第22話 泣き笑い
――しかし、だ。
天子みずから率いる親征軍である。
親征軍には、書史が最低、ひとりは従軍することになっている。
万が一……いや、百万が一、帝が戦場でお隠れになるようなことになった場合、その
その書史に、私が選ばれた。
驚くべきことに帝松柏みずから私を指名してきたのだという。
そしていま、私は帝の馬車に、ふたりきり、差し向かいで揺られている。
いくら
ゆえに官吏の身分としては中の下といったところである。
それこそ帝の命がいましも消える……そんな事態でもない限り、普通は近侍の者を介してしか会話できない。
たとえ私が皇族で、
彼女にとって私は
当時十六歳だった彼女にはなんら罪は無いとは言え、彼女の父は私の両親を謀殺したのだ。
よくもまあ、こんな人選、帝の側近たち……
帝とふたりきりになることの出来る男は、
私は人間だったころからずいぶん奥手で色恋には頓着していなかったのもあるが、
とはいえ、抱けぬわけではない。
血を吸うほど充たされるわけではないが、抱いて精を喰い、腹を満たすことはできる。
汎砂は私に輪を掛けてその手の欲には乏しいようだが「おそらく
いまは澄ましきった顔をしているが、彼は長生きだから、昔いろいろ試してみたのかも知れない。我らは血を吸って首を
……しかし、しかし、だ。子は生せぬにせよ、やはりいろいろと
いや、率直に言って間違いなく拙いとは思う。なにかおかしな事態になれば、誤解だ、冤罪だと騒いだところで斬首は免れない。
が、この状況は帝の望みなのだ。
私には否など言う権利はない。
「
呼ばれて、顔を上げる。
「は」
私が彼女に初めて出会ったのは、彼女が六歳のおりのことだったと記憶している。
その彼女は当年四十一歳。美しくなった。そう思う。
女として、とか、見目がどう、という話ではない。
むろん、彼女の外見を問えば、だれもが
つねに身に纏う金襴綾錦の衣装は戦仕様とあって簡素で、高く結い上げ冠をかぶっているはずの髪は肩で巻かれて
化粧も最小限だ。
だが、そんなことはなんら問題にならない。
天に捧げられる磨き抜かれた
故事にある、
真摯に生きた歳月は、人をここまで美しくする。
対して私は十九で時が止まっている。
外見が若ければ性根も若いまま、などということはないはずなのだが、いまひとつ成熟しない我が心根には、我がことながら溜息が出る。
いや、溜息など吐いている暇があったら精進せよと父にはうしろ頭を
「
「
私は首を横に振った。
今上陛下が私に謝らねばならないことなど、なにもない。
もしあるとすれば、それは先帝と我が両親に関わることだが、それは謝るべきことではないのだ。
「そう、まさに無体だ。
「賢明なご判断にございます」
私は静かに頭を下げた。
「それに、私はだれも恨んではおりません。『帝を恨むな』それが我が父の遺言でございました。私は不肖の息子なれど、父の遺志が
玉座は人を惑わすものだ。
天命があったとしても、その惑わしをはねのけることは難しい。
史書は語っている。
多くの帝が玉座に惑わされ、天命を失っていった。
「私こそ申し上げねばならぬことがございました。我が父母を鳳家の廟に改葬してくださったその厚情、私は生涯の恩と、こころに刻んでおります」
死後、
私の言葉に、彼女はわずかに目を細める。
「まったく、
松柏が小さく溜息を吐いた。
「いま、あの方が宮廷にいらっしゃったなら、どれほど吾の
「私は、年賀の儀式で下手な詩を吟じる父しか存じませんが……過分なお言葉、痛み入ります」
松柏が、ふ、と笑う。
彼女も父の詩を聞いたことがあるはずだ。
たぶんそのどれかを思い出して可笑しくなったのだろう。
「稀梢殿」
再び名を呼ばれた。
「吾は、この
彼女は真摯な面持ちで、驚くべきことを口にした。
「
「戦場で、ではない。勝っても負けても、その帰りが狙われる。あるいは無事皇都に戻ったとしても、宰らの画策によってすでに吾の玉座は危うくなっておる。通例ならば将軍の派遣でよいところ、
松柏は即位以来、おおくのことを成してきた。
西戎・北狄討伐のためには金が要る。糧秣が要る。武器が要る。馬が要る。兵士も要る。
そのためにこれまで北部が中心だった馬の生育地を東部にも設け、南部に鉄鉱石の山地を探し出し、西部が独占していた製鉄技術を南部に移植した。逆に、南部と東部の開墾を奨励しつつ、地租とは別に穀物の生産量の二割を買い上げて、戦のために耕地を耕すことの出来ない西部と北部の民に安価で払い下げた。
食べるために耕地に縛り付けられなくなった西と北の民は国境を守る兵として国に雇われた。賦役の兵ではないから、農繁期に農地へ帰さなくてよい。その期間、訓練もできる。
また、賦役で他の地方から駆り出してきた兵は、戦が終われば流民化することがおおい。
それを最小限に留める策だ。
国境の守りには、東の地の治水の技術が転用され、むかしの王朝が放棄した防塁を再建し、さらに強固な防塁がいくつも作られた。
どれもこの困難な
この国が四方に広いことを最大限有効に活用した策だと言える。
おかげで防戦一方だった西戎と北狄の勢力を、近年は押し戻しつつある。
しかし、各地の権益を握る大貴族たちには不評な策でもあった。
それでもおおかたの貴族たちは帝に子がいない間は我慢していたのだ。
血の薄い者を立てての後継者争いは、候補がおおいゆえ泥沼になる。
互いに争ううちに、ちからを失い、結果、皇室の一人勝ちになる。それでは旨味がない……宮廷の豺狼どもの考えそうなことだ。
ところが、八年前、帝と帝婿の間に男子が生まれた。
続いて女子がひとり。
ふたりともすくすくと成長し、貴族たちは松柏を廃し、幼帝を立てて自分たちが宮廷を牛耳ることを画策する。
なかにはもはや朝廷は我が意に適わずと見限った者も現れた。
製鉄技術の独占を取り上げられた西方の
「幸い、吾の婿殿は良い人で、物事をよくわきまえ、道理の分かった士大夫だ。戦に出るまえに、夫とは別れを済ませてきた。夫の家は権門ではないが、まったくの無力でもない。宮廷の妖魔どもから吾の子らを守り育ててくれるだろう。それに、子らの
馬車の
「この軍旅に、そなたを連れ出したのは、吾の最後の我が儘だと思っていただきたい」
「最後などと。古来、帝というものは我が儘なものでございましょう。その我が儘を貫き、民を
私の外見は十九の若造だ。
地位もあり、わきまえもあり、困難な仕事を着実にこなして人生でもっとも脂ののりきった年上の人をまえに底の浅い虚勢を張っている……そのような姿に見えたことだろう。
松柏はふと微笑む。
「稀梢殿は、昔と変わらず優しいな。お強くもなった」
そしてしばし沈黙のあと
「書額堂の裏の小楢は、すいぶん大きくなったであろうな」
そう呟いた。
その顔は、微笑んでいながら、どこか泣いているようにも見えたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます