第17話 流星群
書額堂の朝は、そんなに早くない。
勤務は
この部屋ではあまり火を使いたくないので、部屋に燈火が必要になる日が暮れ落ちてしまったあとは、よほどの急ぎ仕事がない限りは、勤務時間は終了、堂を閉じることにしている。
書額堂に休業日というものはない。いつ帝からのご
私と
汎砂と私は書額堂の上席なので、みなの上役だった。
汎砂は知識も経験も勤めの長さも申し分なく、名実ともに。
私は……まあ、ここに席をおいてたかだか八年目、知識も経験も勤めの長さも私よりよほど凄い者がたくさん在籍しているが、皇統なので滅多な役職にするわけにもいかず致し方なく。
汎砂が上一席、私が上二席なので、この国の皇統と貴族に媚びること丸出しの官僚制度にも、かろうじて爪の先ほどの良心や羞恥心が残っていることが分かる。
余談だが、上席の役職に就くと、年々の俸給が上がるのはもちろん、退官したあと平の書史よりも相当いい年金がもらえる。かつ、上一席、二席、三席の順でもらえる年金の額がいい。書額堂の書史は官吏の序列では『下官』の区分になるが、上席だけは『上官』の区分なので、俸給も年金も、差が出てくるのだ。通常、上席は退官前の数年、勤めるのが慣わしで、三、四年その席を温めた後は速やかに後任に席を譲り、楽隠居する。
汎砂と私を上席に就けているのは、辞める心配のない私たちをそこに据えておけば、高い年金を多くの者に払う心配をしなくて良い……それもあるのではないかと勘ぐっている。
それはさておき、上役が朝から晩まで仕事をしていると、みな帰りづらいらしく、私と汎砂は相談のうえ、努めて朝は遅めに席に着き、夕は早めに勤務を終えることにしていた。続きの仕事があれば、みなが帰ったあと、夜勤のおりに済ませば良い。
汎砂は滅多なことでは怒らないし、俸給が安いことに目を
とはいえ、たまには無理をせざるを得ない日もあるのだった。
秋のなかば。
そう、汎砂が毎年のことながらひとつきの眠りに就いている季節。
昨夜、流星群が東の空に現れた。
十日ほどまえから大きな星が天頂の東に現れ、ゆっくりと東の地平に向かっていたが、昨夜はその大きな星が天の川にさしかかり、それに呼応したかのようにたくさんの星が流れたのだ。
こちらの速度は速く、現れては消えていく、ふつうの流れ星だった。
冬の流星群は毎年のことなので、だれも驚かない。
だが、季節外れの流星群となると、話は別だ。
帝の治世に怠りがあると、天はそれを
犬が人の言葉を話す、山が火を噴く、海辺に化け物の死体が打ち上げられる、地が震える。
場合によっては吉兆と言うこともあるのだが、飢饉、叛乱、帝の病……天命がこの王朝より失われる……革命……よからぬことの前兆ではないかと皆が思い、
時ならぬ流星群もその類いだ。
まず、帝から過去に似たような例がなかったか、ご下問があった。
これはいい。
我らの最上位の上司のご質問だ。我らには答える義務がある。
次に、卜占省から問い合わせがある。
過去に似たような例がなかったか、その時の占いにはなんと出ていたか、そのときの占いは当たったか……そんなもの、自分たちの部署で記録を取っておけと思うのだが、残念ながら官庁の序列ではあちらが上だ。
問われれば調べるしかない。
それに向こうが記録しているのはせいぜいがこの王朝の始まりから……二百年ほどの記録だろう。こちらには二千五百年ほどの蓄積がある。
名門貴族たちも暇に厭かせて問い合わせてくる。
こちらはさすがに応答する義務はないが、ちゃんと返事をしておくと、ときどき、良いことがある。
予算を通したいとき、その筋へ口を利いてくれたりするから、あまり
「候補は、本朝
「分かった。私は一番古いのを確認する。皆は新しいものから順番に、確認していってくれ」
王朝こそたびたび変われど、使われている文字や文法は、基本的に変わっていない……形に変化はあってもまったく違う文字ではない……そのことに感謝しつつ、私は候補に挙がったもので、一番古い竹簡『亀の亦善五年』を紐解いた。
問い合わせはよくあるので、おもだった怪異の候補は別に抜き書きして参照できるようにしてある。
とはいえ、書き抜きは書かれてある竹簡名、起きた年、季節と方角くらいのものなので、本当に今回の流星群と似ているのか、そのときの卜占になんと出たか、その後九年内になにか目立った災害が起こったかなどは実際の書巻に当たってみなければ分からない。
もちろんどこにも類似がなければ「有史以来過去に例のない怪異でございます」と回答することになる。
ずいぶん特徴のある流星群だから、類似はすぐ見つかるだろう、私は高をくくっていた……のだが。
「こちらにもありません」
思いも掛けず二日がかりの徹夜仕事になった。
私は平気だが、みなの疲労の影は濃い。
もう帝へは「有史以来過去に例のない怪異」だと奏上してしまうべきか……そう思いもするが、在職八年目、「ない」と結論するには知識が少なすぎて決断できない。
むろん、様々なことはある。多少は
けれど決して天が疎漏を咎めて怪異を起こす、そんな政治はしていない。
しかし「有史以来過去に例のない怪異」だと奏上すると言うことは、天が彼女を咎めていると言うに等しいのだ。
私は情けなさに唇を噛んだ。
「鳳上席、汎上席にお目覚めになっていただいては?」
岐泉は書額堂に勤めて三十年になる。
頭はもう真っ白で、来年、退官の予定だ。上一席は汎砂以外あり得ないので無理としても、私などが上二席に居座っているせいで上三席にしかなれないのが不憫なほど、真面目な勤め人で、博識だった。
その彼ですら、お手上げだということだ。そして、やはり彼もまた「有史以来過去に例のない怪異」と結論づけるのには
いま、汎砂は眠っている。
彼は毎年、良い香りのする酒を飲み、そのあとひとつき、眠るのを習慣にしていた。
私はその酒は飲めなかったし、そもそも本来なら我々は人間の口にするものは飲み食いできないはずなのだ。
そしてひとつき眠っている汎砂を、必要があって途中で起こすと大抵、具合悪くしているので、身体に合わないものを口にしているために拒絶反応でも起こして、回復するのにひとつきかかっているだけではないかと私は疑っているのだが、もちろん、彼ほど真摯に書額堂の仕事をこなし、人員をとりまとめ、対外交渉を引き受けて、この職場を運営している者はないのだから、一年のうちひと月くらい、彼の好きにできる時間があってもいい。
しかし、今回はもう駄目だ。情けないが彼に頼るしかない。
「それしかない」
私は頷いた。
岐泉に起こされ、奥の書庫の隅で、書物にまみれて寝ていた汎砂が書額堂の広間に姿をあらわした。
予想通り、もともと白い肌は蒼白で、頭痛がするのか吐き気でもあるのか、よろよろとした歩みで自分の席までやってきて、顔をしかめてやや前屈みに椅子に腰掛ける。
同列に並べて良いものか迷いはするが……まったく、二日酔いとおなじような有様だ。
父も昔、断れない宴席で酒を過ごした翌朝など、いつもこんな感じだった。
無言で手招かれ、彼の側に立った。
汎砂は乱れた髪もそのままに、ゆらりと立ち上がる。
「済まない」
汎砂はひとこと、呟いて、おもむろに私の首筋に咬みついた。
この季節に起こされたとき、汎砂は血を欲しがる。
私の知りうる限り『彼が一刻の猶予もなく血を吸いたがる』のは、このときしかない。彼だとて私の知らないところで必要になれば血を吸うか精を喰うかしてるのだろうが、常日頃はそんなそぶりを見せることはない。
始終腹を空かせている私とは大違いだ。
そして職歴八年目、役立たずの上席の私が役に立てるのは、このときくらいしかない。
