第56話 天壊の女帝と、抱きつかれた男<18>
「じゃあな、時乃。立派な《祓う者》になってくれよ」
「ふぇっ? は、はい」
「あの日の俺みたいに、困っている人を見つけたら助けてやってくれ。あのゲームの主人公みたいに悪い妖を倒して、この街の平和を守ってくれ……なんてな」
「勇貴さん……? 急にどうしたんですか? 何でそんな、最後のお別れみたいなことを……」
彼女の勘が鋭いのか、勇貴の感情が声に乗ってしまったせいなのか、時乃は異変を察して聞き返す。
「その通りだよ。ここで……お別れだ。今日の勝負の結果に関わらず、初めからそうするつもりだった。部外者の俺がいつまでも《祓う者》の一族の周りをうろつくわけにはいかない。……時乃のそばにいることもな」
「えっ……? どうして……そんなことを言うんですか? そんなの、ウソですよね……?」
「天阪 時乃は本当の自分の居場所を取り戻すことができた。もう俺の……かりそめの居場所の役目は終わったんだよ」
「かりそめの居場所……? かりそめ、って何ですか? 勇貴さんは勇貴さんです、かりそめも偽物もありません!」
「……」
「あの日、私は《先祖返り》を起こした勇貴さんを助けました。だけど……助けられたのは私だって同じなんです! あの日、勇貴さんに救われたんです! どうして役目は終わったなんて言うんですか!? 勇貴さんはもう、私みたいな子供の相手はしたくなくなったんですかっ!」
勇貴の背中に向けられる時乃の訴えは、次第に涙声に変わっていった。
(時乃、頼むから泣かないでくれ……。俺は、お前が悲しむ姿を見たくなかったから……今まで意地を張って戦ってきたんだよ……!)
「勇貴さんは……私のことが嫌いになったんですか……?」
(……!!)
「そんなわけないだろ!」
思わずその場で振り向くと、こちらを見上げる小柄な少女と目が合う。
その瞳には光るものが溢れていた。
それは《祓う者》の少女と出会った日の夜、彼女が見せた涙とは違う意味を持つものではあるが……それでも、勇貴が再び時乃を泣かせてしまった事実に変わりはなかった。
「時乃……この俺が、嫌いな人間や無関心な相手のために命がけで戦うような、そんな正義の人に見えるか?」
勇貴は
「勇貴さん、それって……」
「ふっ、見えないなッ!」
そう答えたのは窓際に立っている晴だった。
「いや、お前に聞いてないんだが」
「そうですね。このおじさんのことですから、きっと私のかわいい妹に下心を持っているに違いありません」
「ちょ、弦羽さん!? お母さんの前でそういう冗談はやめて!」
「御早さん」
「えっ? あ、はい……」
玉座を思わせる立派な椅子に座ったまま、女帝は静かに口を開いた。
「一つ、私の頼みを聞いてもらえませんか」
「え……頼み、ですか?」
「はい。私は……母親としては失格と言っていい人間です。一方であなたと過ごした時乃は、短い時間で人間的にも《祓う者》としても大きく成長しました」
「それは時乃さんが頑張っただけです。自分は何もしていませんよ」
「いいえ、人は良くも悪くも出会った人間の影響を受けていくものです。きっと、あなたといることが時乃にとっていい影響を与えたのでしょう」
「買いかぶり過ぎですよ。それに……それを言うなら、時乃さんがこんなに優しい子に育ったのは路日さんの影響じゃないですか。師匠としては少し厳し過ぎたのかもしれませんが……あなたが母親失格なんて自分には思えません」
「御早さん……父親のいないこの子の親代わりになってくれ、などとは言いません。ですが、今まで通り時乃と遊んでやってはくれませんか」
「!? しかし、それは!」
「御早さん、ちょっといいですか」
いつの間にか弦羽がすぐそばに立って、その顔を近づけてきた。
「何だよ」
「母が他人に頭を下げるなんて滅多にないことですよ。ここは素直に引き受けておくのが得策かと。下手に断れば……プライドを傷つけられたババアが逆恨みをして、月のない夜に復讐に現れるかもしれませんよ。露出狂みたいな服を着て」
「妙な脅しをするな!」
「それに、天阪家当主の頼みを断った男として噂が広まると、《祓う者》の一族の間で悪い意味で有名人になりますよ」
「……この部屋にいるのは俺たちだけだぞ、誰が噂を広げるんだよ」
「私と晴くんでしょうか」
「うむ、任せろッ!」
「やめろっ!」
「勇貴さん、あの……」
遠慮がちに名前を呼ぶ声に振り向くと、小柄な少女が潤んだ目で勇貴を見つめていた。
(うっ……)
「私からもお願いします。勇貴さんの隣に、私の居場所をください……!」
御早 勇貴という人物は世間体を気にする、面倒ごとへの関わりを極力避けてきた――
命の恩人の《祓う者》の少女が勇貴に向けてくれる感情。
それは彼女の姉が指摘したように、吊り橋効果によって生まれた幻想に過ぎず……遠くない未来に覚める可能性は否定できない。
あるいは、先ほどの母親の言葉にあったように
