第15話 おやつ

「そろそろ休憩されてはいかがですか?」

 緊張した面持ちで書き取りをしていた今上陛下きんじょうへいかは、私の言葉に顔を上げた。

 繁王朝の皇帝、繁旼鳥はんぶんちょう

 御年五歳

 私がこどものおりには、父に言われて詩聖の作や賢聖の兵法書などを筆写させられたものだが、無味乾燥な作業にすぐさま飽きたものだ。

 しかし今上はその点、忍耐強かった。

 かれこれ半刻、休まずに私が読む経書を、書き写している。

 部屋にひとつある古いラジオは調子が悪い。ラジオが使える日は、ニュースを題材にしてなにか講義をするのだが。

 時刻は日昳にってつのおわり。今風に言えば午後三時。

 折良く侍女がおやつを持ってきた。

 この食糧事情が厳しいおり、どうやって用意するのか、おやつは彼女がいつも運んできてくれる。

 限られた材料ながら毎回、工夫を凝らしていて、帝はいつも彼女のおやつを楽しみにしていた。

 今日は、芋と挽肉を餡にした饅頭がふたつ。

 笑顔が花開き、幼帝は饅頭のひとつにかぶりつく。

「美味しいね!」

 帝の素直な賞賛の言葉に、

「過分なお言葉にございます」

 と、侍女はひっそりとした笑みを口の端にのせ、静かに部屋を出る。

 皇宮は閑散としている。

 人がいないのだ。

 幼帝即位のまえから十五年続く内乱によって地方からもたらされるはずの税収は、運ばれてくる途中でどこかに消えてしまい、国庫は空だった。

 私はきょうしとして帝の側に仕えていたし、汎砂はんさ書額堂しょがくどうに詰めていたが、書額堂の書史は定員の三分の一もいない。仕事がないではなかったが、予算が付かないため、俸給が出せず、おおかたの者を郷里に帰しているのだ。

 煮炊きのまきにも事欠き、困るたびに机や椅子が姿を消した。

 その家具とて、毎年の冬の寒さを乗り切るためにあらかた使い切り、燃やせそうなものはもういくらも残っていない。

 食べ物も同じだった。

 本来ならば皇宮で必要な食べ物は皇都の長が毎日、納入してくるはずで、たしかに納入はあるのだが、必要量の十分の一にも満たない。

 惜しんでいるのではなく、ないのだ。

 いま、この国の農地は荒れ、道路は寸断され、皇都の住人もまた飢えに苦しんでいる。多少なりとも納入されていると言うだけで、都長が皇室を敬う心を忘れていないことが知れた。

