モーツァルトに寄す

「生くることは、官能そのものである」


 モーツァルトがわたしにもたらしてくれたもの。それは、「生きている」ただそれだけのことがどれほどに尊い事か、という気づきだった。


 わたしは自身初となる自発的な演奏会の題材に、全編モーツァルトで通すプログラムでゆく事を決めた。考えるまでもなく、まるで呼吸をするのと同じくらい自然なこととしてそう決めた。ただ、彼の素晴らしさをどう伝えようかと考えてみると、わたしはモーツァルトその人についてあまりにも無知であることに気がついた。


 わたしの中のモーツァルトのイメージというのは、またもありきたりで申し訳ないが映画『アマデウス』(1984)で描かれた人物像そのままである。「おなら」だの「おしり」だの「おっぱい」だの(・・・書いていて呆れてしまった)で言葉遊びをしては愛を語り、誰の目を気にするでもなく宮殿内を飛び回り、音楽があれば飛びついて、思いつくまま旋律を紡いではケタケタ笑う。映画内で語り手でもあるアントニオ・サリエリの作った曲を彼が「これじゃつまらない」と顔をしかめ、フィガロのアリア〈もう飛ぶまいぞ、この蝶々〉に昇華させた描写には目を見張った。自分の目の前で自分の作った曲を(しかも皇帝陛下の御前で!)揶揄されたと感じたサリエリは、モーツァルトに嫉妬し怒り心頭というところなのだが(それはそうだ)、当のモーツァルト本人はというと、嫌味たらしさなど微塵も無い。彼は愚かなほど真っ直ぐに、「こうした方がもっとおもしろい!」と言っているだけなのだ。わたしは、音楽とともに在る彼の頭の中はきっといつも、陽に照らされて瑞々しく笑う朝露のようにキラキラと煌めいているんだと瞳を滲ませたものだ。

 少しずつ大人になり、社会を知り、結婚をし、子供をもうけ、自分の衝動だけではどうにもならない事に苦悩する時でさえ、彼は真っ直ぐだった。正直に笑い正直に悩み、正直に怯え絶望する。(「大人になり」という表現は些か誤解があるかもしれない。)そしてモーツァルトは死の間際、病床に倒れながらも絶筆となるレクイエム(鎮魂歌)を作曲するのだが、隣でその手伝いをするサリエリのなんとも言えぬ双眸の輝き。あんなにもモーツァルトに嫉妬したサリエリでさえも、モーツァルトという人間を音楽を傍で感じれば感じるほど、貴族社会において誇りを持って生きてきた自分が本当に求めていた光にあてられ、喜びに打ち震えているようだった。どこでも誰にでも光をそそぎ、そしてみなが彼を好きになる。モーツァルトは、そう、道端にぽつんと咲いては無邪気に微笑んで春を告げる、すみれのような人なのだと思った。

*(スミレの花そのものにもいろんな不思議や独特の生態があり、それらも含めてモーツァルトのようだと感じているのだが、ここでは割愛する。)


 さあ、ここまで立派に彼のことを書いてはみたものの、これはあくまで映画『アマデウス』内のモーツァルトの話である。かの映画も相当な研究のもと制作されていることは明らかなのだが、映画という性質上幾分の創作が含まれている。そして伝記やドキュメンタリーというほかの誰かが描いたモーツァルトでも無く、わたしがさわれる生身の彼を探したい。その為にわたしたちはやはり、彼の遺した楽曲たちと向き合うことでそれを知り得て行くしか無いのだ。それが生身の彼に触れられる唯一最大の手段だと確信さえしている。何故なら、楽譜こそがモーツァルトの呼吸の産物であり、彼が演奏家に託した唯一のコミュニケーションツールなのだから。


 彼の譜面をメゾ・ソプラノであるわたしが読むとき、まずはどんな言葉遣いが成されているのか歌詞を眺める。イタリア語やドイツ語に造詣が深いわけでは無いので学術的や慣習的な話はできないが、それでもそれぞれ単語の音が持つ要素(口を尖らせて発音するのか、やわらかく発音するのか等、その単語を発語するためにどんな力が必要とされるのか)がかなり雄弁にその言葉たちの心情を語ってくれているので大きなヒントとしている。そうして五線譜に書かれた音符の連なりを一つの線として、その線の上に言葉たちを置いて発話してみる。するとどうだろう、''外国語''であるイタリア語やドイツ語が、外国人であるわたしの口から感情を伴って現れるのだ。もう少し正確に言うと、どの言葉が大切で、どの言葉が緩和であるのかが何と無く分かるようになる。ようやく音をつけて歌ってみる。何度も何度もそれを繰り返すたびに新たな気づきを得るので、モーツァルトの音楽の懐の深さ、あるいは彼が描く人間の業の深さにわたしは嘆息するしかなくなってしまう。


 と、この場でわたしが彼と向き合うための手段をいくら書いてみせ彼の素晴らしさを語ろうとも、全てはわたし達が織る演奏そのものに真価が現れ、そして問われるべきだろう。彼が描いた音楽が、なぜここまで人々に愛され、紡がれ続けているのか。なぜわたし達は彼に夢中になってしまうのか。一般的にイメージされるモーツァルト作品の「かわいい」「きれい」「たのしい」というその裏側、あるいはその果てしない奥底に在る彼の真髄に少しでも迫り、触れることができれば本望だ。

 彼の全てを知り尽そうなどとは思わない。全て知ってしまってはつまらないだろう。視界は明瞭であるより、曇っていた方が選択肢は多いのだから。そしてその豊かさはあらゆる奇跡を孕んでいる。わたしはわたしの生を以ってして、彼と触れ合い、時には戯れてみようと思う。



生きることはくるしいか かなしいか つまらないか

ならばそれをしかと 瞳に刻め

傷つきよごれた肌こそ、天上のうつくしさ



2021年 霜月 モーツァルトに寄す

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