第29話 地下一階

 気がつくと、朝になっていた。

 私は眠る必要はない身だが、意識が途切れる時間というのはたまにある。

 眠っているわけではないと思う。すこしの物音でもあれば、すぐにそちらに注意を向けられる。

 手持ち無沙汰の時間。

 ずっと気を張り続けるのは、さすがに疲れることではあるし、そもそも休息が不要だと思えばあえて休もうとは思わないので、無意識のうちに『休む』ようになっているのかもしれない。

 昨夜の雨はいつの間にか止んで、雨に洗われた清涼な風がきらめいている。

 ――汎砂はんさは戻ってこなかったか。

 今日、正午に繁王朝皇帝、繁旼鳥はんぶんちょうによる、退位の宣言が出るはずだった。

 それをもって、繁王朝は終焉を迎える。

 我々はそれまでにこの皇宮を後にしなければならない。

 我らはいまやこの皇宮に一台しかないトラックに書巻を積み、つぎの王朝が興るそのときまで隠しておく、その作業を進めていた。昨日の朝に発った汎砂は昨夜のうちに戻ってくる予定だった。

 そして最後の便として、いま、私の目の前にある書巻の山と、最後まで皇宮に残った私と汎砂を含む五名の書史が荷台に載って立ち去れば、この繁王朝における我らの仕事は終わるはずだったのだが。

 面倒に巻き込まれていなければ良いが……

 内乱軍は東からの侵略者に対抗すべく、一時的に統合政府をつくって立ち向かうというが、その意向が末端にまで浸透しているかと言えば、そんなことはない。

 いまでも、部隊規模の戦闘から数名の殺し合いまで、あらゆる程度の小競り合いは続いていて、それに巻き込まれた可能性があった。

 何度も爆撃を受け、内乱軍や侵略者の蹂躙をうけた皇都周辺の治安は悪い。

 トラックを狙う追い剥ぎに遭った可能性もある。

 となれば、この最後の書巻は背負って持ち運ばねばならないか。

 古い荷車が倉庫にあったはずだが、まともに使えるだろうか。


 エンジンの音が聞こえてきた。

 異音が混じっている。間違いなく、小競り合いに巻き込まれ、トラックが傷ついたのだ。

 あと一回、あと一回、荷を運べば終わる。持ちこたえてくれ。

 私は皇宮に残っていたふたりの書史とともに荷を積む準備を始めた。

 昼が近い。

 正午ちょうどに統合政府の兵士が皇宮に乗り込んでくることになっている。あちらも退位宣言とともに出される共和国成立の宣言とその後の準備でかなり緊迫しているし、権威は落ちたりといえど繁旼鳥の身柄を狙う者もいると聞く。

 そちらに警戒の兵は割かれ、こちらがおろそかになることは考えられたが、多少、軍隊がこちらに乗り込んでくるのが遅れる程度のことだろう。

 

 あれこれと段取りを考えていると、汎砂とともに移送に出ていた書史……楽班が部屋に走り込んできた。

 大きな怪我ではなさそうだが、血まみれだった。

「稀梢さま、あ、は、汎砂さまが――」

 楽班は平伏するようにその場に倒れ伏し、細く悲鳴を上げるように泣き崩れた。


 次第は、こうだ。

 そのときに聞いた話ではない。

 楽班がくはんの感情がすこし落ち着いてから聞いた。

 書巻を廟に隠し終え、皇宮に戻ろうとした彼ら、汎砂と楽班は、路面の悪い道を走っていて、武装した者たちに道を塞がれ車を停められてしまった。

 内乱軍のうちのどこかの陣営か、あるいは民兵組織か。

 それはわからない。

 金目の物は積んでいないと話をしたが、トラックから引きずり下ろされ、車を取り上げられそうになって、汎砂は攻撃に出た。

 三十人ほどのうち、十人殺して相手が怯んだ隙に楽班とともにトラックに乗り込んだ。

 楽班の運転するトラックが動き出したところ、正面にいて道を塞いでいた武装組織が対戦車砲を撃ったという。二輪が付いて、馬で運ぶ旧式のようだった、とも。

 そんなものを撃って、万が一にもあたれば強奪するつもりの車両が壊れてしまうから、おそらくは車の通行を妨害するために置いていたのだろう。

 が、おとなしく渡すだろうと思っていた二人組の一人が思いも掛けず鬼神のように仲間を殺したので、怯えて撃ってしまった、ということなのだろう。

 楽班は砲の音を聞くと同時に無我夢中でハンドルを切って畑に突っ込み、耕す者もいなくなって雑草蔓延はびこる畑を横切るようにして逃げおおせたが、汎砂の声がしない。

 見れば、フロントガラスが砕け散っていた。自分の身体にいくつもガラス片が突き刺さっていたが、いつ刺さったのか覚えはなかった。そのときにはまったく痛みも感じなかったという。

