第16話 水の
雨が降っている。
――雲が厚いゆえ、今夜の空爆はない、か。
夕刻。
皇城は空爆の的にはならなかったが、皇都の火災から延焼することは何度かあった。
幸いほとんどの建物が無事だったが、城壁のなか、一番外側にあった木造の回廊は燃えてしまっている。
火災で燃えてしまうなら、もっと早くに解体して薪にしてしまえば良かった、と思ったものだ。あれをさきに使っておけば、美しい彫刻を施された帝の
侵入してきた内乱軍の兵隊たちが銃撃戦を始めたこともあるので、壁や天井のそこかしこに穴も開いている。
ながらく設備の維持に金が出されることもなかったので、穴が塞げず雨漏りが酷い。
ヒタン、ヒタン、ヒタン、掃除が行き届かず埃が積もる御影石の床に、天井から水がしたたっている。
一年半前まで相争っていた内乱の当事者たちはいま、手を取り合って東からの侵略者と戦っている……ことになっている。
現実には騙し騙され、今日の味方は明日の敵、昨日の敵は今日の友、それこそ裏では侵略者とも手を結び、戦いはなお混沌としている。
そしてその余波をうけ、ひとつきまえ、帝室は解体されると決定した。
皇城は、三軍の統合政府に明日を限りに明け渡さねばならない。
時代は変わった。とうの昔に帝室には政治の実権はない。
ある種の象徴として崇められるだけの存在など、掛ける経費に見合った利用価値がなくなったということだろう。その象徴的な役割も、すでに地に落ちている。
明日、帝は共和国の発足と、帝室の消滅を宣言する。
もうこの城にはいらっしゃらず、数名の女官とともに統合政府の本拠地に軟禁されている。
退位宣言後、安全のため……という名目で、体よく我が国から追い払われ、水面下で折衝済みの西の某国に亡命することが決まっている。
むろん、繁王朝において歴史の編纂を担ってきた
次に天命を承ける者が現れ、朝を開くまでの雌伏の時。
地方の官吏の霊廟や倉を借りて、次の歴史の担い手が決まるまで保管する。
じつのところ、解体が決まるずっと前から、書巻の複写と移送は進めていて、ほぼ完了していた。
あと残っているのは、トラック一台分。
私の目の前にある書架に出された、書庫の最深部にあった竹簡のみ。
束ねる紐が脆くなっている竹簡を手に取って、そろりと開くと、それは私が汎砂に出会った最初の時に、見せてもらった竹簡だと気がついた。
十五歳の時、父に連れられて訪れた書額堂。
皇族だけが使える鍵を使い、四方の壁、すべてが竹書の棚で埋めつくされた部屋に入った。
灯りは部屋の入り口に置いてあった。
万が一にも火が広がらぬよう、
部屋に入ると同時に汎砂がその手燭に火を灯してくれた。
むろん、手燭ひとつではその部屋の闇の密度を
見えるのは、汎砂の手元にあるその灯りのそばだけ。
真っ暗な闇のなか、風が動いていたのを覚えている。
どこかに換気の
もう千六百年も前の話だ。
『
汎砂の手元の灯りにぼんやりと浮かぶ墨の跡を、目を
そのあと汎砂は別の竹簡を開いてくれた。
『
――皇清は、さきの史書にある亀の皇昏とお読み変えください。さきにお見せしたのは柊王朝の史書、こちらは亀王朝の史書です。昏は、柊王朝が皇清に付けた蔑称のようなものです。
柊王丹は亀と同盟を結んでいたにもかかわらず、裏切って南の苑梨と結んで亀を攻めた。
亀の皇清は不利が分かっていたものの、柊の侵略に苦しむ南のよっつの邑の苦境を見かね、軍旅を催し、柊王を討伐しようとした。しかし不利は覆せず破れてしまった。逝去ののち、悼帝と諡号された。
「どちらが正しいのです?」
もちろんどちらの竹簡も、結論はひとつだ。『亀の帝清は柊王丹に漠野で討たれた』。だが、ほかの部分ではまるで真逆のことを書いているように見える。
「どちらもが正しい、とはお考えになりませんか?」
汎砂は静かに問う。
「亀と柊は同盟を結んでいた。あるとき、亀の国土で天災が続いた。しかし当時、国力が衰えていた亀は困窮する民を救うことができなかった。柊は亀との同盟を破棄し、南の苑梨と結んで亀を攻撃した。柊に攻められた亀の南、柊や苑梨と接していた小邑の長が、皇清に救援を訴えた。亀の宰相は帝に、戦をすれば負けると告げたけれども、帝は柊を討伐するために南へ軍を進めた。そして漠野で帝は柊王に敗れ、亡くなった。亀王朝において皇清は末代皇帝でもありませんし、暴君でもありませんでした。内政で失敗もありましたが、小邑の苦難を見過ごせない情のある皇帝でしたから、その逝去を惜しみ諡号は悼帝とされました。しかし柊王朝にしてみれば、皇清は暗愚でなければならない。でないと同盟を破棄した正当な理由がなくなってしまうからです。たしかに皇清は内政に失敗し、多くの民を見殺しにしている。そのことは間違いありません。ですから柊王朝は皇清の名を暗愚の王に対する諡号である昏とし、自分たちの正当性を強調した……と考えれば、どちらの言い分にも矛盾はない」
汎砂の説明を聞いて、私はどう思っただろう?
遙かな時の彼方の話で、よく思い出せない。
いまはただ、そのときの胸の震えだけを覚えている。
「書史は天命を承けた天子の行いを天に報告するために竹書を記します。だから嘘は書かない。けれども、立場によってものの見方は分かれるでしょう。人は全知ではないがゆえに、事実を見誤ることもある。思惑があって書くべきことを取捨選択もするでしょうし、書史の本分を逸脱しておりますが、嘘を書くこともないとはいえない。また、多少潤色もあるかもしれない」
「たとえば、田仕事をしていた娘が昼寝をしようと横になりあくびをしたとき、天から降った鳳凰の羽を飲んでしまった、とか?」
これは我が鳳家に伝わる話だった。
鳳家に生まれた者なら、おそらく十を数えるまでに千回は聞かされる。
ひとつき後、娘は郷士に嫁ぎ、そこで後に鳳王朝の太祖となる子、
汎砂はにこりと微笑んだ。
手燭の灯りひとつの闇にようやく慣れた目に、その笑みは不思議なほど鮮やかに映る。
同意はしない。否定もしない。
だが汎砂は『我が意を得たり』と思っている……その笑みを見れば分かる。
「事実がなんなのか、そのときには分からないこともある。だから、残しておくのですよ。なるべくたくさんの言葉を。天命を承けて天下を主宰する帝の足跡を。書額堂はそのためにあるのです」
――遙かな昔から、私が十五歳だったあのときも。そして、今も――
静かに滴る水滴のように、我々はつねに流れ続けてきた。
時代に逆らわず、その流れの行方を見極めようとしてきた――
いつのまにか窓の外は闇に塗り込められていた。
汎砂の戻ってくるはずの予定の時間はとうに過ぎている。
内乱軍の略奪など、やっかいごとに巻き込まれていなければよいが。
雨はまだ降り続いている。
ヒタン、ヒタン、ヒタン。
人の気配のないこの場所に、ただ、水の音だけが響いている――
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