一杯の珈琲と私

鈴ノ木 鈴ノ子

いっぱいのコーヒーとわたし

 晩秋の肌寒さを纏った秋風が寂れた街中を駆け抜けてゆく。

東京の郊外というのにシャッター通りと化した商店街を、当てもなくとぼとぼと私は歩いていた。数時間前、私は命懸けで身を粉にして働いてきた仕事を退職させられたのだ。入ってきたうら若い女子達が有る事無い事を、ソリの合わなかった上司に告げ口し、ろくに調べることもなく、一方的に断罪された。同僚たちは上司に立ち向かってくれたものの結果は変わることはなかった。


夕暮れ時となって陽が落ちてくる。見上げれば建物に挟まれた空に残る明るさに薄暗いグラデーションがゆっくりと忍び寄ってゆく。その空はまるで今日一日の私を表しているようだった。再び歩みを進めていくと、少し先に風化した色合いの看板が目に入った。

 色褪せた珈琲カップにスティック砂糖とスプーンの絵は、どこか懐かしさと優しい温もりを感じさせる。引き寄せられるかのように、店の入り口の古びた木の扉を開けていた。


「いらっしゃいませ」


 カップを磨きながらカウンターに立つマスターが頭を軽く下げた。年齢からして私より若いだろうに、妙に貫禄があり昭和を感じさせる店内に違和感なく馴染んでいる。どこかで見たことがあるような気もしたが、それが何処か思い出せない。でも、なにか引っかかって、心の琴線に触れたような、そんな気持ちになった。


「お好きな席へどうぞ」


カウンターとテーブル席が2つだけの小さな店内、壁にかけられた絵や飾られたカップや小物類は綺麗に磨かれている。いつもなら広いテーブル席に腰掛けるのに、何故かマスターの彼と向かい合うようにカウンターの椅子へと腰を下ろしていた。


「こちらがメニューになります」


 バリスタスタイルの彼が差し出してきたメニューを受け取って一息つく。メニュー表は暖かみを感じさせる檜と思われる木の板に、丁寧に文字を掘り込んだ凝った作りであった。

 上から順に目を走らせてゆくと、その途中で気になる商品名を見つけた。


井底珈琲・・・・・480円


井底とは文字通り井戸の底と言う意味だろうか、まるで今の自分のようでピッタリだなと苦笑してしまう。


「井底珈琲をお願いします」


「畏まりました」


 私を見ながらゆっくりと頷いた彼は伝票に注文を書き込むと、身を屈めてカウンター下からジャムの大瓶のような容器を取り出した。

 瓶の中には水と黒い炭のようなものが入っていて、彼はその水のみをコーヒーポットへゆっくり注いでいく。店内を照らす光がその流れにきらきらと反射し、まるで清流の澄んだ水をみているかのようだった。


「気になりますか?実は井戸水なんですよ」


私の視線を感じてだろうか、彼はそういながらポットをガスコンロの火に掛けた。


「井戸水ですか?」


 東京の井戸水と聞いて無知な私は思わず不安な物言いをすると、彼は和かに笑いながら保健所の飲食店許可証の横にある都の水質試験表を指差した。


「ええ、深い深い井戸を掘らないとこの武蔵野台地では綺麗な水は湧きませんが、ウチには祖父が作った深い井戸がありましてね。もちろん、水質試験も受けて飲料用として何も問題ないです。黒いのは炭で浸けておくと水の味が良くなるんですよ」


そう言って彼が瓶を優しく振ると、中の炭がコンコンと響きよく鳴った。


「ごめんなさい、失礼なことを言ってしまって・・・」


「いえいえ、気にしないでください、でも、この水は長い年月をかけて地中をたどって磨かれて研ぎ澄まされてきたもので、それで淹れた珈琲はとても魅力的な味わいなんですよ」


「そうなの?」


「ええ、まあ、言い回しは祖父の受け売りなんですけどね、でも、味は保証します」


「それは楽しみにしてます」


陶器でできたドリッパーにフィルターをつけてから、ところどころ錆びた缶より珈琲豆を計量スプーンで3杯ほど年代物と思われる手動のコーヒーミルへと入れ、そして使い古されて色の剥げた取手をゆっくりと回し始めた。ゴリゴリと豆を削る特有の音と共に、薄くだけれど香ばしい珈琲豆の香りがあたりに漂ってゆく。


「今日は仕事でこの辺りにこられたんですか?」


じっと見入っていた私になにかを感じ取ったのか、彼は気を遣ったように聞いてきた。


「仕事がなくなっちゃったから、来た感じかな」


 いつもならそんなこと絶対にないというのに、ごまかすことなく、自然に口をついて出てしまっていた。


「なくなっちゃった・・・ですか?」


「ええ、何年と勤めてきた会社だったんだけどね、色々あって・・・。今までの頑張ってきたことが全て無になってしまったの。帰りがけに全く知らない路線の切符を買って電車に飛び乗って、気がついたらこの近くの駅で降りてたの。」


