第23話 レシピ

 急転直下とはあのようなことを言うのだろう。

 戦場を見渡せる丘に敷いた陣で、私は帝松柏ていしょうはくに近侍しながらそのありさまをつぶさに視ていた。

 万事、順調だった。

 西戎と北狄、そして羽真の軍の攻撃を中軍・左翼の将軍たちは見事に防ぎつつ、敵軍の主力を着実に切り崩していた。

 あとは別動隊として戦場の後方に回った遊撃の軍が左後方から北狄を攻め、その陣を打ち壊せば、勝利は間近と思われた。

 右翼にちからがなかったものの、それは仕方がない。

 督戦とくせんしていた中軍にして禁軍の将、蒔櫂じかいは、右翼の不甲斐なさに苛立って励戦のための伝令を何度も右将軍、額智がくちに送った。

 しかしこの程度のことは織り込み済みだろう。

 戦場ではすべてが上手くいくことなどないからだ。

 勝利のあと、各将の論功行賞のときに問題になる程度のことで、充分に勝てる……そう見えていた。

 が、昼を過ぎたあたり、突如右翼が戎狄軍の左翼を担っていた羽真軍に呼応し、中軍の脇腹を突いてきた。

 額智が寝返ったのだ。

 遊軍がわずかに遅れて北狄の後背を攻めたが、それがあることを北狄は事前に知らされていたのだろう、北狄の伏兵、弓騎馬兵に阻まれた。

 虚を突かれた中軍と左翼は善戦したものの、その夕には崩れた。

 そして、今がある。


 崖のなかほどに窪んだところがあり、その浅い洞穴めいた場所で私と帝は小さな火を囲んでいた。外からは見えにくかったが、雨が降っていれば雨宿りはできず、逆に雨が溜まってしまいそうな場所だ。今夜は晴れているから問題はないが。

 日はすでに沈み、十七夜の月光が我々ふたりの肩に落ちていた。

 日暮れ間際、帝を守る禁軍の兵の数は五百を切っていたが、全兵力としてはまだ充分に余力はあったはずだ。

 中軍・左翼は一度崩れたものの、左将軍の差配が功を奏し、体勢を立て直していたように見えた。

 が、禁軍の将蒔櫂と帝は、狙い澄ましたように現れた西戎の騎馬兵に囲まれ、味方主力と分断されてしまったのだ。

 多少、人間よりも丈夫だとはいえ、ことここに至って私にできるようなことはなく、私は蒔櫂将軍のたっての願いで妖術で翼をはやし、帝を抱えて戦場を離脱するので手一杯だった。

