第30話 【最終話】はなむけ

 繁王朝最後の皇帝、繁旼鳥はんぶんちょうが退位を宣言して八十一年目のこの日、彼が遙か西の地で没したとの報が入った。

 享年八十八歳

 晴れた日、自宅の庭に植えられた栗の木の根元に置いた籐椅子に座り、眠るようにったという。

 テレビのニュースが当時七歳だった彼が退位を宣言した、音質の悪いラジオ放送を流した後、彼の在りし日の写真を背景にニュースキャスターが、さまざまなことを話している。

 退位は正当なものだったとか、その後の国の発展であるとか、異国の地にあって彼は幸せだったと思われるとか、そういったことを。

 かつての統治者を国から追い出し、以降死ぬまで、政治的に必要のある時を除いては一歩たりとも祖国の土を踏ませなかったことに恥じるところがないと信じるのならば、なにもそんな言い訳がましいことを言わずとも良いのに、と思いつつ、聞くともなしに聞いていた。

 革命においては、天命を失った者は鳳家のように鏖殺おうさつされることも多かった。

 もっと穏便な方法としては、古い王朝の血胤をちいさなゆう邑主ゆうしゅに就けて、そこで飼い殺しにすることもあった。これなど落としどころとして情のあるほうだ。

 繁旼鳥は当時七歳。幼いとは言え、帝だった者だ。

『帝旼鳥より禅譲をうけて共和国憲法国家になった我々は、繁家に敬意を表し、そこにお移りいただいたのだ』とでも言っておけば良いのに。

 このニュースキャスターの説明など、自分たちに後ろめたいことがあると告白しているようなものだ。多弁が過ぎて馬脚を現す典型だろう。

 キャスターの背景に掲げられた写真には、栗の木の下で、ずいぶん皺深くなった顔で笑う旼鳥と、その子ら、孫、ひ孫たち、彼らの姻族も併せて総勢三十四名がなかよく映っていた。

 旼鳥の奥方は西の国の人で、ずいぶん早くに亡くなったと聞いている。

 写真の栗の木が、かつて私が彼に渡したステッキだということは、一目見て分かった。

 栗の木の枝のなかに、明らかに栗の木の枝ではない枝が混じっている。

 枝の一群れは、杏だ。可愛らしい花と香り、そして実が楽しめる。

 別の一群れは金木犀。こちらはおもに香りだ。汎砂を思い出させる花でもある。

 春と秋に咲く故郷の花を組み合わせ『一本の木でみっつ楽しめるように』地祇ちぎのちからを吹き込んだあのステッキだが、うまく育ったと見える。

 繁旼鳥の一族とともに、西の地に根付いた大樹。

 ニュースキャスターはきっと、あの写真の背景に映っている木が、本来なら接ぎ木できないような木が接がれている、ずいぶん変な木であることに気づいていないだろう。

 この国には九年をひとつの区切りと考える習わしがあり、八十一は九年が九回巡ってくる数字にあたる。

 次の王朝を待って地方に散った書史たちも三代目となり、血統が絶えた家、跡目を継ぐ子がいない家、生活のために都市に移り住んだ家も出始めた。

 書巻の管理は年々、難しくなってきている。

 さまざまに思うことがあり、私は彼らに書状を送り、返事を求めた。

 そして今日、その最後の返事が届いたところだった。

 今日のこの日に繁旼鳥の亡くなった報せを聞くのも、なにかの縁だろう。

「すべて稀梢きしょうさまの御心のままに」

 ほかの返書と同じく、最後の返書にもそうしたためられていた。

 そう、八十一年。

 そろそろ荷を下ろすときだ。

 みなも、私も。


『鳳王朝中期の経済と文化』首都大学出版会

 私は以前書店で購入した本の奥付を見て、封筒に作者の研究室の宛名をしたため、用意してあった地図と必要な情報を記した文書を封入し、書留料金を含めた切手を貼った。

 文書を書くのに用いた書体は、略字体も使わず、今風の書体と比べるとずいぶん古めかしい自覚があるが、まあ、彼女なら大丈夫だろう。

 彼女なら、私が生まれて習い覚えた鳳王朝時代の書体でも読めそうな気がするが、そこまで意地悪はしていない。使ったのは繁王朝中期の書体だ。まあ、鳳王朝研究者の彼女の研究分野でないだけ、こちらの書体の方が意地悪かもしれない。

