第26話 対価

 先帝崩御より一年、次に帝となるべき松柏しょうはくは喪に服している。

 この一年の間、私は身分が宙に浮いたまま、書額堂しょがくどうに居候しているようなありさまだった。

 両親を失い、汎砂はんさによって地祇ちぎえにしを結んだ身では、書額堂よりほかに行き場はない。

 正式に役職を与えられたわけでもない状態で、書史の見習いのようなことをしていた。

 そして先帝崩御から次の年が明けたその春――


『鳳稀梢を書額堂上二席に任ず』

 正式に書額堂配属の辞令が、門下省もんかしょうからおりた。

 上二席とはその部署における二番目の地位である。

 同時に、麦州ばくしゅうの州庁からは、州知事補解任の辞令も届いた。

 こちらについてはなんの異存もない。むしろ遅いくらいだ。

 知事であった父のおまけで就けてもらっていた地位だった。なにひとつ知事補らしい仕事などしたことはなかったし、父がいないいま、続けていられる地位でもない。

 問題は……書額堂上二席だ。

 もちろん、上一席は汎砂であって、これは揺るがない。

 私にも異議はない。彼しかいない。

 『私』が、『上二席』である、それが問題なのだ。

 もともと上二席にいた書史の退官を二年繰り上げて、無理矢理席を空けた。

 私がこの地位に就くことで、上三席の者が二席に昇格することもなくなる。

「なにしろ、私は死ななくなったらしいから」

 首でも落とされない限りは、歳も取らねば死にもしない身体になったらしい。自分自身ではあまり実感は湧かないが。

 あきらかに変化したのはいまのところ食事の好みが変わったことくらいだ。

 人の生き血のほか、交わって精を喰うほかに空腹を充たす方法がなくなってしまった。

 そんな鬼魅と一緒に仕事をしているなど、書額堂の書史たちはなかなか豪胆だと呆れもするが、汎砂も同じなので、すでに慣れてしまっていて余り気にしていないらしい。

 汎砂からは、書額堂の書史に手を出すことは、なによりもきつく戒められている。

 血を吸うことはもちろん、抱くの抱かれるのと身体を交わすことも厳禁だ。

 やるならほかでやれ、と。

 それは当然だと思う。

 私はもう、ここにしか居場所がないゆえ、揉め事になりそうなことは極力避けなければいけない。

 ――しかしだ。

 皇族ゆえに滅多な役職には就けられなかったのだろうが、あまりに気まずい……

 仕事の初歩も覚えておらぬと言うのに、みなの上司として振る舞えとは。

 いくら私が世間知らずでも、この状況を当然だと受け入れられるほどには、神経は太くない。


「すこし外を歩きませんか」

 汎砂に誘われて、河縁を歩いている。

 十六夜の月の光が河に溢れていた。

 春の河の水量はおおく、流れは速くはないが、重い。

 低く、ごう、ごう、と地鳴りにも似た音を立てて皇都の西から東へと流れてゆく。

「永い旅になりましょうから、そう焦らなくてもよいのですよ」

 こちらの心を見透かすように、汎砂が言った。

 それは分かっていた。

 書史の仕事に就くことも、鬼魅の類いとなったことも、もうすべて決まってしまったことだ。

 そして内実が伴うには研鑽が必要だということくらいは。

 皇族の血のほかは何の取り柄もない、特別に飲み込みも早くない我が身のことはよく分かっている。

「たしかにあなたはまだお若い。焦るなと申しあげて、焦らずにいられるほどには覚悟も決まっておりませんでしょう。ですが、これだけは覚えていてください。あなたには時間がある。時間は若木を必ず大樹へと育てます。あなたがそれを望み続けるのであれば、いつかは必ず、あなたの木陰や枝葉が人の助けとなることもありましょう」

「汎砂のように?」

「私のようにも、あるいはもっと別の佇まいにも」

「どうすればいいのか、見当もつかない」

「あなたはご自身の身体が変わってしまったことに慣れねばならぬうえ、仕事も覚えねばならない。困難なことがいちどきに押し寄せているのです。日々の仕事のことで焦りも生まれましょうが、まずはその身体に慣れていただきたい。仕事のことはそのあとです。我らの有りようは、ただ存在するだけで人を害する。仕方がないこととは言え、身体の求めるままに振る舞えば、望まぬ人をも傷つけてしまう。その身体を生得のものとして慣らすことは、私が諄々じゅんじゅんとお教えします。加えて、書額堂に勤める者はみな、あなたの味方です。それもまた、こころに留めておいてください」

 なんの解決にもならなかったが、汎砂の言葉に、私はすこし救われた心地がした。


 書額堂に戻ると、深夜だというのに明かりが灯されていた。

 不審に思ったが、汎砂はあたりまえのように堂のほうへ歩いて行く。

 書額堂の扉を開けると、みなが揃っていた。

 いつもは交代に勤めるため、書史のすべてが一堂に会することはないし、この時間に出勤していることなどないのだが。

「鳳上席、このたびのご就任、おめでとうございます」

 前任の二席の楼貫ろうかん、上三席の飛應ひおうが、私にゆうの礼を執って恭しく頭を下げる。

 みなもそれに倣った。

「じつのところ、母の腰が悪く少々惚けもはいりましたゆえ、母のたすけをつまだけに任せておくのは心苦しかったのです。鳳上席がいらしたことは、まさに渡りに船というもの。国から年金も出ることですし、夫婦ふたり、母を扶けてのんびり暮らしたく思っております」

 楼貫が静かにそう言った。

 かりにそれが本当のことだとしても、上三席の飛應殿にあとを譲れば良いだけのはず。

 ただ私の気持ちをやすんじたいだけの言葉だというのは分かってはいたが、ありがたく受け取っておく。

 書額堂のなかでは、礼は揖の礼まで。伏礼や叩頭は、それが皇統の者であろうとしないと汎砂が決めていた。

 いま、ここにいると分かる。

 それは「面倒を省く」という合理を超えて、互いを近くすることにつながるのだと。

「ありがとう」

 私もまた、揖の礼でみなの祝福を受け入れた。

「わたくしはね、ほんとにほっとしているのです」

 上三席の飛應が砕けた笑いを浮かべている。

「我々はみな、二十年か、三十年か……長くて四十年、汎上席の旅のお供をさせていただくだけで、だれもが途中でおいとませねばなりません。汎上席はしっかりした方で、それはいいのですが、どう言いますかこう……隙がないのがいけませんな。ここはひとつ、おなじ長生きになられた鳳上席に、汎上席の横に長く座っていただいて、汎上席に隙を作って差し上げていただきたいのです」

「……なかなか難しい気がするが……精進しよう」

 面食らいつつも私が応えると、飛應は笑顔のまま、うんうんと頷き、汎砂はすこし困ったように眉を寄せた。

 私は、何も出来ない。

 素直にそう吐露する言葉は、下らぬ自尊心が邪魔をして喉の奥でわだかまって出てこない。

 だが、みな分かっている。私が役立たずだということくらいは。

 これは先払いなのだ。

 私がこの地位をもって為し、為したことで得られる敬意の先払いをうけている。

 対価は、いつか支払わねばならない。

 いまはそれだけ、こころに留めておく。

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