 ――ここで帝が安全な場所にお移り遊ばされたなら、我はこの場で隊をまとめながら中央突破を試みましょう。左将軍 圭蘭けいらん殿と合流し、戦を五分に戻します。

 蒔櫂将軍はそう言った。

 彼はどうなったろうか。

 戦場を離れた後のことは、よく分からない。

 き火に椎の実を殻ごとべて、適当なところで取り出し、殻を割って松柏に手渡す。

 椎の実を含めた幾ばくかの食料はここに落ち延びる途中、近隣の農家に分けてもらったものだ。

 乏しい食料、大切な保存食。

 春もなかば、もうすこしで春の豆が収穫できるが、このあたりで農事が滞りなく行われているとは考えにくい。

 もちろん州庁は、帝のめいに随って南方や東方で買い上げた食料を安くで払い下げているはずだが、充分ではないのだろう。

 銀一枚と交換したが、あまり喜んではいなかった。

 戦が続き、食料は乏しくなるばかりで正直、金子きんすよりは……ということか。

稀梢きしょう殿は?」

 松柏が問う。

「私は人の食べるものは食べられませんし、じつのところ、戦場で少々、卑しいことをしましたのでおなかはいっぱいなのです」

 乱戦ともなれば私がどんな殺し方をしているかなど、だれも気にしない。

 当初は剣で刺すか切るかしていたが、襲いかかる兵に飛びかかり、喉を咬み裂いて血を啜り、首をねたのが二人ほど。

 かなり返り血を浴び、本来ならこのような姿で帝と対面はできないが赦していただきたいところだ。黒の官服だとあまり目立たないのが救いではあった。

 妖術で飛んだとき、松柏を抱き寄せたが、戦場の悲惨にも、私の血の臭いにも、怯えもしていなかった彼女は、やはり凄いと思う。

 後方でほぼ見ていただけとは言え、私は戦場に立つのは初めてだった。

 自分も幾人も人を殺してきたはずなのに、目の前で人や馬がうち殺されていくさまに震えが来た。

 たぶん、その震えはあの戦場を松柏とともに脱するとき、彼女には伝わっていたのではないかと思う。

 私が不甲斐ないのは今に始まったことではないから、いまさら恥ずかしがっても仕方がないが。


 松柏は美味しそうに椎の実を口にしていた。

 皇宮でいくらでも美食を口にしていたろうに、どこまでもよく出来た人だ。

「これは野趣があってよいな。稀梢殿は人の食べるものが食べられぬとすれば、いつこのような食べ方を学んだのであろうな」

 ほりほりと、実を噛みしめて松柏が問う。

「書額堂の書史たちみなで食べるのですよ。裏の竹林で春に筍を掘って蒸し焼きにしたり。しょうの植樹されたあの小楢も、いまでは立派に育ちましたゆえ、秋には実の灰汁を抜いて挽いて焼き菓子にしたり団子をこしらえたり。書史は田舎の出の者もたくさんおりますから、いろんな食べ方をみなに聞いて回り、食べ比べなどもいたします。私と汎砂は食べられませんが、あれこれ関わっているうちに多少のことは覚えました」

 椎の実にほどよく火を通すために火を小さくしていたが、必要なくなったので枝を足す。

 しばらくするとまたぱちぱちと音を立てて燃え始めた。

 椎の実と同じく農家であがなった杏の干した実をひとつ、松柏に手渡した。

 椎の実だけでは正直、腹は膨れないが、干した果実は腹持ちがいい。

 松柏は杏をひとくち、またひとくちと小さく囓りながら、

「美味じゃの」

 と嘆息した。

 人間のおりに食べた経験から考えるに、干しているゆえに生よりは甘くなっているだろうが、ちいさな実ゆえ、甘さよりはい味が先立つはずだった。

 が、松柏は目を細め、微笑みを浮かべて、心底、美味しそうに食べていた。

「皇都まで、妖術で空を飛んでもひと飛びには行きません。四、五日はかかりましょうから、いろいろお作りいたしますよ。どれも宮廷料理と比べれば素朴なものばかりでしょうが、これはこれでわるくないものです」

「稀梢殿」

 不意に、改まった声音で名を呼ばれ、私は顔を上げた。

遺言いごんを、書き留めていただけまいか」

 なぜ、という言葉が喉につかえた。

 都まで四、五日。

 私は寝ずの番もできるし、空を飛べば危険はすくない。

 ここまでくれば命を失う心配はないはず。

しょう、私は……」

 ――私は大軍を相手取って戦えるほどの力はありませんが、多少の心得はあるゆえ、賊に囲まれても対処できます。皇都まで、帝の身をお守りいたします。

 言いたかった言葉は、松柏に制された。

「まあ、聞け。ここを脱しても、すでに皇城に吾の居場所はない。宮廷の奸物どもは、この敗戦と吾の息子を盾に、吾に退位を迫るであろう。吾は、親征し、皇都を後にした時点で宮中の闘争に負けておった」

 松柏は嘆いてはいなかった。

 ただ、事実を語っていた。

「『鳳義翼ほうぎよくを次の帝に、鳳汀香ほうていか麦州ばくしゅう知事に、我が夫楽賢柳がくけんりゅう門下省もんかしょう上一席に就けよ』……吾の遺言だ」

 門下省は文官の最高の省で、おもに帝の閲覧に供する文書の審査と人事を司っている。皇太子のきょうしに関する人事も門下省管轄だ。

 門下省の上には、文武を統括する宰や大臣が集まる閣府かくふがあるが、施政の方針を話し合い、国政全体の方向を差配することがおもな役割で、人事については意見をつけるのみ。実際の人事は、文官は門下省、軍事は兵部省ひょうぶしょうの管轄と決まっている。

 しかし門下省上一席は宰でも大臣でもない……宮廷の要職ではないため、国政を動かすようなおおきな権能はない。

「吾の敵は、吾しか目に入っておらぬ。吾が生きておれば、たとえおとなしゅう玉座を譲っても吾と通じる可能性のある吾の親族は義翼から遠ざけられる。義翼は歳よりは利発で性根も据わっておるが、まだ八つじゃ。宮廷の豺狼どもから守る盾が要る。さいわい、宰めらは吾の夫を、吾がおらねばなにもできぬ木偶でくとしかみておらぬ。そこにつけこむしか勝機はない。吾がねば、敵は油断する。吾の遺言はいかにも子や夫の将来を案ずるばかりの情に迷うた遺言に見えるであろ。だが夫は無能ではない。文官とはいえ、人事を握れば宰らの専横はあるていど防げる。もともと夫は士大夫ゆえ、武官とはつながりがある。また娘の汀香のゆく麦州は目立つ州ではないが、都より遠すぎず近すぎず、地味は豊かで港もある。なにより、そなたのお父上の薫陶を受けた者がいまでも要職を占め、よく治まっている。そして汎砂はきょうしとして我が息子をきっと善く導いてくれよう」

 松柏の言葉は予言であり、祈りのようだ。

「そう……十年。十年雌伏すれば、が子らはきっと吾の遺志を継いでくれようぞ」

「ならば上もまた生きねば」

 松柏は静かに首を横に振った。

「敵は驕慢ではあっても愚かではない。油断を誘うには、いかにしても吾の死が要る」

 私は松柏の遺言を竹簡にしたため、竹簡の上の文字を書いていない部分に一筋、を塗った。丹の赤は、その内容が遺言であることを示すものだ。

 焚き火を回って松柏の隣にひざまずき、書いた竹簡を見せる。

これでよい

 そう、静かに頷く。

「なあ、稀梢殿」

 松柏は笑った。

 はるか昔の……我らふたりがいまだなにも知らぬ身で出会ったときのような、童女のような笑顔をして。

「吾は天命を知らぬ。帝となって二十二年、吾はいちども天の声を聞かなんだ。けれど吾に悔いはない。天は知らず、この国を善く治められたは、吾をおいてほかになかったと吾は信じている」

 私は首を横に振った。

 彼女がこの国を善く治められなかったと思うのではない。彼女が天命を承けていなかった、その思い違いをただしたかった。

くの如き世のろうがわしさゆえ、しょうの御耳には、しかとは聞こえなかったかも知れませんが、みな、上が天命によって世を治めていらっしゃったのは存じております。私は書額堂で、そのすべてを書き留めましたゆえ、後の世の者にもそれは明らかでございましょう」

