第24話 月虹
血縁の口利きなしに
文書は官吏の基礎用語の知識を問い、実際にきちんとした文章が書けるかを確認するもの、律令の序は法律用語の基礎を確認するものだ。
科挙とくらべれば格段に易しい。
その合格証を示して皇都でも地方の役場でも良い、配属の希望を請願しておく。
門下省が審査し、空きがあれば次の春の内示で書額堂配属が決まる。
これはどこにも書いてはいないが、請願書の字も審査の対象になる。
書額堂は史書の編纂と保管を担っており、後世まで残すものなので、竹簡に書く字が読みづらい者に任せられる仕事はない。
暦計算が得意だと、特別枠の採用もあり得る。
閏月などが挟まるうえ、王朝によって微妙に暦年日数が違うのに加えて、元号が始終変わって分かりづらくなる暦を、数百年、ときに千年単位で算定し直し、正確に「何年前」というのを割り出す役目を拝命することになる。
簡単な早見表もあるのだが、正確を期す必要がある場合は計算する。有り体に言って神経をすり減らす計算なので誰もやりたがらない。
書額堂の怪談をひとつ披露すると、二百五十年、暦計算をすると一年寿命が縮むとか。暦計算は私も好かない。たしかに寿命が縮む。
まあ、私や汎砂のような、もともとあってないような寿命が『縮む』とはこれいかに、という話だが。
縁故採用の場合は試験は免除されるが、これは特権というより、幼少の頃から書額堂で働くべく、みっちり教え込まれているから試験は必要ない、というのが正しい。
安定した俸給は確保されるが、安い。
皇都で自分の親と
庶民は文章を書けぬ者がおおいので、書額堂の者は副業で代書屋を行うことがよくあると聞く。
故事を引いての訓話めいた文章や、麗々しい美文などはお手の物で、故郷を離れて暮らす子供宛ての書巻や、恋文の代筆の依頼が引きも切らぬと言う。
代書屋に対応する職業として、代読屋というのもある。
こちらは届いた書巻が読めない者に、書巻を読んで聞かせる仕事だ。たいてい代書屋が兼業している。
省庁の序列では下から数えた方が早く、上席を除けばみな下官に過ぎないこの地位を、血縁で特権的に継承しようなどと考える者は少ない。
ほんとうに頭が良いなら、科挙に挑戦して上を目指すだろう。
しかし、それなりに上手い文章が書けなければ、書額堂では働けない……というのも、事実ではあった。
私と汎砂は、青峰殿に住まいしている。
書額堂に近い部屋を、二人で三室。別々の私室がひとつずつと、共有の客室がひとつ。
書巻は書額堂に置いておけば良いし、私室には着替えの
本当は
そのかわりと言ってはなんだが、武官の代わりに書額堂周辺の夜の警備を請け負っている。
急ぎの仕事が立て込んで書額堂で夜勤をしているときはやや警備が
私と汎砂は眠る必要もないから、合理的な取引だ。
書額堂に不審な人影がないか見て回っていると、仮置きの竹簡の棚に見慣れない書巻が置かれているのが目に留まった。
書額堂で使っている竹とは、長さと幅……規格が違う。
竹の厚みを薄くして、たくさん巻けるように工夫してあり、ずいぶん
なにげなく開いてしまったのは、ほとんど無意識のことだ。
仕舞う場所にきちんと仕舞うべく、思い込みでなく必ず中身を確認する習慣のたまものだった。
「これは……」
書額堂を舞台にした恋愛話だった。
『東の夜空を見遣れば、昇る月は煌々と蒼く
霊妙な色彩を帯びた
「
汎砂が不意に振り返り、私を呼んだ。
その声は蠱惑の音色の如く耳を惑わす。
虹の光をはらみ淡い色彩を帯びて輝く彼の灰色の瞳に、私が映っている』
物語はそんな書き出しで始まっている。
月虹輝く夜、月の呪力によっていにしえの血を目覚めさせ、妖気を帯びた汎砂が、私を誘惑し、あれこれ
