第19話 クリーニング屋
本屋に行くのは嫌いではない。
活版印刷の技法が遙か西の地で発明されて以降、書物はより手軽に手に入れられるものになった。人は技術を進化させ、より使いやすく、より安価なものを生み出していく。印刷だけではない。紙を漉く技術もそうだ。
より便利に、より安価に、より労をすくなく。
そして古い技術は忘れ去られていく。いまでは竹を薄く割ってそこに文字を書き、書巻を作ろうなどという輩は、よほどの物好きしかいない。
技術の発展は、素晴らしいものだ。
人は技術を通して文明を発展させていく。その根本にあるのは『社会』で、すなわち『分業』ということになるのだろう。
『分業』を可能にしているのは、社会の安定だ。
それがいかに脆いものかは、どの国でもいい、史書を紐解けば読み取れる。
だが、脆く崩れ去っても、人は砂上の楼閣で見た夢を忘れない。
夢は書き残され、大地に播かれて明日に芽吹く。
街の本屋に行けば、溢れるほどの書物が積み上げられ、手頃な価格で手に入れられる。
時の権力者によって禁止されている書物、というのも有りはする。
書額堂の書巻も、古い王朝のものは、封印書巻の扱いだった。
存在することは許されるし、ときどき、皇族が必要に応じて参照もするが、余人には見せてはならない。
まあそれは建前で、書史たちは古い書物にも目を通していたし、史書の断片は巷間に広まっていたものだ。
禁書にしたところで、禁を破ってその書物を手に入れ読む者、『合法的に』禁を破る方法を編み出す者は、いつの時代にもいる。
『見せてはならぬ』『読ませてはならぬ』『利用させてはならぬ』というのはどこの時代にもあり、理不尽な弾圧も多いが正しく思える理屈のある禁止もある。
知識やら思想、表現とはそういうものだ。なにかにつけ巷間に広まることを禁止される。それだけ人を動かす力を持っているということだ。
しかし、もしかしたらその抑圧は次の時代にはまったく必要のないものかもしれない。禁止されていたそれらが、人を救うかもしれない。
だからたとえそれがその時代に不要だと排斥されたとしても、内容如何に関わらず、それらを記すすべての書物が失われぬよう、願う。
書店に積み上げられた万巻の書物をまえに、心底、そう思う。
汎砂の遺志とは、そういうものだった。
書物のなかにある、人々の声を遺す。
いつかその声が天に届くように。
書額堂にいたころはなにくれとなく仕事があり、暇など感じたことはなかったのだが、いまはどうにも手持ち無沙汰なことが多い。
最近、仕事を退職してから趣味に凝る勤め人の気持ちが分かってきたような気がする。そろそろ蕎麦でも打ってみるべきか。自分では食べられないし味見もできないから、まわりの者に煙たがられる気もするが。
暇が出来れば……詰まらないことをよく考える。
最後の王朝が倒れてもうすぐ八十年になる。
侵略者を相手取った戦争も、ずいぶん昔に終わった。
侵略者を追い出したあと、ふたたび争い始めた三つ巴の内乱もとうの昔に終息した。相争っていた三派は『選挙』という形式で争い続けているとも言える。
次の王朝が現れる兆しはない。
国を統治する組織はあるし、統括する者もいるが、世襲ではない。
王朝が倒れ、天命を承けた新たな王朝が世を統べることを、『革命』という。
天命を承ける者の姓が変わるので『易姓革命』ともいう。
西の地ではついに王朝が開かれなくなった国もあるというが……この国はどうなっていくのか。
――天命は、いずくにありや?
書物に記された者たちの声は、いまもそこに届いているのだろうか。
『鳳王朝中期の経済と文化』首都大学出版会
歴史学の本を扱った棚で、本が一冊、目に留まった。
鳳王朝中期……まさに私の従妹、鳳松柏が帝だったころのこと。
彼女は異民族の侵略を防ぎつつ戦争と無縁の土地の商業を振興すべく尽力した。彼女の二十二年の治世はそれに捧げられ、志半ばで没したとは言え、成果はあったといえる。
彼女の息子が、十一歳で帝となったのち、西と北の異民族の侵略を防ぎ
ながらく彼女の功績は埋もれていて、ただ、
この本もそのうちのひとつだろう。
書額堂が保管している書巻は、長い歴史の中で写本の一部が流出したほかは、いまでも書史たちの子孫の手で保管、秘匿されている。
しかし、歴史は王朝の公文書のみによって研究されるのではなく、
本の著者の名を、私は知っていた。
書額堂の書史の孫娘で、家にあったたくさんの竹書を読んで育った。
もちろん、いまは書史の仕事はなく、両親と同じく幼年学校で教師をやりながら先祖伝来のちいさな畑を耕し、書額堂の竹書を守ってゆくか、それとも別の道を歩むかに思い悩み、彼女は別の道を選択した。
大学に進学し、博士となり、歴史学の研究室に入ったと聞いていたが、そうか、この時代を研究しているのか。
本を開いて序文を読む。
内政に優れながらも志半ばで没し、
ふと、二十年前「わたしを
歴史の深淵はなお深く、どれだけ寿命があってもその底にはたどり着けぬからと。
「愚かなことだ」
私はその本を購入し、書店を出た。
帰りに馴染みのクリーニング屋に寄った。
その店は、あちこちにあるチェーン店のクリーニング屋の料金の二十倍近い料金を掲げて商売しており、事情を知らない者には、どうしてその店が潰れないのか不審に思われているとも聞く。
その店の『正規』料金を払って服を
血で汚れた衣装を詮索せずに洗濯してくれるこのクリーニング屋を見つけるのに、私がどれだけ苦労したことか。
『私とおなじ存在になるということは、いま、なんの苦労もなく出来ていることのすべてを諦めるということなのだよ。なにより、あなたは人を喰って生き続ける自分を赦してゆかねばならない。私はもとより皇族だった。民とは違う、そう信じていた。それゆえにほどなく慣れたが、あなたはどうだろうね? 人に裁かれるのではない。自分で自分を赦し続けなければならないのだ。それがどんなことなのか、お分かりか?』
かつて彼女に掛けた言葉を胸の内で繰り返し、私は帰路に就く。
――それにね、あなたは歴史学を学ぶのだろう?
――はい、そうです。稀梢さま。
――ならば分かるはずだ。歴史上、どれほど偉大な人物でも、人がそのひとひとり分の人生で為し得たことは、とてもすくなかったことを。私の従妹の松柏は行動力もあり、意思も強く、志高い素晴らしい帝だったが、そんな彼女でもすべてのことを成し遂げることはできなかった。しかし、彼女は信じていたのだよ。
――なにを、でございましょう?
――自分の遺志を継ぐ者が、必ず自分のあとに続いてくれることを、だよ。
言葉は大地に播かれて次の夢を芽吹かせ、祈りは天に届いて大地を潤す。
この本を著した彼女は、いま、信じているのだろうか。
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