 松柏の手が私の襟を掴んだ。

 戦場の砂埃の匂いがする手だ。

 このたびの戦場ではない。

 彼女は生涯を賭けて、戦い続けてきた。

 そして、熱かった。

 彼女の命が燃えていた。

「稀梢殿、吾の血を吸え。吸って吾の首をり、豺狼が如き宰めらに示せ。吾はこの一身の死を以て、天が与えた吾の使命、天下の安寧をまっとうせん」

 焚き火にべた枝葉が、ぱちりと跳ねた。


 気がつくと、朝になっていた。

 爆撃はやみ、空は耳に痛いほど静まりかえっている。

 私の膝の上で眠っていた帝はどこかにゆかれたようだ。

 卓子のうえに、昨夜開けて帝がお召しあがりになった杏の空き缶が載っていた。

「稀梢、汎砂はんさが戻ってきた! たくさん食べ物を持って帰ってきてくれた! ほら。このように!」

 帝の手には、いっぱいの椎や樫、栗の実。

「おやおや、それはすぐには食べられませんね。みなで皮を剥いて……蒸しましょうか。焼いた方が良いでしょうか。砂糖が残っているなら、菓子にしてもよいですが……」

「砂糖も汎砂が持って帰ってきた!」

「なら菓子にしましょう。香ばしくて美味しいですよ」

 ――松柏殿、あなたにも、もっといろんな料理を振る舞いたかったと思いますよ。

 四方に広いこの国のさまざまな料理を、彼女に食べて欲しかった。

 寒い日には肉饅、暑い日には片栗の餡をかけた冷えた塩茄子がいい。

 春にはたらの芽、筍を焼いて、香味を混ぜだしょうで和えればご馳走になるし、秋は茸と里芋、鶏肉を煮て山椒の実を少々。

 三百年ほどまえに伝来して、みなが夢中になっている唐辛子、私は食べたことはありませんが、食べて、どんなお顔をされるのかも見てみたい。

 もし……いつかどこかであなたに再会したなら、食べていただこうと作り方も覚えたのです――

 無駄なことだと分かっていながら。

 思いは千々に乱れ、あのとき、彼女を地祇ちぎの縁者に引き入れていたら、という考えが脳裏をよぎる。なんども、なんども、寄せては返す潮のように思い続けてきたその考え。

 もちろん、私はそうはしなかった。

 彼女の言葉通りに首を伐った。

 だがやはり思ってしまうのだ。

 私や汎砂とともに、鳳王朝を看取り、その後興った王朝とともに歩み……そんな未来が彼女にあったなら。いまここに彼女がいたなら。

 彼女はこの国を、どう思ったことだろう。

 彼女はどれほど、我が子のありようを喜び、国の行く末を憂い、そして天と地と、民が続いてゆくさまを眺めて、美しく笑ったことだろう。

 ――いや、人には、それぞれ命運がある。それをげてなんとする。

 私は、天の定めた命運にしたがったのだ。

 思いはいつもそこで終わる。

 そこでしか終わりようがない。

 なぜなら、時は巻き戻らぬゆえに。

 私は帝……繁旼鳥はんぶんちょうの手を引いて、むかし、むかしの物思いに背を向けた。


 泉名二十二年、羽真、瞥小の地で西戎と結び、軍を起こす。瞥禍べっかの乱なり。しょう、卜占によりて親征す。効野こうやにて戎狄じゅうてきの軍と相対し、羽真と密かに結んだ額智の反により軍乱る。禁軍の将蒔櫂、羽真を討ち取るも、天子松柏ほうず。哀帝とおくりなさる。


 義翼ぎよくは松柏の皇胤こういんにして槻秦きしん元年、宝祚ほうそし給う。

 天子義翼は御年十一なり。


 槻秦九年、上、宰の専横を咎めてこれを退け、親政を宣す。

 槻秦十年、将蒔櫂じかいちょくして西戎をたしむ。羽真の子羽耀うよう、額智の軍を破り、西戎を滅ぼす。

 槻秦十三年、上、将繁都はんとに勅して旅を催し、北狄を滅ぼす。

 鳳汀香は上の妹なり。繁都のつまにして麦州を良く治め、富をもって夫と上を善くたすく。

 槻秦五十年、上、皇胤なきによって鳳汀香の孫、鳳枇心ほうひしん養縁ようえんし太子に立す。

 天子義翼によりて国土あまねく安寧し、商、おおいに興り、百姓ひゃくせい昭明しょうめいにして、万邦ばんぽうを協和せしむ。


 槻秦六十六年、上の崩ずるを哀しみ、天下、皆喪に服す。

 天子義翼、光武帝こうぶていおくりなさる。



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