いずれにしろ、身の程知らずにも勇貴が少女に抱いてしまった感情とは異なる性質のものだろう。
その両者の認識のズレはいつか深い溝となって、今この場での別れよりも辛い思いを互いにする結果になるのではないか。
そんな疑念が、かつて彼を悩ませた黒い力のように脳内で激しく渦巻くが――
「俺の隣なんて年中空席だからな、そんな顔でお願いしなくてもいいんだよ。……時乃がそうしたいなら、好きなだけ俺のそばにいてくれ」
目に涙を浮かべたまま勇貴の言葉を待つ少女――天阪 時乃の願いを断ることは、もはや彼にはできないことだった。
「……っ!! 勇貴さんっ!」
その言葉を聞いた時乃は、勇貴に駆け寄りそのまま抱きついてきた。
「うぉい、時乃っ!? お母さんが見ている前でそれはまずいだろ! いや、見ていないところならいいわけじゃないけど!」
「フッ、御早さんにならお義母さんと呼ばれることを許可してもいいですよ。その内、本当にそうなるかもしれませんからね」
「なっ!? いりませんよ、そんな許可は! って、おい! 弦羽っ!?」
「いえ……御早さんの隣は年中空いているとのことだったので、ついでに背中側に立ってみました。私にも何か美味しい物を奢ってくれてもいいですよ?」
「何だそれっ!?」
「ふっ、これにて一件落着だな!」
◇◇◇
噴水広場のベンチに腰掛けて、勇貴は空を見上げた。
今の季節の日没時刻は午後七時頃だっただろうか。まだまだ空は明るい。
仕事を終えた後、早足でこの待ち合わせの場所までやって来たが、少々急ぎ過ぎたかもしれない。
視線を足元に向けてぼんやりしていると、不意に声をかけられる。
「お兄さんは少し、疲れているみたいですね」
「!」
顔を上げると、紺色の学生服に身を包んだ亜麻色の髪の少女が勇貴の顔を覗き込むように立っていた。
「でも、大丈夫です。私と一緒に美味しいご飯を食べて、いっぱいお話したら……きっと元気になると思いますよ!」
そう言って少女は嬉しそうに微笑む。
「時乃。何やってんだ、お前は」
「えへへー、久しぶりに勇貴さんと晩ご飯をご一緒できて嬉しいです!」
(路日さんが《祓う者》の一族の集まりで出張、弦羽も晴の姉と出かけていると言っていたか)
「しかし、制服姿の時乃を連れてこんな街中を堂々と歩くのは……さすがに抵抗があるな」
「何を言っているんですか、勇貴さんと私はお母さん公認の仲なんですよ」
「いや、そういう話じゃなかっただろ!? 事実を捻じ曲げるな!」
ベンチから立ち上がり、改めて時乃の様子を確認する。
背中に通学用のリュックを背負っているのはあの日と同じだが、その肩に掛かっていた霊剣は見当たらなかった。
「最近は学校に霊剣を持って行かないのか?」
「あ、はい。お母さんが持って行かなくてもいい、って。……実は少し恥ずかしかったので、よかったです」
「そうか。……じゃあ、行くか?」
「はい!」
駅の方へ向かって勇貴が足を進めると、時乃も隣について歩き出す。
剣道部でもない時乃が常に竹刀袋を持って登下校して、それを職員室で預かることを許されている――
そのことは奇異な目で見られて、他とは違う者、群れからはみ出した者を遠ざけようとする集団心理が働く一因にはなるかもしれないが……それだけが彼女が学校にも居場所がない、と言ったことの大元と言うわけでもないだろう。
それでも、あの母親が考えを改めてくれたことは時乃にとってはいい兆候のはずだ。
(これで、時乃に同い年の友達でもできてくれるといいんだが。もし、俺がこの子の同級生だったら……いや、俺みたいな野郎と時乃お嬢様がこんな風に並んで歩くような親しい関係になれたとは思えないな)
考え事をしながら歩いていると、隣を行く小柄な少女がおねだりでもするように、左手の甲を勇貴の右手へ何度も当ててきた。
(おいおい……こんなに明るい時間から、意外と大胆なお嬢様だな……。いや、違う! 妙な勘違いをするな、俺! 今のは偶然当たっただけ――)
周囲の景色へ視線を向ける少女の横顔からはその真意を伺うことはできないが、彼の右手への無言のアタックは続いている。
(……そういうことなのか、本当に?)
意を決して彼女のその手を握ってやると――
「あっ……!」
照れ笑いを浮かべた時乃が勇貴の顔を見上げながら、その手を強く握り返してきた。
(うっ、かわいい……)
正直な気持ちが身体の内側から溢れ出ると同時に、こんなところを知り合いに見られたら……いつもの御早 勇貴らしい、
「勇貴さん、勇貴さん! 私、『すこやか』に行きたいです!」
「……よし、行くか!」
しかし、握った手から伝わる彼女のぬくもりを感じながら、嬉しそうに笑う天阪 時乃に見つめられると……そんな考えもどこかへ消えていった。
つかれた男と、つかれた少女 水岳 @mizutake
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