 さすがに帝の食事は毎食、用意されているが、官吏の食事は一日一食しかない。

 露天の広間の石畳を剥がし、心得のあるものが農作物を育て、いくらかでも不足の分を補っている。

 私が地祇ちぎえにしを結んですでに千六百年の時が流れた。

 幼帝が立つことも、内乱が続くことも、これまで幾度もあった。

 玉座が政治の中心でなくなったこともたびたび。

 しかし今度のそれは、なにかが違うような気がする。

稀梢きしょうは食べないの?」

 あどけなく、すこし泣きそうな顔をして、しょうが私にお尋ねになる。

「私はいらないんですよ」

 まだすこし温かい饅頭ののこりのひとつを手に、私を見つめている。

ちんはもうおなかがいっぱいなので、稀梢にこれをあげる」

 毎食用意されているとは言え、たっぷりの量があるわけではない。まして育ち盛りだ。充分だと言うことはないだろう。

 まだこの国の情勢を理解することは出来ないながら、周囲の困窮を気を病んでおられる。

「ほんとうに、私は大丈夫なのですよ」

 じつのところ、私もかなり空腹なのだが、この身体になってから、普通の食べ物を食したことがない。食べられないものを頂いたとてなんの足しにもならない。

 優しいお気持ちだけで、充分だった。いまのところは。

 しょうは私の返事にすこし安心した顔をなさって、ようやく手に持った饅頭を口に運んだ。


 夜、皇宮を見て回る。

 皇宮は蝋燭の一本にすら困窮しているから、手燭が必要ない身なのはありがたい。

 衛兵の姿はない。

 身体を鍛えていて、武器を扱える彼らは食い扶持を求めて郷里に帰ったか、内乱のどこかの陣営に加わるために去って行ったか。

 人よりは頑丈な身体だとはいえ、私ひとりで出来ることは限られている。

 けれども誰の目もないよりはましだろう。

 どこかで女たちの啜り泣く声がした。獣のような吐息と、苦しげでありながらもどこか甘い嬌声。

 回廊から見渡せる庭の四阿あずまやで、木陰で、軒下で、影が重なり合って蠢いている。

 影はひとつ、ふたつではなかった。

 必要なものを手に入れるため、皇宮の女たちは身体を売っていた。

 需要はいくらでもあった。

 いまは……どこの陣営だったか、皇都にはつねに軍隊が駐留していたし、帝に仕える高貴な女を犯すのには、どうやら特別の愉悦があるらしい。

 兵士たちもまた、余裕のある食糧事情ではないはずなのに、夜ごと、皇居に通う兵士も多い。

「俺を見限るのか!」

 突然、怒号とともに短銃の発射音が、忍びやかで濃密な物音に満たされた夜を裂いた。

 勘違いした男が逆上したものか、女の心変わりを責めたものか。

 痴話喧嘩も銃が絡めばすぐに人死にが出る。

 服を乱した男がひとり、走ってきた。

 月こそ出ていたが私が灯りを持っていなかったためか、私の姿は目に入っていないらしく、眼前を走り抜けていく。

 私は彼を追った。

 時はの刻

 ちょうどいい、そろそろ空腹が耐え難くなってきたところだ。

 彼なら汎砂も文句は言うまい。


 皇宮を出たところで追いついて、地面に引き倒して手早く血を吸った。

 首をったあと、死体の始末まで済ませて、銃声のした四阿あずまやに立ち寄る。

 弾を一発、眉間にうけてほとんど素裸の女がひとり、絶命していた。

 昼、帝におやつを運んできた侍女だった。

 床にはほとんど中身の入っていない小麦粉の包みがひとつ。あとは細い芋が一本と、米がすこし。

 ――明日のおやつは、芋の粥、といったところだったか。

 小麦粉の包み紙には、遠い異国の文字が印刷されている。

 内乱の当事者たちにそれぞれ肩入れする、遠く海を隔てた国々。

 国が荒廃しても彼らの援助を受けている限り軍隊は戦える。内乱は終わることを知らない。

 国土を踏みにじられることなく、他人に戦わせている者たち。

 そして狙うのは、この国にまつわる様々な利権……

 ――まこと天は、時として酷な――

 私は見開かれた彼女のまぶたを閉じてやり、身体の下に敷くように脱ぎ捨てられていた服を羽織らせ、簡単に体裁を整えてやる。

 ――ご苦労だった。ゆっくりと休まれよ。

 彼女を殺して逃げたあの兵隊と彼女の間になにがあったのかは分からない。

 分かるのは、彼女が身体を売っていた、その理由だけ。

 千六百年生きても、分かることなどたったこれだけだ。


 翌日もまた、私は帝の書き取りを見ていた。

 今日は古いラジオの調子が良い。

 皇都にはひとつ放送局があって、正午から夕刻までだけだが、音楽と国内向けのニュースを流してくれる。

 伝統音楽番組の流す胡弓こきゅうの切々とした音楽が途切れ『臨時ニュースをお知らせします』と、女のアナウンサーの声が聞こえてきた。

東夷とういの侵略に対応すべく、白軍総統 圭薹けいとう氏、青軍首領 仁風じんぷう氏、紅軍司令 雁獲がんかく氏は、互いの利害を超えて停戦することを約し、本日、正午、歴史的協定に署名しました。これより紅白青三軍は手を携えて侵略者と戦うことになります』

 いまどき『東夷』とはまた古風な。

 時刻は日昳にってつのおわり。午後三時。

 ラジオのニュースに耳をそばだてている彼のふっくらとした頬の産毛を眺めながら

 ――ああ、そういえば今日からおやつは出ないのでしたね。

 私は、静かに溜息を吐いた。


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