を向いて、にっと笑った。


「かかっ、咄嗟の判断にしては上手く逃げ果せたものじゃの。誉めて遣わすぞ」


「そりゃどうも。アンタらが死んだらアタシもお終いだからね」


 ノエルの首へと手を伸ばしながら、マージェリーが返答する。持ち上げたそれを胴体へ着けると、くちゃくちゃと湿った音を立てて肉や神経が繋がっていく。程なくして皮膚まで綺麗に繋がり切ると、ノエルはゆっくりとぎこちなく立ち上がった。


「今ごろ、アイツは偽のアタシと大立ち回りの最中でしょうね。大した時間は稼げないけど、今のうちに体勢を立て直しましょう」


「うむ、それが良いじゃろうな。してマージェリーよ」


「うん?」


「如何な手妻で妾とそこな狼を搔っ攫ったのじゃ? 中々に鮮やかな手口じゃったが」


「……大したことはやってないわよ。結界内の時間を停止させて、ユークリッドの周りの現実をちょっとばかし弄っただけよ」


「……ほう? いかにして?」


アタシは此処にいるSono qui

 本物と寸分違わないアタシのをあそこに置いてきたわ、あそこで啖呵を切った時点でね。

 ここは新しい世界だもの、まだしっかりと秩序の定まっていない赤子の様なカオスよ。そのくらいは罷り通るわ」


「かかかっ! やはり、ぬしは妾の見込んだ娘よ!」


 愉快そうに嗤いながら、ノエルが自分の身体を動かしていく。まずは指、そして腕と肩、足の先まで動作を確認して、彼女は満足そうに一度頷く。


 ぱちん。


 ノエルが指を鳴らすと、クリフの瞼がぴくりと動いた。夢から覚める時の様に、ゆっくりと彼の瞼も開いていく。


 クリフは既に魔王の眷属。主のノエルが生きている限り、クリフが完全に死ぬことは難しい。そしてノエルが万全の状態となれば、クリフが蘇生することは容易くできる。


「初めてぬしと会った日は……そうさなぁ、きんきん煩い割には随分と頼りない小娘だと思ったものよ」


「言うわねチンチクリンだった癖に」


「じゃが、最早ぬしは小娘とは呼べんの。強い意思と信念を持ち、いかに強大なる障害があろうとも歩みを止めぬ


 ず、と音を立てて、ノエルの影が大きく広がる。


 彼女の全身から魔力が迸り、墓標の影から突き出た無数の門が音を立てて開き始めた。その門には、そしてこの術式には、マージェリーも確かに見覚えがある。


 ――これは……エヴァと戦った時に見た、ノエルの術式……!


 マージェリーの頬を、冷や汗がひと筋滑り落ちる。


 出会ったばかりの頃の童女ではない。エヴァと戦った時の少女でもない。


 成人となった彼女は、正真正銘の魔王である。近付くだけで窒息してしまいそうな、濃密で邪悪な呪いと瘴気が、彼女の全身から迸っていた。


「魔王……これが、魔王ノエルの姿なのね」


「かかか、しかと目に焼き付けよ。これがぬしの仕える、王の姿じゃ」


 ノエルが歩くたびに、辺りの大地は黒く穢れていく。


 しかしその足は地面そのものには着けられていない。僅かに浮遊するその身体は、重力などこの世界にありはしないと謳うばかりに堂々とした足取りで進んでいた。


 ――飛行……いや、マナの気配がする。これはもしかして……魔法?


 マージェリーの勘繰りなどまるで意に介さずに、ノエルは言葉を紡ぐ。


「妾は蟲を好かぬが、ぬしの様な人間は中々好きじゃ。だから今初めて、妾はぬしと共に戦うことを望む。成り行きでも命令でもなく、妾自身の意思で、マージェリー・ミケルセンに共闘を願い出よう。やってくれるな?」


「――ええ。魔王ノエル、そしてクリフ。アタシは、アンタ達と一緒に戦うわ。ここで必ず、ユークリッドを斃す!」


「かかか、当然よ。……それで、、狼よ」


「ああ、問題ない。随分と手間を掛けたな」


 不意に後ろから声がして、驚いたマージェリーが振り返る。


 そこには一人の戦士が立っていた。烏の様な黒い髪、乾いた色の瞳、薄く焼けた傷だらけの肌、そして血の様に紅い甲冑を纏った身体。その手には黒く長大な剣が一振り握られており、ノエルのそれによく似た黒い瘴気を放っていた。


 ――これが、クリフなの……?


 クリフの目は、マージェリーの知っている彼の目とは大きく異なっていた。


 乾ききった、色の褪せ切った、無感動で光の無い瞳。


 命を殺して、殺して、殺して殺して殺し尽くした果てに獲得するであろう、ただ殺すだけの刃となった者の瞳。


 思えばこれが初めてだな、とマージェリーは考えた。クリフの本気で戦っている姿を、命の奪い合いの中で戦っているクリフの目を彼女が目撃するのはこれが初めてだった。


「クリフ……」


 生唾を呑み込んだマージェリーの方を見つめて、クリフが僅かに微笑む。


 その微笑みの瞬間だけ、彼の目は彼女の知っているそれへと戻った。


「お前にばかり良い格好はさせてやれないな。――ここにいる全員へ見せてやらないとな」


 クリフのダーインスレイヴから、黒い魔力が一気に迸る。


 ダーインスレイヴの解放と共に、クリフの全身を黒い何かが侵食し始めた。


 クリフとノエル。至高の王と孤高の刃。この二人よりも邪悪なものはなく、この二人に勝る者もまた、三千世界のどこにもいはしないだろう。その時マージェリーには、確かにそう思えた。


 この世界へと引き込まれた時と同じように、クリフがノエルとマージェリーの方をそれぞれ交互に見遣る。


「ノエル」


「おうさ」


「マージェリー」


「何かしら」


「……時間を稼いでくれ、五分でいい。


「これから、どうする気?」


 恐る恐る、マージェリーがクリフへと尋ねる。


 これから、勝負を決める。


 それはつまり、ユークリッドとの戦いに終止符を打つ手段を、彼が持っているということである。一撃必殺の奥の手が、まだ英雄にはある。



「これから、。ユークリッドの妄執を、勇者の幻想を、俺は今から打ち砕く」


 返答は短く、そこに嘘偽りは見られない。


 クリフがダーインスレイヴを振りかざすと、それまで無尽蔵に迸っていた黒い瘴気がふっと消える。


 その刀身は一回り長くなり、余分な部分を削ぎ落す様に細く変化した。


 細く厚みのない剃刀の様な刀身は、とても人が斬れる様には見えない。


 しかしクリフの目には、全く迷いや弱さは見られない。確実に斬る、壊すことができるという絶対的な自信が、彼の全身にはあった。


 クリフの周りから、それまでとは全く異なる異質な赤黒い瘴気が立ち上る。


〈――時に英雄、君は水や空気を斬れるかい?〉


 ユークリッドの言葉が、クリフの脳裏を過る。


 その問いに対するクリフの答えは、今まさに示されようとしていた。


「――エリ・エリ・レマ・サバクタニ」


 短く、鋭く、覇気を込めて、英雄はその技の名を言葉にする。


 其は、英雄の持つ必中必殺の技。英雄の伝説を彩る四つの奥義。


 彼はこれより、世界の全てを壊そうとしていた。

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