汎砂は澄ましきった風情がまた神秘的な美男だし、私の見目も美男美女であった親のおかげもあってまずまずで、なおかつ十九の見た目。しかも血が尊いうえに両親を叔父に殺されていたりもするから、ちょっとした悲劇性の塩味も効いている。
この手の作り話の登場人物にはもってこいというやつなのだろう。
普段の物腰柔らかいようすを一変させ、
なるほど、これが噂に聞く、下剋上とかいうやつだな。
いや、汎砂はもともと上司なので、下剋上とはちがうか。
物語もこの手の
最初は月虹に惑わされた汎砂の戯れに過ぎなかった関係が、宮廷の陰謀に立ち向かううち、次第に抜き差しならぬ絆となって二人を縛ってゆく。
結末はなかった。
以下、次巻というやつだろう。
作者の名はなかったが、書かれた文字の特徴から、創作者の名は想像できた。
ところどころ違う筆跡が加えてあって、ふたりで協作しているものと思われた。
いずれも書額堂の若い書史で、仕事熱心な青年と娘だ。
つねづね、休憩時間に仲良く話をしているなとは思っていたが、こんなことまでやっていたとは。
まあ、気にするようなことでもない。
真の高貴とは、
とはいえ私にも多少、注文を付けたい点がなくはない。
一回くらい私が汎砂を翻弄するような絡みも書いておいて欲しかった気がする。
だが、それはこの作者たちの嗜好に合わぬ展開というやつなのだろう。
私自身、汎砂に迫る自分を想像できぬゆえ、贅沢は言うまい。
私は読んだのがばれないように、書巻を丁寧に巻き直し、棚に置いた。
棚に置き忘れたのは、ほんとうにうっかりというやつだったらしい。
それ以来、その書巻を見ることはなかったのだが……
ひとつきばかりのちのことだ。
帝から直々の呼び出しをうけていた汎砂が血相を変えて書額堂に戻ってきた。
御年、十五。
私が最初に汎砂と出会った歳とおなじ年齢だが、母であった先帝
身も心も幼かった十五歳の自分と比べると、その佇まいには頭が下がる。
ただ、少々、痛々しくもあったが。
汎砂は彼の
「なんということをしたのだ!」
しばらくまえに気に留めた名前……あの
穏やかで、滅多なことでは怒らない汎砂には珍しい剣幕だった。
手に、あの書巻を掴んでいる。
私の記憶にある書巻と、綴り紐の糸の色が違っているから、あれを写本したものだろう。
というか、なんだあの綴り紐は? なぜあんな高そうな綾紐を使うのだ?
ふたりは顔を真っ青にして、這いつくばるように平伏している。
「鳳上席は今上陛下から見て
ふたりはただただ、申し訳ございません、と謝るばかりだった。
たしかに汎砂があの剣幕では、それしか申し開きも仕様がない。
「汝らの愚かな筆が、従者を通じて本日、帝のお目に留まった。帝はたいそうご立腹で、戯作の作者を見つけて鞭打ち百回を
「
ふたりは飛び跳ねるように身を起こし、書額堂を出て走ってゆく。
ふたりだとて、帝の周辺にまであの書巻が広まるとは思っていなかったはずだから、おそらくは相当、写本が出回っていると考えて間違いない。
かなり読ませる腕前だったのが災いしたな……私はすこしばかり彼らに同情した。
書巻の件があってから、十三日めのことだった。
私は汎砂とともに河原のすこし
その数、五十六巻。
最初はふたりの書いた一巻きに過ぎなかったものが、同好の士が書き写してここまで増えた。しかも綴り紐に絹の組紐を使うやら、竹簡の上下に綾織りの布を貼るやら、妙に装飾に金を掛けているものがおおい。
なかには「だれにも見せない、秘蔵する」と手放すのを泣いて嫌がった者もいると聞く。そこは、鞭打ちのかかっているふたりが拝み倒して引き取ってきたらしいが。
書巻を書き写すのにはそれなりに手間がかかるし、こんなに装飾に凝れば金もかかる。いったい、なにが彼らをしてそこまで駆り立てたのか。
