第27話 ほろほろ

 書額堂しょがくどうの裏庭に、床几しょうぎを出して汎砂はんさと一息吐いていた。

 ――春。

 十八夜の月が眩く、しかしすこし雲がかかっておぼろに滲んで空にある。

 ちかごろは慌ただしい。

 いなごが襲来して飢饉が起きる。

 なにかよからぬものが鎌首をもたげ、疫病が流行る。

 南の地で干魃が起き、北の地で叛乱が起きる。

 怪異だ、と、宮中の者たちは囁きを交わしている。

 ――昨年春の流星は蝗の予兆だったのでは。

 ――東海で海竜が打ち上げられ瘴気が満ちたというぞ。そのあと、えきが蔓延したとか。

 ――北の地で夜空に緑の橋が架かり、賢人たちが旅立っていったという。

 ――南では……

 天変が起きている。革命が起こる前兆ぞ、と。

 太祖鳳岳英たいそほうがくえいの開いたこの鳳王朝も齢四百三十歳を迎えた。

 私も、人間であったころの年齢を足し合わせると、二百歳を超える。

 そして、すこし分かってきたことがある。

 災害はじつのところ国にとって脅威ではない。

 もちろん痛手ではあるが、ひとつひとつをとってみれば、致命的なことにはならない。

 山が火を噴く、地が震えるのはもちろん、疫病が流行ることも、干魃が起きることも、この広い国土にあってはいまに始まった特別のことではないのだ。

 ひとつのところになにかが起きても、べつの場所の余力を割いて手助けしてやれば、ほどなく民は生活を立て直す。

 松柏しょうはくはそれをやった。

 しかし、松柏の作った国の仕組みは、彼女が去って百八十年に近く、すでにさまざまなところでひずんできている。

 松柏の血胤も、義翼ぎよく枇心ひしんと続き、枇心の子が幼くして臣にしいされるに至って途絶えた。その次の帝は宰に推されて遠縁の者が玉座を埋めた。

 別に血が遠かろうと近かろうと、天命を承けた鳳家の者には変わりはないが、臣下の専横をはねのけるだけの気概はなく、妃の粉香に溺れて後宮から出てこなかった。

 そしてそれ以降、幼帝が続いている。

 外戚が宰となり、この世の春とばかりにおのれの倉に富を掻き込んでいる。

 国に災厄が起こり、民が困窮する。

 ひとつのことがすぐに補われずにいると、困窮は長引く。長引くうちにつぎのことが起こる。それも補われないまま、またつぎが起きる。

 どこもかしこも病んでくる。

 どこかを救おうとしても、気がつけばどこにもその余裕がなくなっている。

 みな、たすけるどころか、自分の富を守ることに必死になる。

 必死にならざるを得ない。

 ――そう、みな、明日に不安を覚えるからだ。

 そして――怪異は、ほんとうの怪異となる。

 星が流れること、海岸に怪魚が打ち上げられること、常ならば当たり前のこととして受け入れられる現象が、すべてが凶兆としてまことしやかに囁かれる。

 あるいは。

 犬が人の声で『鳳が墜ちる』と吠えた。

 西方遙かに五色の鳥が飛び去って行った。

 真偽定かならぬ怪異の噂が巷間に満ちる。

 ――帝の治世に怠りがあると、天が咎めて怪異を起こす。

 たしかに、『怪異』は帝の治世の怠りを映す鏡なのだろう。

 やがて、革命が起きる。

 いまの帝、宰や臣がなにか手を打たねば、そう遠くないうちに。


「この樹も、おおきくなりましたね」

 幼い松柏の植えた小楢の樹は、いまも青々としげり、その葉を微風に揺らしていた。

 汎砂はあるかなきかの微笑を浮かべて、小楢の木を見上げていた。

「ほんとうのことを申し上げると、稀梢きしょう殿、あなたは五十年保つまいと思っておりました。これまでにもあなたのように、私を介して地祇ちぎえにしを結んだ者がいなかったわけではないのです。けれど、みな百年は保たなかった。罪をこうむり首をられた者もいましたし、みずから死を望んだ者もいました。革命を機に、古い王朝にじゅんじた者もありました。理由はさまざまですが、最初の五十年を乗り越えられるものはすくなく、つぎの五十年を越えることができた者はいなかった。私は……そういうものだと諦めていたのですよ。もう地祇の縁者は創るまい、そう決めてもおりました」

 汎砂は小楢の木を見つめ続けている。

「あなたはそれ以前に私が関わったどの者より気質が幼く、危うかった。犀湖さいこ殿には『向後こうごについては委細任せよ』と申し上げましたが、人生の一回分、五十年守り切れば私の役目は済んだと考えよう……ずっとそう思い続けておりましたが……分からないものです」

 私が地祇と縁を結んでからの歳月だけを数えても、もうすぐ二百年になる。

「汎砂の薫陶くんとうたまものですよ。私はいまでもずいぶん危うい。あなたが導いてくださらなければ、とうの昔にこの身はなくなっておりましょう」

「いまはすこし違う気がしています。稀梢殿とは、もっとずっと、永い時間をともに過ごせるのではないかと、私はそう思ってもいる」

 ――よろしく頼みます。

 汎砂が私にゆうの礼を執って頭を下げた。

 慌てて私も。

「さて、稀梢殿。書額堂では明日から古い竹簡の複写を始めようと思っています。地方の廟を借り受けて、複写できたものから、移送も始めます。私は少々、手を使って金策をせねばなりませんから、しばらく堂を空けることになります。書史たちへ複写の指揮は任せましたよ」

 汎砂が静かに立ち上がった。

 複写……そう、汎砂はもう、この王朝は保たないと判断したのだ……

 自身もまた皇族であった王朝が、いましも倒れる……私はそのことに正直、なんの感慨も湧かない自分に戸惑っていた。


 ほろほろと、朧の月光が降ってくる。

 小楢の若葉の隙間から、ほろほろと。

 天命がしずかに落ちて、流れ去ってゆく……私には聞こえないはずのその音を、耳にしたような……気がした。

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