公演にあたり
珠子
母へ 今日に至るまで
「恥の多い生涯を送ってきました」
太宰治が自らの半生をそう語り始めたように、わたしという人間の29年を振り返ると、太宰とは意味合い、というか深さが全く比べるまでもなく違いつつも、その深淵に小指の爪先だけ触れる程度には、シンパシーを感じてしまう。が、あらかじめ言っておく。今のわたしは十分に救われている。
中学3年。そろそろ自分の進路を考えなければ・・・という時に、その年の夏に全国合唱コンクールでピアノ伴奏に奮起していたわたしはどうしてもそのことが忘れられなかった。「あんなに(夏だけ)頑張った音楽を捨てたくない。でもピアノ自体はそこまで大好きというわけでもない。どちらかというと歌う方が好きだな」などと文字通り能天気に考え、その時わたしが自分の人生に対し安易に出した答えは「歌をやりたい!舞台に立ちたい!わからんけどミュージカル?やりたい!」だった。
その後、「どんな歌をやるにしても、まずは声楽を習いなさい」という音楽教師でもある母に先生を紹介してもらい、県内の高校に通いつつ毎週土曜日はレッスンに通う日々が始まった。しかし、何の気なしにただ始めただけの声楽レッスン。そんな突然人が変わったように本気になれるはずもなく、「ただ人生においてなんかの糧にはなっている気がする」という曖昧な気分だけで通い続けた。そんな折、母と観に行った映画『マンマ・ミーア!』(2009)。今思えば、これがわたしが人生を音楽に捧げたいと思うようになるきっかけだったかもしれない。
ありきたりで、つまらない? かもしれない。けれど、16歳のわたしは、銀幕の中で縦横無尽に歌い踊り語るメリル・ストリープとクリスティーン・バランスキーの比類無き確かな姿に何度もふるえ、夢中になった。かっこいい!なんだこのおばさんたち!!!そして主人公役の一人であるアマンダ・セイフロイド。キュートで知的な娘ちゃんかと思いきや、恋人とのデュエットのえろいことえろいこと。彼女たちの熱にそれはもうとことん侵されたわたしは心の中で決心した。
「わたしは絶対舞台に立つ人間になるのだ。」
さて、自分がやりたいことをやる生活を歩ませてもらっているはずの高校生活。そうは言ってもやはり声楽のレッスンに身は入らなかった。だって、まじで、つまらなかったから。自分の声を良いとも思わなかった。何スカ表現って(阿呆顔)だった。誤解のないように記したい。それは声楽の先生(以後N先生)が悪かったという意味では全くなく、単純にわたしという人間が、N先生の音楽への深い愛情を感じ取れるほどのアンテナも触覚も何も持たない人間だったからである。ただただ朗らかな先生のこの上ない優しさに甘えて、言われたことだけとりあえず淡白にこなしていたのだ。褒められる術は知っているつもりだったから。
そんな淡白な日々、突然だが、わたしは摂食障害になった。高校生活そのものに、すごく落胆していた。尊敬する姉がとても楽しそうに過ごしていた姿に憧れて、同じ高校への入学を決めたが、当然姉と同じ学校生活・同じクラスメイト・同じ先生・同じ友人がいるわけではない。物心ついた時から何かしらの行事には頭を真っ赤にして取り組んできたわたしは、この高校生活に漂う「大人と子供の境目に訪れるクール期。不器用すぎる達観ぶり」にどうしてもついていけなかった。N先生の深い愛情にすら気が付けないわたしが、同い年の人間が何に本気になり、何を思って生きているかということなど、想像が及ぶはずもなかった。周りの人間は皆つまらない奴らだと独りよがりに決めつけていた。そう、摂食障害以前に高二病を発症していた。
中学で陸上(中距離走)に燃えたわたしは、高校で吹奏楽部に入り体型が変化することを断崖絶壁に立っているかのように恐れ、毎朝登校前にランニングをし、食事制限をした。それ自体が苦だったわけではない。朝だけの空気や走った後に地面に寝転んでするストレッチは気持ちがよく、本当に飽きずに毎日続けていた。太りたくないがために。