……分からない。謎だ。
書額堂の書史なら、私と汎砂のことはよく知ってるから、そのふたりがどうのこうのという話は面白いのかも知れないが、全然違う省の者にも相当、出回っていたと聞く。
顔見知りでもない者を題材にしたこの手の戯作を読んでなにが面白いのかとも思うが、絵空事として楽しめたのか。
身動きできぬよう縛ってやら、絹の鞭で打つやら、交わりに道具を使うやら、
――彼らには列伝でも書かせた方がいいのだろうか。
最近、帝のご希望で、歴史を編年記ではなく人物中心で描かせる取り組みを始めているのだ。
年々の出来事を並べて書くのは史書の基本だが、事の次第が数年、ときとして数十年にわたる事件については全容が掴みにくい。
それを人物中心に書き直し、掴みやすくするという試みだ。
書額堂などという史書と行政文書の編纂と管理を扱うような、地味な一部署の人物を主人公に据えて、ここまで人に読ませる物語を書いた彼らには向いているかも知れない。
ただし、具体的な話はいましばし、彼らの謹慎が明けてからだ。
ほとぼりを冷ます必要があって、汎砂の意向で彼らはふたつきの謹慎処分に服している。
ぱしっ、と、燃える竹簡が
海から遠い皇都は、秋から冬にかけて雨も少なく河の水量も減り、とても乾くが、この夜は東から吹く風が湿り気を帯びていてここちよかった。
このあたりは眩いばかりの星空だが、遠くで雨が降っているのだろう。
「汎砂、じつのところ
汎砂は私の顔をまじまじと見つめ……静かに溜息を吐いた。
「もちろんですよ。苦笑いしておいででした。けれどもいま、
天子義翼には娘を後宮に、という話が引きも切らない。
しかしいまのところそのすべての申し出を断っていた。
普通の貴族の子弟であれば、あと三、四年さきの結婚でも、さほど遅くは感じないが、帝ともなれば話は別で、十五にもなって女を寄せ付けないのはおかしい、という話もささやかれ出している。
いまはまだ、やはり御年十五、その方面は幼くていらっしゃるのだろう、あたりで話は収まっているのだが。
もちろん、
いまでも宰や大臣の専横に苦しめられているのだ。自分の政治力がそれに対抗できるようになるまでは、さらにやっかいな外戚まで抱えられない。
「それに」
私が言いかけた言葉を制して、汎砂「チ」と舌打ちした。
この場所には我らのほかに人影はないが、滅多なことは口にするなということだろう。
――
天子の役目として、時が来れば子作りにも励む器用さは持ち合わせているだろうが、みずから好んで女の粉香に溺れたいとは思わないのだろう。
だから、あの書巻が出回るのはいかにも
汎砂は義翼の
が、それを除けばいまのところ義翼は自分の近しい家族……父親と妹以外には、自分の性質を隠しおおせている。
もちろんあの話はただの
というより、広めようとする
娘を後宮に入れたい貴族たちだ。
そしてその噂を利用して、帝が噂を否定するために、結婚話をすすめざるをえない、そういう流れに持っていこうとする。
「ところで、稀梢殿はこの、いま燃やしている書巻の話をご存じだったと見えますが」
――しまった。あの書巻を偶然に見つけ、読んでいたことは汎砂に言っていない。
「ひとつき半ほどまえ、夜の見回りのときに」
汎砂は深々と溜息を吐いた。
「そのときあの者らをきちんと
「……反省する」
汎砂の言葉はいちいち的を得ていて、反論の余地はない。
「ところで、汎砂」
話を変えようと声を掛けたが、汎砂の
まあ、腹を立てているのだろうなと思う。
汎砂が書巻を燃やすというのは、そうとうのことだ。彼ほど書巻を大切にする者はいない。書額堂で保管するかどうかはともかく、どんな内容であれ、取っておこうとする。