 そしてトラックの助手席の屋根におおきな穴があいていて、助手席に乗り込んでいたはずの汎砂は、着ていた服だけ遺して、砂の山になっていたと……


 泣き崩れた楽班を残して書額堂の脇に停められたトラックへ向かう。

 車の助手席の屋根に、なにかが貫通したあとがあった。

 フロントガラスは跡形もなく、運転席の躯体は全体にゆがんでいる。

 砲で撃たれたのだ、と、わかった。

 前面のエンジンリッドを狙って外したのか。

 ここまで楽班が運転してきたということは、運転系とエンジンは無事なのだろう。

 徹甲弾だったのだな、と思った。

 いずれの砲にせよ、榴弾ならば車は完全に駄目になっていた。

 ここまで運転席に近い場所を貫通していて楽班があの程度の怪我で済んだことは幸運だった、そうも思った。

 助手席には汎砂の黒の官服と、皓々しらじらとした砂の山があった。

 ――弾に、首を吹き飛ばされたのだ。

 いくら口径がおおきくとも、直撃でもしていなければ首は落ちない。

 ――人の頭など、的としてはあまりに小さい。小銃で狙い澄ましてもほとんどてられぬものを。

 不思議に、心は静かだった。

 こうなることを予感していたのではない。逆だ。

 いつか私がこの世から消え失せても、汎砂がいなくなることはない。私はそんなふうに思っていた。

 心が静かなのではない、考えることを拒否していたのだと気づいたのは、もっとずっとあとになってからの話だ。

 私は書巻の部屋に戻ると、書史たちに積み込みを急がせた。

 泣き止まぬ楽班を「よく戻ってきてくれた」とねぎらいながらも叱咤し、積み込みを手伝わせる。

 急がねばならない、私のこころにあるのはそればかり。

 『汎砂がいない』という、にわかに襲いかかった現実を、ほかの『現実』で埋めようとしていた。

 皇宮の物置にあった蓋付きの白磁の壺を持ってきて、汎砂の砂を詰めた。

 官服を畳んで壺の下に敷く。

 なにか考えがあったわけではない。ただ、遺さねばならない、そんなふうに思っていた。

 ――そろそろだ。

 正午

 私は積み込みをほかの者に任せ、かつて幼帝とともに聞いたラジオの電源を入れる。

 まだ統合政府の兵隊たちは乗り込んできていない。

 運良く、ラジオは電波を捉えた。

 繁王朝皇帝、繁旼鳥。

 御年七歳の声は幼くともしっかりしていて、だれかが書いたお仕着せの宣言であっても、読まされている、とは感じられない。


――朕は、天命により人心が皇室より離れ、共和に心寄せるを知り、ここに座を降り、朝を閉じて、我が国が共和国憲法国家として生まれ変わることを宣する。これによって海内かいだいの不和が慰められ、乱れた世が治まり、古代より続くこの国が安らかにならんことを願うものである。


 灰に染めた紙に、繁旼鳥の言葉を書き付け、紙の上、文字を書いていない部分を黒く染める。

 ちょうを閉じるときの作法だ。

 ガチャガチャと銃剣を鳴らしながら兵隊たちがやってくる。

「はやく出て行きなさい」

 すこし苛立ったようすで部隊の長らしき者がラジオの前に陣取っていた私の肩を叩いた。

 もちろん、異存はない。

「旼鳥さまはいま、おすこやかでいらっしゃいましょうか?」

 私の言葉に、隊長らしき者はやや面食らったようだった。

 しかし、ここに残っている者は繁王朝に最後まで付き添った者たちだ、ということを思い出したのだろう。

 ……あるいは、私がいまにも泣きそうな顔をしていて、それを哀れんだのかも知れない。

「お元気でらっしゃる。まもなくこの国を出られるが、ルートは秘匿されているからおまえたちが見送ることはできない。が、大丈夫だ。我らが目的地に無事お連れする。女官たちは旼鳥殿に付き添われるから身の回りに不自由はない。安心せよ」

「……よろしくお願いします」

 これで本当に、繁王朝における書額堂の仕事は終わった。

 堂が、閉じられたのだ。


 最後の書巻は、鳳家の霊廟に収蔵した。

 鳳一族は朝が倒れたときにそのほとんどが斬首されたが、私のほかにも血の薄い者が地方にすこし残っていて、かつて鳳極城ほうきょくじょうのあった都の近郊の廟に集い、細々とだが先祖のまつりを絶やすことなくいまに至っている。

 もともとあった陵墓りょうぼは、つぎの王朝によって荒らされ、副葬品はことごとく収奪され、もちろん柩も開けられて剣や首輪、腕輪……数々の金銀宝飾品も彼らのものとなったが、彼らは柩の中の骨だけは棄てずに遺していてくれた。

 それらを集めてみなを祀りなおしたこの廟は、それ以来、墓荒らしに遭うこともなく、鳳家の安らかな眠りを千年以上、守りつづけている静かな場所だ。

 廟の空いた場所にさきに作り付けておいた棚に竹簡を並べ、父祖の霊を祀る祭壇に、汎砂の砂の入った壺と官服を置いた。

 私は大丈夫だと、ほかの者を立ち去らせ、廟の扉を内側から閉める。

 廟が、闇に閉ざされた。

 地下一階というには中途半端な、階段にしてほんの十段ほど下ったここは、黄泉こうせんだ。

 太祖、鳳岳英から始まる鳳家の歴史がここにあった。

 私の父母も、ここに眠っている。

 松柏の首もここに収められた。

 松柏の子、義翼もここにいる。

 そして、汎砂も。

 私の人生の始まりにあった大切な人々が、いま、みなここに集っていた。

 眠くて仕方がなかった。眠る必要のない身であるはずなのに。

 父母との別れの夜、最後に握った父と母の手の温もりを思い出す。

 泉名二十二年のあの夜、襟を掴んだ松柏の手の熱さを思い出す。

 闇の中、汎砂が手をいてくれていたことを思い出す。

 ――あれは、地祇と縁を結び、人として死んで、この身体に甦った、あのとき――


 くずおれるように廟の床に横になり、目を閉じる。

 いま、ここに私を現世につなぎ止めていたすべての者がいる。

 ――私の手を牽いてくれる者はいなくなったのだ――


 次に目覚めたなら、私は独りで現世へと戻らねばならない。

 みなのやすらうこの場所から、独りで出て行かねばならない。


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