 私とてべつに好き好んで意地悪をしているわけではない。

 読むのは普通に読めはするが、いざ自分で書くとなると、近年の略字体やら言い回しやらは苦手だった。

「これを郵便局に持って行けば、終わりだ」

 いまのところその予定はないが、いつか地祇ちぎの縁者のくべき地で汎砂はんさに再会できたなら、私の決断の理由を説明しよう。

 そう思う。


 かつて、天命を承けた者がこの地をあまねく支配した。

 栄枯盛衰があった。

 我々はその時々の王朝に間借りして、帝の言葉に耳を澄まして天の声を聞こうとしていたが、私はいつのころからか、それはなにかが違うのではないかと思うようにもなった。

 そう、松柏しょうはくも言っていたではないか。

わたしは天命を知らぬ。帝となって二十二年、吾はいちども天の声を聞かなんだ」

 と。

 だが、彼女は間違いなく帝であったのだ。

 私は今でも確信している。

 あのとき、あの国で、彼女以外に天命の者はいなかった。

 だが、彼女に聞こえぬ天の声なら、私はなにを見て、なにを聞き、なにに『天』を感じていたのだろう?


 そう、人だ。

 私は帝の治世の言葉を通し、人の世の揺らぎを見て、聞いて、私はそこに『天』の所在を感じていたのだ。


 言い換えよう。

 天命は、人の営みのうちにある。

 人の求める声を聞くちからを持った者がちょうを開き、国を繁栄させ、その耳を塞いだ者が朝を閉ざす。

 松柏は天の声を聞かなかったと言っていたが、天下の安寧を求める人々の声……それを確かに聞いていた。そしてその声の求めることを、みずからの使命としていた。

 旼鳥が朝を閉ざしたのだけはおそらくすこし理由が違う。

 彼はその幼い耳で専制国家とは違う国の在り方を模索する人の声を聞いていたのかもしれない。

 彼は天命にしたがって、朝を閉ざしたのだ。

 いつの世も、天命は巷間にあった。

 人は揺らぎ、みずからの声を聞き届けてくれる、そんな世界を探している。

 地祇や河伯と結んだ一族が域を治めていた世が、『天命の者が治める世』に代わったのは、おそらく『より広い世界がひとつの国土となった方が都合が良い』、そう考え始めた人々の望みがあったからだろう。

