第13話 うろこ雲

 故郷に戻り、我が家の雑事の一切を取り仕切ってくれていた令尹れいいんを訪ねると、彼は私の無事を泣いて喜んでくれた。

 まったくの無事かというとそういうわけでもないのだが、見た目はしっかりしたものだから、実は一度死んでいて、いまでも心臓が動いてないとか、そのあたりのことは些末さまつなこととして黙っておいた。

 長年、父によく仕えてくれた老いた令尹に、これ以上の心労をかけるのは忍びない。

「妻は名のある料理人ではありませんから、お口には合わないかも知れませんが」

 恐縮しながらも私の好きだった小豆の菓子や、冬瓜のあつものなどを振る舞ってくれる令尹には申し訳なかったけれども、すこし腹の具合が悪いから、と断らざるを得なかった。

 人間の食べ物は食べられなくなっている。

 食べるふりくらい練習してくればよかったとは思うが、ふりがばれたら余計にややこしいことになる。

 令尹は父の書き付けの通りに、我々の住まい、南戒宮なんかいぐうにあった家財道具や衣装、装身具の類いを処分して、屋敷で働いていた者たちに暇を出す一時金に充てていた。

 南戒宮はもともと州の所有なので処分はしていなかったが、寝具のひと組さえなくからっぽなのでこちらにお泊まりください、と、令尹は自分の部屋を空けて私の寝床を作ってくれた。

 州知事の令尹だったとはいえ、暮らし向きにさほど余裕があるわけではない。

 彼の住まいも一介の農夫よりは多少、立派ではあるという程度。

 父の配慮で老後の生活には困っていないようだったが、老夫婦が下男一人とともに生活するにふさわしい、こぢんまりとした家だった。

 令尹は私の衣装や身の回りの品だけは処分せずに取っておいてくれていて「お戻りになればお返ししようと思っておりました」と厳重に封をしたひつをよっつ、私の足元に並べてくれた。

 令尹の言うとおり、櫃には屋敷に残していた私の衣装や装身具、筆記用具や部屋の小物などがすべて入っていた。正直、ありがたい。いまの私の中途半端な身分では、小物を買いそろえるのも不自由だったから。


 令尹の家から私は州庁に通った。

 ここでも私は泣いて歓迎された。

 州に知事補はふたりいて、一人は私だったのだが、知事であった父が居なくなったあと、父の代わりに州知事の役目をこなしていた知事補、斯紂きちゅうは私の手を押し戴き、「よくぞご無事で」と泣き崩れた。

 私になんの功績があったわけでもない。

 みな、私には見えていなかった父の姿を私に重ねていた。

 私のゆくところ、どこにでも父の背が見えた。

 不思議なことに……というよりは私など物の数にも入っていなかったから、というべきだろうか、私はいまだ知事補の役目を解かれておらず、州の書類を参照する権利は生きていた。

 情けないことに私にはどこをどう調べればよいか分からなかったのだが、斯紂の助けを借りて私はこの一年の、武器の流れを追った。

 父の罪は、大逆。

 武器を集め、帝に叛乱を起こそうとしていたというものだった。

 けれども、父は武器など集めてはいなかったはずだ。

 まず、それを証明する。

 武器は売買を制限されているわけではなかったが、剣、盾、矛、槍、馬、鎧、戦車などまとまった量が動くときは、すべて関所で数を数える決まりだ。

 近年、北狄と西戎が結び、そのちからが増していると言うことは、父から聞いたことがあった。父の使っていた机からは、北や西の知事たちが、麦州ばくしゅう知事である父に宛てて救援を願う書巻も見つかった。

 この国の南にある麦州が北狄や西戎の侵攻にさらされる心配はいまのところなかったが、つねに小競り合いのある州は兵士と武器の不足に悩まされている。

 軍旅ぐんりょもよおすには帝の裁可が要るため、父は兵士を送ることはなかったが州庫にある武器をたくさん、戦地に送っていた。

 秋の収穫とともに到来する敵にそなえ、初夏からその荷動きが始まっている。

 州庫に保管された州兵の正規の装備の九割が北や西に向けて出庫されていた。

 不足の分、いくらかは市井で購入し、補充し、古い武器は補修した記録もあったが、それでも州の武器庫の在庫は、万が一の事態に備えるべき武器の数の三割に満たない。

 もちろん、州庫から出した武器を父が隠匿した事実はない。

 出した武器は州の関所を通って西や北へ送られた記録が存在している。

 また、州外から武器をかき集めてきた記録もない。

 つまり……父は、叛乱を企てるための武器を持っていなかった。

 ではなぜ、父は罪を負ったのか。

 讒訴ざんそした者がいたのだ。


「県令、薙階ちかいが最近、おかしいと言う者があります」

 薄暗い州書庫を、手燭の灯りだけをたよりに目的の竹簡……武器を州庫から出したときに付けた荷札の片割れ……を探しながら、斯紂が呟いた。

「最近、急に羽振りが良くなったという噂があります。ただし彼の姻戚には海南県かいなんけんの港、我久がきゅうで大きな商いをする穀物商がいる。金の融通を受けたり、遺産をもらったりした可能性もあります。しかし……」

