第14話 裏腹


 天子松柏てんししょうはく雄月ゆうげつ皇胤こういんにして泉名元年せんみょうがんねん宝祚ほうそし給う。


 誤りに気づき、筆を止める。

 ――天子たるは宝祚ののち。

 小刀をもって竹簡を薄く削る。

 そのままでは墨が滲むので、削った表面をやすりで整えた。

 明華めいか三十年に崩御されたさきの帝、鳳雄月は、辞世の言葉を遺さなかった。

 この国の懸案は、いくつもある。

 北と西より来たる戎狄じゅうてきの脅威、東においては高河の治水、南では数年に一度、風土病がちまたを席巻し、そのたびに関を閉じねばならない……それらすべてに心を寄せず、ただ、逝ってしまった。

 私が帝の御意に逆らい記した父に関する竹簡も、帝が閲覧されたかどうかは分からないという。帝の閲覧があるまでは公式の史符しふというわけではないから、余人の目には触れぬように封緘ふうかんしてあるのだが、それは解かれた形跡があり、だれかは見たはずなのだが。

 帝の寝室の棚に積み上げられていたその竹簡は、あとで皇女松柏が『しょうこれを視ることかくなり』と添え書きし『これでよい』と決裁して書額堂に戻してきた。

 『帝はたしかにこれを視た』、松柏の添え書きが間違いないとするなら、結局、さきの帝の心を占めていたのは、兄への憎しみのみだったのだろう。

 そのことが歴史にどう残るかなど問題ではなく、自身の死の間際で、ただ我が父に死を賜うことのみに執心し、充たされて去った。

 ――松柏の添え書きがもし、嘘だったとしたら?

 この仮定は恐れ多いことだ。

 皇女ならばこそ、父に諫言かんげんはできる。直言ちょくげんし、帝のお心を変えていただくことは可能だ。

 だが、皇女といえど天子の御意を歪めてはならない。

 天子に竹書を見せず、見たことにして決裁したのだとしたら……?

 ――私を哀れんでくれたのかもしれない。

 だが仮定をもてあそぶのは止めておくべきだろう。すくなくとも彼女はあの竹書を読み、帝も読んだと証言し『是』と決裁した。

 私の父が讒訴ざんそされて不当に死をたまわった、その事実は歴史に刻まれる。

 それ以上の答えは、必要ない。


 私に、前の帝を恨む気持ちはない。

『この先おまえがなにを見て、なにを聴いたとしても、決して帝を恨まぬように』

 父の言葉は、私の胸にいまも響いている。

 ――玉座は、ときに人を惑わすものだ。

 前の帝は、その惑わしに呑まれてしまった。

 そして、三年の喪に服したあと、ひとり娘の松柏が玉座に就いた。

 三年ぶりに祝う新年に、皇都は華やいでいる。

 私が彼女に会ったのは、十三年前にいちどきり。あとで書簡ももらったけれども、結局、再会はしていない。

 いま、私は皇帝に仕える官吏の一人……書史しょしとなって鳳極城ほうきょくじょうの一角、青峰殿書額堂せいほうでんしょがくどうに勤めている。

 が、帝はこのような官の末席にある者が目通りかなうような御方ではなかった。せいぜいが儀式のおり、遠くの方でお姿を拝するくらいか。

 書額堂の上一席の地位に就く汎砂はんさのみは、彼女の幼少の時からのきょうしでもあり、帝の言葉を書き留めるべく、近侍することもあったが。

 私は地祇ちぎとのえにしを得て、人ではなくなったせいで皇位の継承権を失った。

 皇籍は失われておらず、官吏の身分とは別に、そちらの身分にかんがみると、従兄として、帝のすぐそばで着飾って澄まし顔さえできるはずではあったが、さすがに彼女の父に両親を謀殺された子である私の席を彼女の近くに設けようという猛者はおらず、さりとて叩頭はしなくていいという、おかしな立場になっている。


 松柏は雄月の皇胤にして泉名元年、宝祚し給う。


 書き直した竹簡をしばし見つめ、私は溜息を吐いた。

 皇胤といえど、登極とうきょくせねば人である。

 人としてあやまつ余地が、まだあるということだ。

 しかし天子が道を誤れば、とがめるのは天のみ。

 それすなわち国土と民を損なうということ。

「まこと、宝祚とはなんだろうな。まるで……」

 呪いのようではないか、という言葉を、私は呑んだ。

 彼女が玉座にあることを選んだ、天とはそも、なんなのだろう?

 天はなぜ、みずから選んだ者が玉座に惑うのを看過するのだろう?

 天は、人に福祚ふくそを与え、それをもって、まがつ道に誘う。

 ――禍福かふくはまさに表裏ひょうりの如きもの。

 竹簡の文字が乾いたのを確認し、麻紐で束ね、巻いて仮置きの棚に置く。

 ――あなたと比べれば、ずいぶん、気楽なものだよ、私は。

 今日の盛儀、皇帝のあかしたる鳳凰の冠を揺らして歩む彼女の姿。

 これからの彼女の治世の安泰を、非力の身ながら祈る。


『来年、稀梢きしょうさまがいらっしゃったら、ご覧に入れたいと思います』


 ふと、むかしむかし、彼女にもらった書簡の結びの言葉がまなうらをよぎった。

 ――一緒に観ることは叶いませんが、拝見しております。

 窓の外、いまだ冬の寒さを残す風が、小楢こならの枝を揺らしていた。

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