高校1年生で行われた冬の持久走大会で、ちんたら走る女生徒たちに対し「こいつらなんかに負けてられるか」と謎の闘志を燃やし、わたしは女子全体で2位になった(流石に陸上部の優秀選手には勝てなかった)。その日だった。体型変化に怯え続ける毎日、勝手に期待して勝手に落胆した高校生活、将来のためのはずがなんのために通っているのか半分以上わからなかった声楽のレッスン。この1年間のそれら全てが重なり混ざり合い、わたしの中で何かが弾けトんでしまった。大会が終わり帰宅した後、家にあった洋菓子を全て食い尽くした。あんなに食べることを避けていた甘味を。ただただ無心に、手を止めることはなかった。それを見ていた祖母が明らかに引いていたのもよく覚えている。
その時から、わたしは食べる事への欲望を止めることができなくなった。でも心は全くと言って良いほどついて来なかった。食べてしまう自分が本当に本当に本当に嫌で、ある日、ついに吐き出した。吐き出したら、すごく楽になった。身体が軽くなり、罪悪感も消えた。こうしてわたしは過食と嘔吐を繰り返す摂食障害になった。
母は、こんなわたしの姿を知り何を言ったかというと、何も言わなかった。
「そうなんだ。」
以上であった。わたしは母が悲しんだり、怒ったりすると思った。なぜなら、摂食障害は‘‘愛情を与えられていない子供がなりやすい’’とどこの誰が書いたかも分からないネット情報を鵜呑みにしていたからだ。愛情なんていうまでもなく存分に浴びて育ったわたしだ。それだけは間違いないと確信していた。なのに、こんなことを母が知ったらきっと悲しむ。そう思っていた。
母はそのたった5文字の言葉を言ったきりで、わたしはその後の高校三年間も過食嘔吐を繰り返し続けた。毎日吐いては泣いていた。(吐くと自然と涙が出るので、それにつられて感情も昂り泣いてしまっていた。)
少し症状が落ち着いていたある日、わたしがふと「普通に食べられるご飯が、すごく美味しく感じる」とこぼした事がある。すると母はとても穏やかにこう言った。
「それって、摂食障害にならないとわからんことじゃったね」
こんな自分は絶対に嫌だ。まさにこの高校3年間は暗黒期だと思い込んでいたわたしにとって、その言葉は厚手の毛布のように、あるいは春の陽気のようにわたしを包んだ。どれだけわたしの心を軽くしたことだろう。おそらく、今でもその言葉はわたしを包んでくれている。わたしは、この摂食障害と人生を共にすることになっても良いのかもしれないと思った。
そうして、いよいよ大学へと進学する年になった。摂食障害は治らなかった。環境が変われば何か変わるかもしれないと期待した東京でも、障害はわたしに付きまとい続けた。やはりそれで泣いたこともあったが、なんとかギリギリ常人の生活を送っているフリをしていた。その時師事していた先生に障害のことを打ち明けると「感受性が豊かなのねえ」と深く穏やかなお声で言われたことを覚えている。けれど、わたしは何も変わらなかった。何も変わらなさすぎて、大学を卒業する頃には摂食障害のことを忘れていた。お酒の味を知ったことも理由としてかなり大きいだろうが、気が付けば普通にご飯を食べ消化する毎日を送っていた。しかしこの事がわたしの音楽生活に光明を見出したのかと言うとそういうわけでもなかった。
浪人までして音大に行ったものの、在学時のわたしは何に対しても本気になれなかった。正確には、本気になることを忘れてしまっていた。歌に対しても「上手いってなんだ?」「演じるってなんだ?」「歌うってなんなんだ?」と、その存在意義にいつも疑問符を浮かべていた。その果てに優秀な歌手たちに対し「どうせお偉いさんとつながりがある人間だけが優遇されるんだ。本当の意味であいつらが‘上手い’と言えるのか?」とまで思い至ったことは情けなくもとても自然なことだった。摂食の障害は消えども、恐ろしいことに高二病的精神は未だ治らないままだった。当時あんなに蔑んでいた「本気になれない奴ら」に、わたし自身がなっていたのだから。しかも自覚が無いのだから相当悪質である。