「あなたは、彼が怪しいと思うのだね?」

「ええ」

 斯紂が薄闇のなかで頷いた。

「昨年、十月に、彼に宛てて皇都から荷が届いた記録があるのです。皇宮のどこかの官からの荷で、帝室の封緘ふうかんがしてあったので、荷は改めませんでした。しかし県庁や州庁にならともかく、彼個人に帝室から荷が届くなど、理由が思い当たらない。そして春の内示では、彼が州知事に就くという噂があります。よほどの過失がなければ知事補である稀梢きしょうさまか私が持ち上がって就くはずなのに」

 だれかが父を讒訴した。

 むろん、調べればすぐに嘘だと分かる程度のことだった。私がすこし確認しただけで、あり得ないと分かる。

 しかし、帝は調べず、讒訴を真として父に毒をたまわった。

 なんでもいい、口実を与えた者に褒美を遣わす……

「斯紂、私はいまから県庁に行ってくるよ。たぶん、もうここには戻ってこない」

 斯紂が、雷に打たれたように顔を上げた。目を見開き、怯えたように唇を戦慄わななかせている。

 もしかすると、私の姿が怖かったのかもしれない。

 復讐者の顔を覗かせていたわけではないと、思う。

 ただ……そう、ただ、空腹だったのだ。

 汎砂は「用心深くありなさい」と私に釘を刺していたし、よくしてくれる斯紂を襲おうものなら自己嫌悪に駆られてしまうだろうが、『それ』は用心や道理をもって抑えられるたぐいの衝動ではなかった。

 死から甦ったのと軌を一にして、犬歯の代わりに新しく生えてきた牙がそろりと伸びる。

 だが、抑えた。身のうちから無尽蔵に湧き上がる衝動を、力尽くでねじ伏せる。

「心配はいらない」

「ご無理を、なさいませんよう」

 斯紂は、まるで異形の者を見ているかのように怯え強ばった表情のまま、私を見詰めてそう言った。

 私がいま、一歩、彼の方に足を踏み出したなら、彼はおそらく腰の剣を抜いたことだろう。

 もちろん彼は正しい。

 私はたしかに彼のよく知る『稀梢』だったが、人を襲って血を吸う鬼魅でもあったのだから。

「父亡きあと、ここをよく守ってくれた。感謝している」

 それが私と彼の交わした別れの言葉だった。


 あとのことはすべて些末なことだ。

 薙階は脅すまでもなくすべてを自白した。

 皇帝から遣いが来て、帝の望み通りの訴えで父をおとしいれれば、望みの褒美を取らせると言われたそうだ。

 そして彼は財を得た。

 帝室の所有する財宝に比すれば、爪の先ほどの小金で、彼は私の両親の命と自分の魂を、帝に売った。

 父の言葉が耳に甦る。

『この先おまえがなにを見て、なにを聴いたとしても、決して帝を恨まぬように』

 私は父にとって良い息子ではなかった。

 最後の最後まで、父のことを理解できぬ、出来の悪い息子だった。

 その私が出来る最後の親孝行は、父の言いつけを守ることでしかない。

 むろん、目の前でガタガタと震える薙階など、恨む価値もない小者だ。

 だが、私はそのとき、耐え難く餓えていた。汎砂の飲ませてくれた飲み物の効力はもはやなくなり、私の身体はただひたすらに人の血を求めていた。

 そして彼は、斯紂のように『殺したなら寝覚めの悪い人物』ではなかったのだ。

 薙階は翌日、県令の執務室で、乾涸らび、首を伐られた死体となって発見されることになる。


 故郷のことに整理を付けて書額堂に戻った頃には、もう季節は春めいていた。

 帝の病状はいよいよあつく、宮中も城下も、固唾を呑むようにひっそりと静まりかえっている。


『明華三十年一月、鳳犀湖ほうさいこ、海南県県令薙階の讒訴によりよしなき罪を被り、もってしょう、毒をあたう』

 

 私は初めて、竹書をしたためた。

 なにを犠牲にしても、これを歴史に遺す。

 その決意とともに。


 なにごともなく、ひとつきが過ぎた。

 新しく書かれた竹簡は汎砂が帝の高覧に供するべく、定期的に奏上している。

 汎砂がこの竹簡を奏上しに伺ったとき、折悪しく帝は薬湯を飲んで眠っておられ、皇女松柏しょうはくが「わたしが代わりに奏上しておく」と、竹簡を引き取ったそうだ。

 だからいつ帝がその竹簡に目を通すのか、汎砂にも分からないことなのだが、とはいえ、すでにひとつき。

 もうとうの昔に私の書いた竹書にも目を通したはずだった。

 不安はない。

 どんな処罰が下されようと、退くつもりはない……その覚悟があるだけだった。


 ――皇帝陛下がただいま崩御あそばされました――


 駆け込んできた帝の近侍の言葉に、書額堂の書史たちは騒然となる。

 汎砂はいない。

 こうなる予感があり、しばらくまえから皇帝の寝所に詰めていた。

 書史は、帝の最期の言葉を書き記す義務があるからだ。

 ――帝の最期の言葉とともに、ほどなく汎砂も戻ってくるだろう。

 私は小さく溜息を吐いて窓の外に目を遣った。

 うろこ雲が空を流れてゆく。

 私の前から去って行く、人々の群れ。

 私は、賭けに勝ったのだろうか。それとも意味のない意地を張っていたのだろうか……

 胸に湧いた疑問に答えてくれる人々は、いまや雲とともに空の彼方だ。

 いや、もとよりそんなことは、人に訊くようなことではないだろう。

 答えはこれから、自分で見つけるしかない。

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