今回の件について、汎砂が強硬な態度で臨んだのは、亡き松柏の志にとってとてもよくない影響がある、そう判断したからだろう。
彼女が命を賭けて実現しようとしたこと、それをいま、天子義翼はその一身に負っている。
彼の邪魔はできない。
――なぜ、あの書巻を最初に見たときに、私は気づけなかったのか。
私の見た目は十九より進んでいないが、もうかれこれ五十二歳になる。
しかしいくつになっても考えが浅はかだ。
政治向きの話は、今回のように問題が出てきて初めて「なにが問題か」に思い至るありさまで、事前に芽を摘むなとどいう芸当はできないし、男女の機微やら駆け引きやらはさっぱりだった。
――なにごとも打ち込むことが肝要らしいから、政治のことも色恋のことも私は真剣さが足りぬのかも知れぬな。
私にとって政治のことは、つねに蚊帳の外の話だった。父は私に政治向きの深い話をしなかった。おそらく宮廷の権力闘争を渡り歩くに向かぬと思われていたと思う。
父の判断は正しい。生半可に知っているくらいなら、いっそ、何も知らぬ方が本人のためでもあるし、害もない。
色恋のことはといえば、十九のおりにこの身体になり、血を吸うほか、精を喰えば多少は腹も膨れるということで、男女の交わりのことは汎砂に手ほどきしてもらった。
べつに恥ずかしがることでもないと思うが、それまで経験がなかったのだ。
今上陛下は厳しく自身を律しておられてのことだが、私はなにか
そろそろ結婚の歳ではあったが、父は自分の立場が危ういことを分かっていたのだろう……積極的に私の縁談をすすめなかったし、特段、男が好きとかそういうこともなく、本当に、私はそちらの方面には総じてのんびりしていただけだ。
つまり、言うなれば汎砂が私の初めての男、ということになる。
戯作の作者たちはそんなことを知っていたはずはないが、燃やしている書巻の話も、まったく
男女が
もちろん、この話に書いてあったような奇態な趣向で交わったわけではない。私も汎砂もそのような趣味はない。
まあ、昔は鞭で仕置きされることはたびたびあったが、あれは私が禁を破って城下で勝手に血を吸ったからであって……どうでもよいが絹の鞭など効かぬと思うぞ。
だが、閨のことを教えてもらったことなど、それになにか特別の意味があるわけではない。
この身体になりたてのころであったので、気が
曲がりなりにも自分で精が喰えるようになるまで、汎砂にはなんども咬みついてしまって迷惑をかけた。ああ、そういえばあまりに咬みつくゆえ猿轡を噛まされたことはあったな。あの戯作のように手足を縛られたわけではないが、あのときのことを思い出すとさすがに赤面してしまう。
それでも慣れるまでしばらくは、妓楼で女に相手をしてもらっても、ことに及んで精を喰うだけでは足りずに血を吸ってしまって何人も殺してしまった。
これは私の不徳のいたすところで、汎砂の教え方が悪かったわけではない。
彼の名誉のために付け加えておくと、閨のことについて、汎砂はなかなか上手いと思う。
しかし、実際のところ汎砂と私とは、どういう関係なのだろうな。
友人ではない。
家族でもない。
恋人でもない。
職場の同僚よりは抜き差しならぬ関係だと思うが。
――近いとすれば、不肖の弟子というところか。
だがそれも、微妙に手触りの違う言葉だという気もする。
ふと見上げると、東の空に蒼々とした月が昇っていた。
そして、幽玄の色彩を天空に架ける月虹。ああ、やはりあのあたりに雨が降っているのだ。
「稀梢殿」
汎砂が不意に振り返り、私を見た。
その声音は不可思議な潤味を帯びていて、ぞくりとする。
虹の光にあてられて淡い色彩を帯びた灰色の瞳に、私が映っている。
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