 いま、王朝が倒れて新しく開かれないのは、人々がそれを望んだからだ。

 『議会』に人を送るような……そんな時代をこの国の人々が求めたからだ。

 世界は変容したようでいて、本質はなにも違っていない。

 『天』はつねに、そこにある。

 だからいま、私は『人』に、彼らのこれまでの歴史を手渡そう。

 『天』に届けるために記した、人々の足跡を。

 そう、決めた。


 ひとつきののち、私は空港に立っていた。

 時間がかかったのは国外に出るのに旅券やらなにやらの準備が整わなかったためだ。

 千七百年生きている私には、公的な身分証明はなにもない。

 書額堂があったころは、時々の王朝の官僚としての身分があり、このたぐいの苦労はなかったのだが、いまの国の制度のなかに私の居場所はなかった。

 ほうぼうに尋ね、うまくいかず、蛇の道は蛇、と法外な料金を取るクリーニング屋に相談したら、五日で旅券を作ってくれた。

 これまたなかなか値の張る話だったが、その値打ちはある。

「なにかで足がつきましたか? お戻りになったときには、またご贔屓に」

 と、相変わらず愛想のない店員が言っていた。

 失敬な。足が付くような始末などせぬ、と言い返したかったが馬鹿馬鹿しくなってやめておいた。

 どうせ彼女の生きているうちには、この国には戻らないだろう。

 もちろん、この国には我が鳳家の廟がある。廟の片隅には汎砂の衣装も祀ってあるゆえ、いつかは必ず戻ってくる。いや、戻ってこなければならない。

 私の父母が、松柏が、そして汎砂が見たこともなかった地平を目に収めて。

 時折、舞い戻って彼らに見たものを語って聞かせる……そんな余生も悪くはない。

 母は終始微笑んで聞いてくれるだろうし、父と松柏は身を乗り出して耳を傾けてくれることだろう。汎砂は……どうだろうか。珍しい文物の話になると、黙々と書き留めている姿しか思い浮かばぬのだが。


 カウンターで手続きを済ませ、崑崙こんろん行きの小型機の搭乗時間を待っている。

 いちどは切ってみたものの髪の短いのはどうにも収まりが悪く、こちらは腰のあたりまで伸ばしてうなじで括っているが、衣装のほうは時々、西方風も着るようにしていた。

 ちかごろは道行く人々の衣装はほとんどが西方風だ。とくに都会では。

 ようやく板に付いてきたスーツのポケットのなかには、古い鍵がひとつ。

 鳳極城ほうきょくじょうにあった青峰殿せいほうでん書額堂しょがくどうの古い書庫を開くための鍵だ。

 父の持ち物のはずだったが、令尹れいいんが私のためにと取っていてくれたひつのなかに紛れ込んでいた。

 もはやどこの扉も開けぬ鍵だが、この鍵に触れると、十五の折のあの胸の震えを思い出す。

 違う意見を持ち、おのおの信ずるところにしたがいみずからの足跡を記した、いにしえの王朝の書巻……自分のいる場所とは違う、『世界』とそこに息づく『人々』に触れたあのときのことを。

 どこの扉も開けぬ鍵で、あたらしい『世界』を開いてみよう、ふとそう思い立ったのはいつだったか。

 いちど見てみたかった地平……いにしえには西戎せいじゅうと呼ばれた騎馬民族の故郷、崑崙の山々の麓を目に収めたあと、繁旼鳥の終焉の地に向かい、彼の墓に花のひとつも手向けるつもりだった。一般公開はされていないだろうが、上手くやればあの私の木工細工の育った姿……栗の木に再会できるかも知れない。

 そこから別の大陸に渡り、その文物を味わい、その地の人々と交わってみるつもりだ。

 世界は、広い。

 たぶんいま私が想像しているよりもずっと。


 不意に電光掲示板が、速報を流しはじめた。

 待合室のテレビのニュースのヘッドラインにもおなじ情報が流れる。

『歴史的快挙。首都大学教授、苑汀香えんていか氏、各地の廟で我が国の各王朝の歴史を記す大量の書巻を発見』

 彼女が松柏の娘と同じ名前をしていたのも、縁というものだな。

 私はもうこれで千七百年もそれを守ってきたのだ。

 人がどこに向かうのか、人ならざる私には分からないが、人の道を歩む者たちに、これまでの人の歩みを記したそれをはなむけとして贈ろう――

 ニュースの映像が切り替わり、以前、会ったときより二十数年分、歳を取った彼女が映し出される。

『正直、これだけの書巻を自分一人で研究し尽くすことは不可能です。けれどもこの国にはたくさんの研究者がいます。もちろん未来にもいるでしょう。ですから、私たちの使命は、この書巻に遺された過去の人々の声に耳を澄まし、これを未来の人々が研究できるように保存に努めることだと思います』

 ああ、信じているのだね、あなたも。

 自分の遺志を継いでくれる者が、この世界のどこかにいることを。

 我知らず、口の端に笑みがこぼれる。

 ――あとはよろしく頼むよ。


 搭乗開始時間を告げるアナウンスの声を聞きながら、私はなおも臨時ニュースを流し続けるテレビ画面に背を向けた。

 私のゆくてには、果てなき蒼穹と、無辺の大地が広がっている。

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