呼ぶ女たち

【※注意:冒頭にエッセンシャルワーカー様への配慮に欠けた表現を含みます。】



 わたしは自分が何をしたくて、何ができるのか、ずっとわからずにいた。摂食障害に浸り、情熱を忘れてしまっていたわたしは、高校2年の頃から大学を卒業するまで・・・いや、正直に言おう。この2021年の夏まで、岸辺の見えない、浅いのか深いのかも分からない、得体のしれない場所にただ浮いて、途方に暮れていた。コロナ禍?人に会えない?演奏会ができない? 碌でもないわたしの心に影響など微塵もなかった。ただ、世間がこの未曾有の危機にあまりにも賑やかなので、--わたしにはそれらの事がどうしても他人事としか思えず、いよいよ仕事が無い事を口実に長野の山奥に逃げた。ただ自然に触れたかった。けれど逃げた先にもやはり人はいて、その場所で嬉々と生きる人々と時間をともにする事は果たして苦痛となり、わたしはさらに深く逃げた。自然は究極に然としてそこに在り続け呼吸をしており、わたしになど見向きもしない。その放り出された場所に包まれることで唯一、自分の存在を認めることができるのだと感じていた。


 もうひとつ、浅はかなわたしを白状する。わたしは漫画『ブッダ』(1972年 手塚治虫)のナラダッタが畜生道におち、けだものとして生き、自然のままに死んで行く姿に最上の輝きを感じていた。人間も地球が生み出したであろう自然に生きる動物の一種であるはずなのに、なぜ人だけがこんなに反発してしまうのか、自然に相反するものとして感じてしまうのだろう。木々や草花、水や風はただ時の流るるままに身を置いている。老いて朽ちることも、他者の命となることも拒まない。その中で織り成される色彩や、たしかな長い年月によって生まれる年輪の美しさたるや、その有り様は人間などが到底及べるはずが無いのだ。わたしも、このまま人知れぬ山中でひっそりと土に還ることができればどれほど幸せだろう。そう考えていた。たしかにそう考え山奥深くにまで足を伸ばしてはいたものの、人の世に翻弄され自分自身がどこに在るのかも分からないわたしに自然然となる物腰などあるはずもなく、安全に散策を終え帰宅したのだからまさに失笑ものである。「人間が・・・」などと言いつつ、その‘人間’に当てはまる者はわたしただ一人だった。


 わたしは、きっと、自分が素直に柔らかく生きられる場所を探していた。人の評価や視線などに見向くことなく裸で在れる場所を、ずっと、ずっと探していた。その場所を与えてくれたのが母であり、気づかせてくれたのが、この演奏会にて大役を担ってくれた、我が友人達だった。


 わたしから見た友人達に共通する事は、みなが自分の在るがままに生きているという事だ。みなが、(愚かなわたしのように)人から逃げず、その流るるままに起こる出来事を正面から、あるいは斜向かいから、あるいは背中越しに受け入れる。如何なる苦汁を嘗めようと、その中に喜びを抱き生を噛み締めて生きる彼女たちの姿は、わたしには自然と同様に眩しく美しく映えていた。(世に生きる全ての人々がそうであると、今では信じている。)彼女たちを見ていると、人間も自然の一部なのだと強く確信する。世を見つめ共存する彼女たちは、時には獅子のように、時には狼のように、時には蜂のようにそこに佇んでいる。そんな彼女たちがわたしに訊いた。


「本当にやりたい事はなに?」


彼女たちだから、わたしはきっと自分に答えを出せた。


「えろい歌が歌いたい」


(何度思い返してみても言葉足らずな発言であった。)


 気高く研ぎ澄まされたクラシックの世界。洗練された芸術は人知れず、ふとした瞬間に人心を動かす。知識とお金がかかる、旧態的なお堅い世界・・・? 否。美しさと煌びやかさ、そしてその礼儀正しさに塗られた表層の奥底には、人間の欲望が見果てぬほどうごめいている。密やかにしめやかに香る色。そして、社会に生きる人間はどんな身分であろうとも、どんな時代であろうとも、何も変わらないのだと。これがヒトという生きものなのだと饒舌に語りかけてくる。人間臭く泥臭い、あらゆる煩悩が詰め込まれた官能表現の錬磨。それがわたしにとってのクラシック音楽だ。人間がまだ今よりも自然に近く生きていた頃から、何も変わらない。ヒトは自然の一部だ。そのヒトが生み出すものが、どうして自然ではないと言えるだろう。その果てに亡びがあるからこそ輝きは増す。朽ちない生物はいないのだから。今も人間は、自然そのものだ。


 鬱々とフワフワとしたわたしがどうして肉声の可能性から離れられなかったのかは未だ分からない。ただ、身近にいる彼女たちの話す声はいつも心地よかった。すさみきったわたしの存在を許してくれていた。作曲家が遺した生の情熱が、楽譜という手紙となってわたしに生きることを示してくれた。わたしにとって生きることは官能そのものなのだと気づかせた。

 そうやって、眩しい彼女らがわたしの中にずっと眠っていた本能に近い何かを呼び起こしたのだ。耳や目を通して脳にやさしく触れてくる彼女らのつくる世界は、わたしの本能を可視化し、極上の見世物として形づくり彩り織り成していく。わたしが想い描く可能性、その傍にこの女たちが必ず居て欲しい。

 ひとりはあらゆる情景を瞳に彩り綴じるアートディレクターとして。ひとりは朝に輝き深夜に瞬き人々を繋ぐキュレーターとして。ひとりは絢爛豪華・絶対的女王歌手として。そして、ひとりは穏やかな波の浜辺で綻ぶ撫子のような伴奏者として。

 わたし達はこれからも内にあるモノを滲ませては爆ぜさせるだろう。音楽はとても儚く、鳴ってものの2秒で彼方へ消える。同じ音は二度鳴らぬ。文字も絵も、見るたび読むたびその文様を変えてゆく。それを受け取る者達も、それを存在させる時世も、耐えず変わり続けているからだ。そこに命が拍動する限り、わたし達は舞台に躍り出る。それが見えなくなったとしても、私たちは虚無に笑い、あらゆる歩幅で歩み続けるのだろう。取るに足らぬ世の中で、もがき足掻き苦しみ、大いに笑ってやろうじゃないか。



この世は全て 滑稽だ


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公演にあたり 珠子 @02alba

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