在学中にオペラへの微かな情熱を見出したわたしは大学を卒業してからも「歌を続けたい。オペラをやりたい」という気持ちだけやはり何と無く持ち続けていた。本気になれもしないくせに「いずれ必ずプロとして歌うんだ」という謎の確信だけは持っていたので、本当にどうしようもなく中途半端な精神状態でバイトとレッスンを繰り返す日々を送っていた。率直に言って舐めすぎである。わたしが己を完全に解放できるのは、酒の偉大さに自らを浸し、あたかも自分までもが偉大になった気になっているときだけだった。それでも根本にある中途半端は変わるはずもないので、そこでも本当に随分と恥をかいた。わたしを苛めたい時はこの類の話をすることを勧めるほどに。(今までに一度も嘘をついた事がない人だけが石を投げると良いだろう。)
基本的に放任主義な我が母は、わたしがどんな精神状態に陥ってようともそのことについて言及することは一度もなかった。そして、去年のある春の日だったと思う。母から一本の連絡が入った。
「地元であーちゃんを紹介する演奏会をやりたい」
突然の登場人物に戸惑われたかもしれないが、「あーちゃん」とはわたしの子供の頃からの愛称である。今までわたしがどこでどんな活動をしていようと興味すら示さなかった(ように思えた)母から、乱暴に言うと「あんたのリサイタルをやれ」と言う注文が入った。確かに、年齢的にリサイタルを行うことは慣習的にも妥当なところがあるかもしれない。けれど、どこまでも中途半端なわたしがリサイタル?無理だ。無理!そう答えはすぐに出ていた。けれど、わたしの人生においていつもすぐそばにいてくれた母にそんな答えだけを返すはずもなく、正直に伝えた。
「今のわたしがリサイタルって、できない。『わたしこんな風に歌えるよどないやねーん』みたいな演奏会をしてしまう。で、今のわたしがやりたいことって自分のリサイタルじゃなくて、オペラなんだよね・・・だから、オペラやって良い?」
オペラなら、中途半端なわたしでも本当にやりたいと思えることを演奏会として成り立たせることができるかもしれないと感じ、恐る恐るそう尋ねた。それを聞いた母が何を思ったのかはわからない。けれど、良いよと二つ返事で承諾してくれた。そこから今回の企画が始まることになるのだが、その続きはまた別項に認めたい。
予定より長くなってしまったが、ここまで記して母に対して今一度思うことは、どこまでも深く長い息でわたしを見守り続けてくれている辛抱強さにある。「辛抱強さ」と言うと苦しいことを我慢しているように聞こえてしまうかもしれないが、決してそうではない。母は母で、とても自由に生きている。自由気ままな人生のなかで、母独特の人生観の元でただわたしという娘を見ているのだと思う。そのことで随分と辛い思いをさせたこともあったはずだ。けれど、いまも母はわたしのする事なす事に何も言わず、ただただ自由に泳がせてくれている。母とは得てしてそういうものなのだろうか?いや、そんな話は蛇足だろう。とにかく、そんな母の姿は未熟なわたし個人の目で見ればとても「我慢強く」「辛抱強い」人として刻まれていたのだ。
まだまだ短い29年しか生きていないが、本当に恥の多い人生だった。これからもきっとそうなのだろう。けれど、どんなわたしであれ決して見捨てず、自分からは特に近寄らないけれどわたしが近寄ればいつでもそこに居てくれた母の存在が、今のわたしをつくったということは最早言うも憚られる事実である。母へ、ここを区切りとするわけでは勿論ないが、やはりきちんと言葉として一度伝えたい。伝わりきらないけれど。
本当にありがとう。大好き。
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