最後は俯いてそう言いいながら、卓上にいつの間にか用意されていた水に口をつけた。

 通勤で使う路線でなく、気にも留めずにいれた金額から武蔵野線のこのあたりを選んだ。尽くしてきたものを失うことが、こんなにも簡単で儚いことなんだろうと考えながら・・・、仕事一筋に生きてきたと自負できるほどに時間を費やし、プロジェクトも何件もこなして、成功も失敗も、苦労も挫折も、様々なことを味わってきた。本当に恵まれたことばかりと思いながらの毎日が、最も簡単で、最も馬鹿げた結末で終わってしまったことが、なんとも情けない話だと自分自身を嘲笑いながら電車に揺られていたのだった。


「無になんてなってないと思いますよ」


真剣な声で彼はそう言うと回していたミルを止めた。それを聞いて顔を上げた私に視線を合わせてじっと見つめてくる。


「そうかな?」


「僕はそう思います、それに費やした時間も、それに努力した時間も、それに掛けた時間も、そのほかの全てのことも、無になることはありませんよ。結果がいかなるものであったとしても、お客さんが頑張ってきたことに変わりはないと思います」


「でも、ほら、結果は失ったわけだし。結果がすべてともいうでしょ?結果はダメだったのよ」


 八つ当たりみたいなことを言いながら、しかし、どこからともなく彼なら何かしら言ってくれるかもしれないと、何故だかそんな淡い期待を抱いていた。


「結果が全てなら、じゃあ、リトライしてみませんか?」


「えっと…リトライ?チャレンジじゃなくて?」


「ええ、リトライです」


彼はそう短く言ってから再びミルを回して挽き始めたので、その意味を私はしばらく押し黙って考えてみた。


「私にリトライできることなんてあるのかな?」


結局、思い浮かばずにそう聞くと、彼がゆっくりと口を開いた。


「ありますよ」


ミルを弾き終わり、粉砕した珈琲豆を篩にかけた彼が、入り口のドア横見つめたので、つられるように視線を向けると、入り口の看板を真似た、少し色褪せた従業員募集の張り紙があった。


「ここでリトライしてみませんか?」


「え!?ここで?」


驚いた声をあげた私を尻目に、ドリッパーへ篩われた粉を入れた彼が、優しい火加減で沸いたコーヒーポットの曲線滑らかな取手を持って、ドリッパーへと少しだけお湯を垂らして留めた。珈琲の香りが花開いて蒸らしが終わると、注ぎ口をゆっくり、ゆっくり、赤子を撫でるかのように優しく回しながら、徐々にポットを傾けて湯を注いでゆく。


漂う香りが私の気持ちを少しだけ緩ませた。


「武蔵野ロックフェス、覚えてます?」


唐突に彼がそんなことを口にした。


「え・・・?覚えてるけど・・・」


数年前、私が精魂尽き果てるまで頑張って、皆と作り上げて成功した最大のイベントだった。いつのときも色褪せることなくて、小さいことまで思い出せてしまう感慨深いイベントであった。


「あのとき、アルバイトの学生に抱きついてキスしたでしょ」


「あ…」


 すぐに思い出して顔が真っ赤に熱った。

 フィナーレを迎えた直後に感情の昂りから、私は常にイベントを共にしてきたアルバイトで想いを寄せていた大学生に抱きついてキスした…のだった。そして、打ち上げ後の翌朝、彼の部屋から逃げるように去ったことも…。

 


「覚えてくれていてよかった」


目の前にマイセンのカップに入った淹れたての珈琲が置かれ、彼が和かに微笑んで真っ赤な顔をして固まっている私を見つめた。


「こんなタイミングで卑怯ですけど、よければあの時からのリトライをしてみませんか?」


お互いに想いには気づいていた。結局、私が歳の差などの理由をつけて逃げたけれど…。でも、それは忘却されることのなく、心の井底でたゆたうようにしていたようだった。そして愛しさの籠る言葉によって想いはゆっくりと確かに浮かび上がってくる。


それは、純粋で、綺麗な、穢れることのない想い。


「リトライ…してみようかな」


真っ赤な顔をしたまま、私は俯いて珈琲に口をつける。


「ありがとう」


彼はそう言って満遍の笑みを浮かべている。それを見て私はさらに顔を赤らめた。朝の出来事を蹴飛ばすほどの、元気な幸せの足音が聞こえる気さえするほどだ。


一杯の珈琲は、台地の恵みと、幸せの恵みを含ませて、私の喉元を優しく通り過ぎていった。

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