私がここに在籍するまえに、この季節に汎砂を起こさねばならなくなると、いつも一番職歴が浅く、健康な者が利き腕ではないほうの二の腕や、腿などに傷を付けて汎砂に血を与えていたという。
健康な者といえど血が出るほど切れば痛いし、きちんと処置しても化膿することだってあるから、そんな心配をしなくていい私がこの役を負うのは当然のことだった。
私だって最近はあまり人を襲わないように努力してるから貧血で倒れそうになるが、それくらい我慢できる。
しかしだ。
書額堂の片隅で、きゃー、とかなんとか、小声ではあったが黄色い声が上がる。
多くの者は見て見ぬ振りで自分の仕事をしているが、若い書史のなかには男女を問わず、ちらちらとこちらを観ながら頬を赤らめている者もいる。
いや、これは仕事なんだ。
たしかになんというか、おかしな状況ではあるが。
書額堂には女の書史も多い。本朝において読み書きできるのは圧倒的に男がおおいため、さすがに半数とはいかないが、
他の部署よりはよほど
書額堂が男にはあまり人気のない部署であることも理由のひとつだろう。
なにしろ、どんなに頑張っても上一席と二席には絶対になれない部署だから、出世を目指す者には不向きだった。
とくに外部から望んでここに配属されたがる者はすくない。
黄色い声をあげるのは、おもに女性の書史だ。
たしかに汎砂はなかなかの美形で、それを言うなら私だって皇統だというのを割り引いても、まあまあ見目はいいほうではないかと思っている。
私自身は宮廷に出たことはなくて見目のことなどなんの噂にもならなかったし、田舎暮らしで意識したことはなかったが、すくなくとも父は若い頃、宮廷随一の美丈夫と謳われ、中原一の美女と名高かった母を射止めて家庭を持つまで、浮いた話には事欠かなかったという。
父がやいやい言うので剣術と馬術の稽古はちゃんとこなしていたから、居住まいもそれなりにさまになっているはずだ。
実年齢はともかく、見目悪くない
だいぶ血が抜けてぼんやりしてきた頭で、そう思う。
起き抜けの食事を迎え酒よろしく終えて、岐泉の話を聞き終わった汎砂は、ふ、と息を吐いて目を閉じた。
眠ったわけではない証拠に、椅子の肘掛けを指の爪でコツコツ叩いている。
「……天の川の流星群……」
「我々もその線でいろいろ調べたのですが」
岐泉が申し訳なさそうに頭を下げた。
「……さんざん探したであろうから、こちらの記録にはないと考えても良いだろうな……しかしどこかで見た覚えが……ああ、岐泉殿、六百三十年ほどまえの
「かしこまりました」
結局、六百三十三年前、そしてさらに精査した結果、千二百六十六年前にも同じ時期に同じような現象が起こっていたことが確認された。
当時の卜占の結果も書き抜いたが、その後の災害に関係したようすはないと帝と卜占省、そして数名の貴族たちに報告。
これをもって一件落着となった。
おそらくこのあと卜占省が占い、良い日取りを決めて『六百三十三年ごとに来訪する天帝の使者を迎える儀式』を行うのだろう。
まあ、可もなく不可もない落としどころだと思う。
しかし。
と、私は溜息を吐いた。
汎砂はここにある書物の中身をすべて暗記しているのか……
私が汎砂のように上席らしい仕事ができる日が来るのは、いつのことだろうか。
気が遠くなる。
……これは決して、貧血のせいではなく。
十日後のことだ。
汎砂はあのあと寝直すと言ってまた書庫に籠もってしまった。
いつも通りならあと五日ほどですっきりした顔をして目を覚ますだろう。
そう、あと五日、なにごともなく過ぎ去ってくれさえすれば。
ぱたぱたと廊下を駆ける靴音がして、帝の侍従が飛び込んでくる。
「三日前、北の離島、
私と岐泉は顔を見合わせ……溜息を吐いた。
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